第1話 勇者、商店街で剣を抜かない
椿坂商店街のアーケードは、夕方になると匂いが二段重ねになる。上の段は焼き立ての和菓子の甘さ、下の段は揚げ物の油の香り。三月下旬の冷たい風が入口からすべり込み、熱気と混ざって、鼻の奥で春になる。
惣菜店の前に、いつもより人が集まっていた。揚げたてのコロッケが揺れる紙袋の列が、なぜか、魚屋の前まで伸びている。
魚屋の店主が、軍手のまま指を振っていた。
「団子は甘けりゃいいってもんじゃないんだ。塩が効いてこそ、うまいんだよ!」
和菓子屋の店主が、粉のついた手を腰に当てた。
「魚のくせに、甘さがわからないのか! 団子は心を丸くする甘さが命!」
周りの大人が「いけー」「やれー」と半笑いで煽り、子どもたちは面白がって、空のトレイを太鼓のように叩いた。誰も本気で止める気はない。でも、本気で傷つく一歩手前の熱が、空気に立ちのぼっている。
その熱のど真ん中を、晴翔は、コロッケの紙袋を抱えたまま通りかかった。
惣菜店の奥から「晴翔くん、今日も…」と声が飛んだが、晴翔は手を上げて返すだけで足を止めない。視線は、魚屋と和菓子屋の間に落ちたままの、“どうしたらいいかわからない空白”に吸い寄せられていた。
晴翔は、二人のあいだに割って入らなかった。
代わりに惣菜店の試食台から、紙皿を二枚、トングでそっと取った。コロッケの端を小さくちぎり、団子の試食も一切れもらって、皿の上に並べた。
そして、紙皿を、二人のあいだに置いた。
「口より先に、食べよ」
魚屋が「は?」と眉を動かし、和菓子屋が「なにを」と息を吸う。
晴翔は、笑いを取りにいくときの顔でも、説教をするときの顔でもなく、ただ、真面目に紙皿を押し出した。
「甘いって言ってる人に、塩の良さを説明してもさ。塩辛いって言ってる人に、甘い良さを説明してもさ。喉が疲れるだけじゃん」
周囲から「確かに」「喉が」「まず食え」と小さな笑いが起きた。煽っていた大人が、途端にコロッケを見つめる顔になる。子どもは「食べるの?」と目を輝かせる。
魚屋が紙皿をにらみ、和菓子屋が紙皿をにらむ。二人とも、意地のまま動けない。
晴翔は紙皿の脇に、自分のコロッケの紙袋をそっと置き、ちょっとだけ声を落とした。
「……負けたって言わなくていい。どっちも、うまいって言えばいい」
魚屋が、ふん、と鼻を鳴らしながら、コロッケをつまんだ。噛んだ瞬間、目がほんの少しだけ丸くなる。
「……悪くねえ」
和菓子屋が、団子を口に入れ、ほんの一拍遅れて、口角が動いた。
「……まあ、確かに、塩があると甘さが立つ」
二人の背中が、ほんの一センチだけ、肩の角を落とした。その一センチで、商店街の空気が息をついた。
晴翔は、そこで初めて、軽く冗談めかして言った。
「俺、勇者だけど。できれば戦わずに勝ちたいんだよね」
「なにそれ」と誰かが笑い、魚屋が「勇者なら魚を売れ!」と突っ込み、和菓子屋が「勇者なら団子も買え!」と乗った。喧嘩は、いつの間にか、商売の宣伝に姿を変えていた。
そのとき、アーケードの外れから、紙が擦れる音が近づいた。
まおが、両手で一枚の張り紙を持って立っていた。走ってきたのか、前髪が少し乱れている。けれど、呼吸は不思議なくらい整っていた。口を開く前に、店先の椅子を一つ、ほんの少しだけ横へずらし、人の通り道を作ってから、晴翔の前へ来る。
「これ……見た?」
張り紙の角は、何度も折り返されて白くなっていた。
大きな文字で書かれている。
「九月末で 使用終了」
晴翔の胸の奥が、コロッケの熱とは別の熱で、じわっと温まってしまった。笑いが残っている場所に、紙一枚で、急に冬が来たみたいだった。
「学習室、閉まるの?」
まおは、首を縦に振るだけでなく、張り紙の裏側を指で押さえて見せた。印刷のないところに、手書きの走り書きがある。
「利用者が減ったから、じゃない。……建物の契約が、更新できない見通しなんだって」
その言い方は、誰かを責める形じゃなかった。ただ、手元の紙にある事実を、目の前に置いた感じだった。まおの指先が、紙の端を軽くなぞる。何かを“線”として確かめる仕草だった。
周りの大人たちの笑いが、ぱらぱらと床に落ちる。子どもたちが口をつぐみ、紙袋を握りしめた。
晴翔は、張り紙の文字を、もう一度、目でなぞった。九月末。三月下旬。半年ちょっと。長いようで、短い。
魚屋が「市のやつか」と唸り、和菓子屋が「またか」と眉を寄せる。誰かが「怒鳴り込むか」と言いかけた。
その言葉が、喉の手前で止まるように、晴翔が先に口を開いた。
「怒鳴り込んでも、相手が固くなるだけだと思う」
まおが、まっすぐ晴翔を見た。視線だけで「卑怯なやり方はしない」という釘が刺さる。言葉にしないのに、伝わってくる。
晴翔は、紙皿の上の残りを指で示した。
「さっきみたいにさ。勝ち負けじゃなくて、相手が再検討しやすい形に整えたら、話が動くこと、あると思う」
魚屋が「整えるって何だ」と言い、和菓子屋が「言い方だけで変わるか」と鼻で笑う。
晴翔は、すぐ答えなかった。惣菜店のショーケースの前で、夕飯の品を迷っている親子が目に入る。子どもが背伸びして、揚げ物の札を指さす。母親が、財布の中を確かめる。そんな当たり前の光景が、学習室にもあるのを晴翔は知っていた。宿題を広げる子ども、隣で見守る大人、机を拭く手。そこが無くなると、夕方の居場所が一つ消える。
晴翔は、まおに向けてだけ、わずかに声を柔らかくした。
「戦わずに勝つ手、探そう」
まおは、張り紙を抱え直し、頷いた。頷き方は小さいのに、足元が動かない。逃げない重さがある。
晴翔は、惣菜店の袋を掲げて、魚屋と和菓子屋に向き直った。
「とりあえず、今は喧嘩の続きじゃなくてさ。……次、みんなが笑って集まれる形、作ろう。甘い派も塩派も、同じ列に並べるやつ」
魚屋が「甘い派とか言うな」と言い、和菓子屋が「塩派でもない」と言う。二人とも否定しているのに、声の温度だけは、さっきより低かった。
誰かが「じゃあ、試食会か」と呟いた。
子どもが「読み聞かせも」と口走り、すぐに自分の口を両手で塞ぐ。
まおが、その子の頭を一度だけ撫でた。撫で方は短い。けれど、子どもの肩がふっと下がった。
晴翔は、アーケードの奥、学習室がある方向を見た。あそこに、小さな部屋がある。床に白線が引かれている。そこを守るために、剣を抜かずに済むなら、抜かない。
コロッケの紙袋を抱え直し、晴翔は言った。
「今日のところは、夕飯を買って、頭を冷やす。明日、まお、学習室で話そう。何を揃えれば“続けられる”って言えるのか、順番に」
まおは、張り紙を胸に当てたまま、小さく息を吐いた。
「うん。明日、放課後。……ここ、歩けるようにしとく」
まおが、さっきずらした椅子をもう一度少し動かし、人の流れを作った。誰かのための通り道ができると、商店街の音がまた戻ってくる。
魚屋が「団子、明日持ってこい」と言い、和菓子屋が「魚も焼いてこい」と言い返す。周りの大人が笑い、子どもたちが「やったー」と叫ぶ。
晴翔は、胸の奥の冷たいところに、ほんの少しだけ温かいものが落ちた気がした。
戦う前に、食べる。
怒鳴る前に、整える。
椿坂の夕方は、まだ、終わっていなかった。




