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椿坂の勇者は、戦わずに勝つ  作者: 乾為天女


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第13話 担当者の“困りごと”が見えた

 七月の半ばの平日、椿坂商店街から市役所までは、自転車で十五分だった。アーケードの匂いが背中から離れるころ、舗装の熱が足元から立ち上がる。晴翔は自転車を押し、まおの歩幅に合わせて歩いた。まおは日傘をさし、もう片方の手で、折り畳んだ書類を抱えている。白い封筒の端が、汗でわずかに反っていた。


 市役所の入口は、冷房の風が真正面から当たる位置にあった。汗の粒が一斉に引いて、代わりに紙が湿り気を吸いそうになる。晴翔は咄嗟に封筒を体の内側へ引き寄せ、まおに小さく言った。

 「紙、濡らさないように」

 「うん。晴翔くんも、ポケットの紙、出して」

 「……あ」


 晴翔のポケットには、商店街で集めた“学習室を使った日”のメモが折り畳まれていた。角が丸くなり、油の匂いが移っている。晴翔はそれを出し、封筒の中へそっと滑り込ませた。まおはうなずき、窓口の案内板を見上げる。視線の動きが速いのに、足は急がない。


 廊下は長く、床がワックスで光っていた。すれ違う人が、書類の束を抱えたり、赤いスタンプ台を持って走ったりしている。走る人の靴音が、天井で跳ね返って、やけに大きい。


 晴翔は案内板の前で止まり、指で文字を追った。まおが言う。

 「前に電話したとき、施設の管理は“市民協働”って言ってた」

 「うん。……じゃあ、ここ」


 市民協働の窓口へ向かう途中、角を曲がったところで、ふと声が聞こえた。廊下の奥の、開けっ放しの扉の向こう。中から漏れてくるのは、紙がめくれる音と、ため息の混じった声だった。


 「……いや、だから、あっちに言ってもらわないと。こっちが悪者みたいになるだろ」

 「上がね。九月末って決めたら、もう動かしたくないって……」

 「こっちは条件が揃えば、検討の紙は回せるのにさ。揃わないんだよ、いつも。感情だけ来る」


 晴翔は足を止めた。まおも止まった。二人とも、見ないふりをしたまま、聞いてしまった顔になった。


 扉の向こうから、スーツの人が出てきた。腕まくりをしていて、ネクタイが少し緩い。目の下に、薄い影がある。スーツの人は廊下で一瞬だけ立ち尽くし、壁の掲示板を見上げてから、こちらに気づいた。


 晴翔は封筒を持ち直し、軽く頭を下げた。

 「椿坂商店街の、学習室の件で……お時間、少しいただけますか」

 まおも頭を下げた。日傘はたたんだまま、手元で揺らさない。


 スーツの人は、目を細めた。怒っている顔ではなく、状況を計っている顔だった。数秒の沈黙のあと、スーツの人は言った。

 「……廊下だと、通る人が多い。こっち」


 小さな打ち合わせ机のあるスペースに通され、椅子が三脚並べられた。椅子の脚が、床の線にかかっているのを、まおが指でそっと内側へ寄せた。誰も気づかないくらい小さな動きなのに、椅子の位置がぴたりと揃った。


 スーツの人が名札を指で押さえた。

 「担当の石田です。……で、学習室。張り紙、見たんですよね」

 「見ました」

 晴翔は返事を短くして、封筒を机に置いた。置くとき、角を机にぶつけないように、手首をちょっとだけひねる。


 「反対の署名とか、集めてきた?」

 石田が先に聞いた。声が少し乾いている。

 晴翔は首を振った。

 「それは……今は、持ってきてません」

 石田の眉が、わずかに上がった。まおが続ける。

 「ここで必要なものを、教えてください。石田さんが、上に出すときに困らない形にしたいです」


 石田は、口を開いたまま止まった。止まってから、笑いそうになり、すぐに喉の奥で押し戻したみたいな息をした。

 「……その言い方、珍しい」


 晴翔は、机の上の封筒を指で二回叩いた。

 「僕ら、怒鳴りに来たわけじゃないです。九月末で終わるって決まった理由が“賃貸契約が更新されない見通し”って聞きました。だから、同じ条件の中で、延ばせる道があるなら、その道の条件を知りたいです」

 「撤回じゃなくて?」

 「撤回って言うと、石田さんが困りそうなので」

 晴翔が言うと、まおが小さく息を吸った。笑いをこらえている音だった。


 石田は、顎に手を当てた。

 「……困る。正直、困る。こっちは、上から急かされてる。九月末までに整理しろって。で、商店街の人が来ると、だいたい最初に“おかしいだろ”って言う。言われたら言い返せない。でも、そこで終わる」

 石田は視線を落とし、机の端を指で二度なぞった。

 「俺が上に出せるのは、“再検討に必要な書類が揃ってる”って形だけ。感情は……会議の紙にならない」


 晴翔は封筒を開け、入っていた紙を一枚だけ取り出した。まだ何も書かれていない白紙だ。

 「じゃあ、会議の紙になるもの、教えてください。順番も。足りないところは、僕らが埋めます」

 石田は、その白紙を見て、ようやく真正面から晴翔を見た。

 「……順番、知りたい?」

 「はい。順番がわかると、迷わないので」


 石田は一度、天井を見上げた。視線の先に、冷房の吹き出し口があった。

 「まず、今の利用状況。何人が、いつ、何の目的で。次に、代替場所があるかどうか。で、賃貸契約の条件。延長できるなら、いくらで、誰が払うか。安全面。児童が使うなら、怪我が起きない工夫があるか。……あと、近隣の理解。騒音とか、ゴミとか」

 石田は指を折りながら言い、最後に指を止めた。

 「それを、俺がそのまま会議の資料に差し込める形で持ってきてくれたら、上は“検討しない理由”を作りにくくなる」


 まおが頷いた。

 「安全面は、床の白線で区切って、走らないようにしてます。椅子の足が出ないように、角に印もつけました。写真、あります」

 まおはスマホを出し、画面を見せた。写真の中で、白線の角に小さな矢印がある。椅子が内側に揃っている。石田の目が、その矢印で止まった。


 「……これ、誰が考えた?」

 「慧理香です。夜に、配置図を何十個も書いてました」

 まおが言うと、石田は頷いた。

 「じゃあ、その配置図も、添付して。安全の根拠になる」


 晴翔は、白紙に石田の言葉を箇条書きにしていった。書き終わる前に、まおがペンを取り、字の間隔を整えるように、横に短い補足を書き足す。二人の手がぶつからない距離が、最初から決まっているみたいだった。


 石田は腕時計を見た。時間は押しているはずなのに、椅子から立たない。代わりに、声を低くして言った。

 「あと……これ、言うと怒られるかもだけど。上は、面倒な話を嫌う。だから、“誰かを悪者にする文”は入れないで。貸主が悪い、市が悪い、って書いた瞬間に、紙が止まる」

 晴翔はペンを止めた。

 「……それ、わかります」

 「わかる?」

 「商店街で、甘い派が塩辛い派を貶すと、味の話じゃなくて喧嘩になります。喧嘩になると、手が止まる」

 石田は、ほんの少しだけ笑った。

 「似てるな」


 廊下の向こうで、コピー機が鳴った。誰かが走り、書類が風でめくれる音がした。石田の肩が、わずかにすくんだ。まおが言った。

 「石田さんも、帰るまで走ってるんですね」

 「……走ってる。で、走ると、間違える」

 石田は自分の胸ポケットを叩いた。

 「だから、誤字脱字、やめてほしい。数字とか、日付とか。会議の人は、そこだけ見て止めるから」

 晴翔は頷いた。

 「慧理香に、夜のうちに見てもらいます」

 「夜?」

 「彼女、夜しか動けない時間があって……その代わり、見つけるのは速いです」

 石田は、頷いた。

 「……じゃあ頼む。俺は、揃った紙が欲しい。揃った紙なら、守れる。……守りたいなら」


 最後の一言が、石田自身に向けた言葉みたいに聞こえた。晴翔は封筒を閉じ、頭を下げた。

 「今日、教えてくれてありがとうございます。石田さんが困らない形で、持ってきます」

 まおも頭を下げた。

 「次に来るときは、椅子の脚も揃えるみたいに揃えてきます」


 市役所を出ると、外の熱が、さっきより強かった。まおが日傘を開き、晴翔の肩も影に入れる。晴翔は、さっき書いた白紙を見た。紙の上には、石田の“順番”が並んでいる。順番があるだけで、足元が固くなる気がした。


 その日の夜、学習室の机の上には、紙が何枚も広がった。慧理香は視線を落とし、赤ペンで小さく丸をつけていく。丸のつけ方が速いのに、線がぶれない。まおは白線の内側に資料を置く位置を決め、晴翔は石田の言葉を一つずつ“会議の紙”に直す。


 遅い時間、入口のドアが小さく鳴った。佑人が入ってきた。額に汗が残っている。手には、文具店の袋があった。

 佑人は何も言わずに袋を机の上へ置き、封筒とクリアファイルを取り出して並べた。透明の端が、月光をわずかに返した。


 晴翔が見上げると、佑人は帳面を開きもしないで、短く言った。

 「……揃えるんだろ」

 「うん。揃える」

 晴翔が答えると、佑人は一回だけ頷き、椅子に座った。座るとき、椅子の脚が白線から出ないように、足先で位置を微調整した。


 慧理香の赤ペンが止まった。咳払いは聞こえない。代わりに、紙を揃える音がした。四隅がぴたりと重なり、まおが小さく息を吐く。


 怒鳴らない代わりに、紙を揃える。誰かを悪者にしない代わりに、順番を守る。

 晴翔は、封筒の角を指で押さえた。暑さで反っていた端が、机の重みで真っすぐになっていく。



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