第10話 恋のスタートライン、二本目
六月中旬の放課後、学習室の床は、いつもより白かった。
白線が一本増えていた。子どもたちが、マスキングテープをまっすぐ貼って、上に黒いペンで書いてある。
――ここからは 大人が正直になるゾーン。
机の上には、図書カードのケースが置かれていた。中身はカードではなく、星の形に切った色紙がぎゅうぎゅうに詰まっている。星の角が折れないように、透明の下敷きも添えてあるあたりが、妙に丁寧だ。
「正直になると、星がもらえるから!」
ランドセルを背負ったままの子が、胸を張った。別の子が、図書館のスタンプみたいな丸い朱肉をポン、と叩く。
「今日の本音、ひとつ。言えたら、星一個! 嘘ついたら、星没収!」
晴翔は入口で足を止めた。靴の先が、ちょうど白線の手前で止まる。
笑いがこみ上げる。だが、笑っていいのかどうか、空気を一度なぞる。白線は遊びのはずなのに、うっかり踏んだら、何か大事な約束まで踏み抜きそうな気がした。
晴翔が「じゃあ俺、正直に言うわ」とわざとらしく息を吸って、つま先を線へ寄せた瞬間だった。
袖が、くい、と引かれた。
まおが晴翔のパーカーの袖口をつかんで、引き戻すように止めている。止めているのに、指先が離れない。
「今日は、まだ入らない」
まおはそう言って、つかんだまま、晴翔の袖をわずかに整えた。しわを伸ばす動きが、落ち着きすぎていて、晴翔のほうが落ち着かなくなる。
「え、なに。俺、正直になるの、似合わない?」
冗談にして逃げ道を作ろうとしたのに、まおは視線をそらさない。机の角を一度確認するように見てから、子どもたちのほうへ向き直る。
「正直を言わせて笑うのは、だめ。星を集めるために、人を困らせるのも、だめ」
「えーっ」
「星没収、されるぞー!」
子どもたちが勝手に盛り上がり、机が少し揺れた。まおはすぐに椅子を半歩動かして、揺れが広がらない位置に直す。いつもの手順で、空気の角を丸くする。
そのとき、入口の外から、靴底の音が一つ、固めに鳴った。
佑人だった。胸ポケットから小さな帳面を出して、開くより先に、まおの手と晴翔の袖を見て、舌打ちが漏れる。
「……くだらねえ線、増やして」
言い方は尖っているのに、佑人は白線を避けて歩いた。踏まない。踏まないのに、わざと机の脚を指で弾いて、カン、と音を立てる。
晴翔は言い返さなかった。かわりに、星の色紙を一枚つまんで、裏を見た。そこに小さく「名前は書かない」と書かれている。
「いいね。これなら、誰が言ったかで笑わない」
まおの指が、まだ袖に残っている。晴翔はその手が離れるまで待つように、ゆっくりと星を机に戻した。
「じゃあ、ルール、こうしよ。正直は一個だけ。相手の正直を、からかわない。星は……今日の片づけを手伝った人にも一個」
「ずるい!」
「ずるくない! 片づけは本当!」
子どもが叫び、別の子が「星、ほしい」と素直に言って笑いが起きた。笑いが起きても、誰かを落とす笑いじゃない。晴翔は胸の奥が少し軽くなる。
部屋の隅で、慧理香がノートを開いていた。目は下を向いたまま、指先が机の角をなぞる。ペン先が動いたのは、まおが袖をつかんだまま、ほんの少し顔を上げた瞬間だった。
慧理香は一行だけ書く。
――目線が上がる瞬間。
そして、すぐに咳払いをして、何事もなかったふりでページをめくった。
「晴翔くんも、正直、言って」
子どもが星を差し出して迫ってくる。まおの手が、袖をつかんだまま、ちょっとだけ力を入れた。止めるのか、背中を押すのか、わからない力だ。
晴翔は白線の外側で、息を整えた。口から出る言葉を、いくつにも切り分けて、角が刺さらない順に並べる。
「……俺、怖い」
「えっ」
子どもたちが一斉に静かになる。星の色紙が、机の上で風もないのに揺れた気がした。
「九月のこと。ここがなくなるかもしれないって、紙で読んだときも怖かったけど……最近、もっと怖くなった」
まおの指先が、袖の布をつまんだまま、ほどけない結び目みたいになる。
「親父の写真が出てきてさ。俺、知らないことだらけで。守るって言ってるのに、守り方、間違えたらどうしようって」
誰かを責める言い方を、わざと避ける。相手が受け取りやすい形にして渡す。それでも、言ってしまった本音は、少し重い。
すると、子どもが手を挙げた。
「その正直、三行じゃない!」
「え、税金?」
「正直税! 麦茶一杯!」
大人の胸がきゅっとなる手前で、子どもの声がそこをくすぐった。笑いが戻り、まおが小さく息を吐いた。怒るかわりに、机の上の麦茶のポットを持ち上げる。
「じゃあ、麦茶。税、払って」
まおは晴翔にコップを渡すときも、袖を離さなかった。指先が、離れそうで離れない。
晴翔はコップを受け取りながら、まおの顔を見た。白線の中には入っていないのに、今のほうがずっと正直だ。
「まおは?」
「……私も」
まおは言って、言葉を一度飲み込むように唇を閉じた。白線の文字を見てから、晴翔の袖をつかんだまま、ゆっくり続ける。
「鍵が閉まる音が、苦手。昔、図書館の分室が閉まったとき、最後の鍵の音だけ、今でも覚えてる」
晴翔は、その言い方が、泣き言でも、怒りでもないことに気づいた。事実を、そのままの形で置く言い方だ。相手が拾えるように。
佑人が、帳面をぱたんと閉じた。強く閉じたのに、角が折れないように手のひらで押さえる。誰にも聞こえない声で「……そうかよ」とだけ言って、椅子を二脚、無言で並べ直した。
「手伝ってない」と言いそうな動きなのに、手伝い方だけは丁寧だ。
慧理香がその様子を見て、ほんの一瞬、笑い声が漏れた。すぐに咳払いで隠すが、まおの口元がわずかに上がる。
「よし。じゃあ、今日の正直は、ここまで」
まおが宣言すると、子どもたちは「はーい」と返事をした。星の色紙が、机の上の箱に一枚ずつ落ちる。名前はない。誰も、誰かを当てようとしない。
晴翔は袖をつかまれたまま、白線の外側に立っていた。
恋のスタートラインが一本目なら、今日は二本目だ。踏み越えなくても、手が離れない。それだけで、前に進んでいる気がした。




