第11話 塩辛い本音は、甘いほうじ茶プリンで落ち着く
六月下旬の夜。惣菜店のシャッターが下り、表の通りの明かりがちょっとだけ薄くなる頃、裏口の小さな台所だけがまだ温かかった。
揚げ油の匂いに、ほうじ茶の香りが混ざる。晴翔はシンクに肘をつかず、手を動かしながら耳だけを外へ向けていた。来る足音の硬さで、相手の気持ちがだいたいわかる。
コツ、と一つ。靴底が遠慮なく鳴った。
佑人が裏口の戸を開け、胸ポケットの帳面を握ったまま立ち止まる。挨拶より先に、視線が台所の隅の椅子を数えた。二つ。逃げ道は一つ。
晴翔は濡れた手をタオルで拭き、何も聞いていないふりで言う。
「座る?」
「……用は、ない」
言いながら佑人は椅子の背に指を掛け、引かない。帰る、と言うより、帰れないと言っている動きだった。
そのとき、裏口の外からもう一つ、軽い足音がした。まおが両手に小さなトレーを持って入ってくる。皿の上には、透明なカップが三つ。上に乗った生クリームが、台所の明かりでふわっと光った。
「閉店後に呼びつけたの、私じゃないからね」
「俺だよ。俺が、呼んだ」
晴翔が言うと、まおは眉を動かすだけで責めない。トレーを台の端に置き、カップを一つずつ、等間隔に並べた。並べ方が、学習室の机みたいにきっちりしている。
「ほうじ茶プリン。甘いけど、後味は……たぶん、落ち着く」
佑人はカップを見た。目は一瞬で離れるのに、帳面を持つ手がわずかに緩んだ。
晴翔はスプーンを二本、余計に触らないように持ち、音を立てずに差し出す。まおは三本目を自分の手元に置き、椅子を半歩だけずらして座る。相手の正面じゃなく、斜め。逃げる方向を塞がない位置だ。
「昨日さ、舌打ちしてたろ」
晴翔が言うと、佑人の指が帳面の角を押さえた。強く押すのに、紙が折れないように。
まおが口を開く前に、晴翔が先に続ける。
「言いたいことがあるなら、今日にしない? ここ、線も星もないから。からかわれない」
「……それが、信用できないって言ってんだ」
佑人は帳面を開く。ページの端に、日付が小さく並んでいた。四月の雨の文字も、六月の蒸し暑い文字も、同じ太さで書いてある。
佑人は一行だけ指でなぞり、声を出す前に息を吸った。
「俺がここ、嫌いって言ったのは……人が減ったとか、そういう話じゃねえ」
まおが頷く。頷き方が「続きを聞く」の合図で、途中で口を挟まないと言っている。
佑人はページを一枚戻した。夜、と書かれた行で指が止まる。
「……あの夜。子どもが泣いた。大人が、笑った」
晴翔は聞き返さない。続きを待つ形で、コップの水滴を指で拭いただけだ。
佑人の声がちょっとだけ低くなる。
「机の上で、誰かが言ったんだよ。『あの子、うるさい』って。聞こえる声で」
言葉の角が、台所の壁にぶつかって跳ね返るみたいに刺さった。ほうじ茶の匂いが、一瞬だけ遠のく。
佑人は帳面を開いたまま、指先で行を叩く。
「俺は言った。『そういう言い方、やめろ』って」
まおのスプーンが、カップの縁に触れて小さく鳴った。怒りじゃない音。確認の音だ。
佑人は続ける。早口にならないように、わざと一語ずつ切る。
「そのあとだ。俺の『やめろ』だけが切り取られて、次の日には『佑人が怒鳴った』『怖い奴だ』って広がった。泣いた子は……ここ、来なくなった」
晴翔の胸の奥が重くなる。責めたい相手の顔が浮かびかけて、すぐに引っ込めた。今はそれを出す場所じゃない。
佑人は笑わない。笑わないのに、目の端が赤くなるのを隠すように、視線をカップに落とす。
「誰も止めなかった。『まあまあ』って、笑って終わらせた。……俺は、それがいちばん嫌いだ」
まおが静かに言う。
「『まあまあ』で、ひとが一人、いなくなるのは、だめ」
短い言葉なのに、佑人の肩がわずかに下がった。認められた、というより、否定されなかった、と体が知ったみたいに。
晴翔は息を吐いてから、言い方を選ぶ。勝ち負けの形にしない。相手が持ち帰れる形にする。
「許せ、とは言わない」
佑人の目が、ほんの一瞬だけ上がる。
晴翔はそこで止まらず、続けた。
「でも、事実を、同じ形で持とう。切り取られない形で」
「……形?」
佑人の声に、疑いの尖りが残る。
晴翔は台所の壁に掛かったメモ板を指差した。そこには「コロッケ二十」「唐揚げ五十」みたいな短い数字が並んでいる。誰の感情も入っていないのに、必要なことだけ残る書き方だ。
「例えば、今日みたいに。いつ、どこで、誰が、何を言ったか。『やめろ』だけじゃなく、その前の一言も、泣いた子の顔も……書けるなら、全部。俺とまおと佑人で、同じ文章にして残す。勝手に省略しない」
まおがカップを佑人のほうへそっと押す。押し方が、試食皿を差し出すときみたいに前へ出て、でも押しつけない距離で止まった。
「食べてからでいい。甘いものは、言葉を細くしてくれる」
「そんなこと、あるかよ」
佑人は言いながら、スプーンを取った。取ったのに一拍置く。拒否したいのに、拒否し切れない手つきだ。
一口すくって口に入れる。ほうじ茶の香ばしさが、揚げ物の匂いの上に薄い布みたいにかぶさった。
佑人の喉が、小さく動いた。もう一口。スプーンが止まらない。
晴翔が思わず言う。
「……塩辛い本音、落ち着いた?」
「本音じゃねえ。本……?」
佑人が眉をひそめた瞬間、まおの咳払いが先に出た。隠す咳払いじゃない。笑いを閉じ込める咳払いだ。
晴翔も気づいて、手を口元に当てる。
「ごめん。『塩辛い本』って、なんだよな。しおからの児童書、売れないな」
「タイトルだけで、子どもが逃げる」
まおが言い、視線を落としてから肩を少し震わせた。笑ってるのに、笑い声を大きくしない。
佑人は「くだらねえ」と言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。代わりに、カップの底のほうまでスプーンを入れる。甘さが残らないように、きっちりすくう。
そして、急に片手で目をこすった。こする力が強いのに、乱暴にならない。涙を怒りに見せたくない手つきだった。
晴翔は見なかったふりで、メモ板の横の紙を一枚剥がし、ペンを取る。
「じゃあ、今日の分、書く」
紙に、ゆっくり書く。六月下旬。惣菜店の裏。夜。晴翔、まお、佑人。
佑人が「俺が言った言葉は、切り取られた」と言った。まおが「まあまあはだめ」と言った。晴翔が「同じ形で持とう」と言った。
書き終える前に、佑人が帳面を閉じた。ぱたん、と音はするのに、角が痛まないように手のひらで押さえる。昨日と同じ閉じ方だ。
佑人はカップのふたを指で押し、空になったのを確かめてから言う。
「俺、許さねえ。あの夜のことも、切り取ったやつも」
「うん」
まおが即答した。止めない、という返事だ。
佑人は続ける。声は小さいのに、言い切る。
「でも……同じ形で持つなら。もう一回、ここに来てもいい」
晴翔はペン先を置いて、顔を上げた。返事を急がない。今の言葉の重さを、相手が自分で持てるように。
外で、どこかの店のシャッターが最後まで下りる音がした。金属の擦れる音が、梅雨の湿った空気に吸われて小さくなる。
晴翔はメモを壁に貼った。誰でも見える位置じゃない。台所の内側。勝手に切り取られない場所。
まおが立ち上がり、空のカップを重ねる。重ね方が丁寧で、最後にふたを一つ、洗い場へ置いた。
「明日、学習室で。白線の外で、話そう」
「……踏まねえよ」
佑人が短く返し、裏口の戸に手を掛けた。出ていく直前、振り向かずに言う。
「ほうじ茶……悪くなかった」
それだけ言って出ていった。礼の形じゃないのに、礼に聞こえた。
晴翔は台所の明かりを落としながら、心の中でだけ合言葉を言った。
勇者だけど、できれば戦わずに勝ちたい。
勝つっていうのは、誰かを倒すことじゃなくて、切り取られた言葉を、切り取れない形に戻すことだ。




