第12話 慧理香の改善案が、笑いを連れてきた
七月上旬の放課後、椿坂商店街のアーケードの外で、蝉が一匹だけ早起きして鳴いた。まだ本番の合唱じゃない。試しに声を出して、周りの反応を見ているみたいな鳴き方だった。
学習室の鍵を開けると、空気が一度だけひんやりしてから、紙と木の匂いが追いかけてくる。もともと図書館の分室だった場所だから、床板が歩くたびに小さく鳴る。まおは入口で靴をそろえ、白線の内側に一歩だけ足を置いてから、周りを見回した。
「……え?」
机が、いつもと違う。
四角い机が列になっていたはずなのに、今日は斜めに組まれて、島が三つできている。通路が広く見える一方で、椅子の足が白線ぎりぎりまで寄っているところもあった。
晴翔は入口で足を止め、目だけで室内をなぞった。誰かを探すときの目じゃない。何が起きたかを分解する目だ。まおの隣で、佑人も同じように見ていた。胸ポケットの小さな帳面を指で押さえながら。
机の角を指でなぞる音が、奥からした。
慧理香が、いつもの席の横に立っていた。視線は床の白線に落ちたまま、手だけが忙しい。机の端を指で確かめ、椅子の位置を三センチ動かしては、また白線を見る。
まおが言った。
「慧理香、これ……」
慧理香は口を開きかけて、一拍置いた。言葉を出す前に、机の角をもう一度なぞる。角が丸くなっている場所で指が止まり、そこから小さく息を吐いた。
「……通るところ、広いほうが……」
晴翔が頷いた。
「転びにくくなる、ってこと?」
慧理香は頷く。頷き方は小さいのに、首は引っ込めない。ノートを開き、ページを指で押さえた。鉛筆の線がぎっしりで、図がいくつも描いてある。机の形、椅子の向き、子どもが立つ位置。白線は太く描かれていた。
そこへ、ランドセルの肩紐が跳ねる音が入ってきた。
「ただいまー!」
小学生の男の子が、靴を脱ぎながら勢いよく入ってきた。いつもなら入口の横で止まるのに、今日は通路が広く見えたせいか、走る方向が変わる。机の島の間を抜けようとして――椅子の足に、つま先が引っかかった。
体が前へ倒れる。
「おっと!」
晴翔が、反射で動いた。コロッケを揚げるときの手つきに似ていた。急ぐのに、雑じゃない。腕が伸び、男の子の胸のあたりを受け止め、床にぶつからない角度で支える。ランドセルが背中でぐらりと揺れて、止まった。
男の子は目を丸くし、次の瞬間、へへ、と笑った。
「ごめん!」
「いい。……走らない」
晴翔が言うと、男の子は素直に頷いて、指で椅子の足をちょんと触った。
「これ、ここに出てた」
まおがしゃがみ込み、椅子の足を白線の内側へ押し込んだ。押し込み方が、机を動かすときの“音を立てない”動きだ。子どもの目線に合わせて、まおは言う。
「白線の中は、みんなの場所。白線の外は、走ってもいい場所。……ここは、どっち?」
男の子は白線を見てから、足を揃えた。
「中」
「うん。じゃあ、歩く」
男の子が歩き始めた、その背中の向こうで――慧理香の肩が、ほんの一瞬だけ跳ねた。
「……っ」
声が漏れた。笑い声だった。ほんの一粒だけ、転がったみたいに。
次の瞬間、慧理香は咳払いをした。咳払いの音が少し大きくて、わざとらしい。でも、誰も指摘しない。まおだけが、口の端を上げたまま、慧理香を見た。
「今の、聞いた」
慧理香は視線を落とした。落としたまま、逃げない。ノートを胸に抱え、頷いた。頷くとき、指がノートの角をぎゅっと押している。
佑人が、机の端に置かれた椅子を無言で持ち上げた。持ち上げて、白線の内側へ入れた。椅子の足が床板を擦らないように、持ち上げる高さが一定だ。置くときも、音がしない。
晴翔は、慧理香のノートの図を覗き込んだ。近づくけど、覗き込む距離は短い。本人が引ける前に、さっと引く。
「この配置、悪くない。通路は広いし、見通しもいい」
「……でも」
「椅子の足が出ると危ない。だから、ここだけ直す」
晴翔は指で床を示した。白線の角。椅子が置かれやすい“癖”の場所だった。
「ここに印つけよう。テープ、ある?」
「……ある」
慧理香は、机の引き出しから養生テープを出してきた。出し方が早い。前から用意していた手つきだ。まおがにやりとする。
「準備、してたね」
慧理香は返事の代わりに、テープをちぎった。ちぎり方が丁寧で、端が揃っている。まおは床に膝をつき、テープを白線の内側に沿わせた。晴翔は角に小さく矢印をつけ、佑人は無言で椅子を一脚ずつ合わせていく。
作業を見ていた男の子が言った。
「矢印、かっこいい。ダンジョンみたい」
「ここはダンジョンじゃない」
「じゃあ、なに?」
「教室」
「教室なら、宝箱ある?」
「宝箱は……」
晴翔が言いかけて、惣菜店の紙袋を思い出した。今日の差し入れは、残り物のコロッケじゃなくて、小さな焼き菓子だ。まおが許可するかどうか、目で聞く。
まおは一瞬だけ眉を動かし、白線の外に置いた箱を指で示した。
「宝箱は、そこ。白線の外で開けてから、中に持って入る」
男の子が「りょうかい!」と敬礼して、箱の前でしゃがんだ。白線を踏まないように、片足だけ外に出して体を傾ける。滑稽なのに、真剣だ。晴翔は笑いそうになって、喉の奥で止めた。
佑人が小さく言った。
「……守れてる」
誰に向けた言葉か、わからない。帳面に書くための確認みたいでもあるし、自分に言い聞かせているみたいでもある。晴翔は、その声を拾うように頷いた。
作業がひと段落すると、慧理香はノートを開いたまま、机の端に置いた。開いたページの隅に、小さな文字がある。「笑い声が出たら、咳払いで隠す」と書いてあって、その横に二重線で消されていた。
まおが気づく。気づいても、声に出さない。代わりに、慧理香のノートの横へ、白い紙を一枚置いた。紙の上に、まおは太めのペンで書く。
「気づいたこと 書いてください」
慧理香が目を上げた。まおは肩をすくめるみたいに言う。
「ひとりのノートだと、夜にしか増えない。みんなの紙だと、昼にも増える」
晴翔が笑った。
「……いい。『切り取られない形』の仲間だ」
佑人が紙をじっと見てから、ポケットからペンを出した。帳面じゃない。安いボールペンだ。紙の端に、短く書く。
「椅子の足、白線から出さない」
書いたあと、佑人は自分の字を見直し、二回だけ頷いた。誰にも見られていないふりをしながら、でも紙の真ん中へ少し押し込む。
慧理香は、その字の横に、自分の字で小さく足した。
「出たら、矢印の内側へ戻す」
書き終わってから、慧理香は一拍置き、まおのほうを見た。まおは、今度は声に出さずに、にやりとした。慧理香の口元が、ほんの少しだけ動く。声は出ない。でも、咳払いもしなかった。
窓の外で、蝉がもう一度鳴いた。今度はちょっとだけ長い。学習室の中の小さな動きが、夏の始まりに追いついたみたいだった。




