溺れる深海魚
夢——それは生きる目標であり、希望であり、
まだ見ぬ世界への願いのようなもの。
暗く、冷たく、静かな深海。
そこでは生き物たちが最低限のエネルギーで命をつなぎ、
無駄な動きを避け、次にいつ訪れるかわからない食料を逃さぬよう
じっと息を潜めて生きている。
その深海の片隅に、ひっそりと生きる一匹のさかながいた。
彼もまた生態系の小さな一部にすぎず、
“生き方”に疑問を抱くことも必要としなかった。
ある日、そのさかなは白い“骨”を見つけた。
深海の生き物のどれとも似ていない形。
どこから落ちてきて、どう流れ着いたのか——
考えてもわからない。
ただ、食べられるものがないかと近づいた、そのときだった。
(こんにちは。ここはとても静かで、安心するね。)
声が、脳の奥に直接響いてきた。
驚いたさかなは周囲を見回す。
「誰?どこにいるの?」
(ここだよ。君の目の前に。)
目の前には、“生き物だったもの”があるだけだ。それは、光の届かないこの世界で、白く光を放っているように見えた。
「......君が?」
(そう。)
理由はわからない。
深海のどこを探しても、こんな現象はなかった。
だからこそ、さかなは余計にその声に惹かれた。
骨は語った。
深海よりずっと上にある、光の届く世界のこと。
「そら」という果てのない青。
陽の光を浴びながら鮮やかな緑色の「しばふ」の上で食べる
ふわふわの「さんどいっち」の味。
さかなにはどれも想像がつかない。
「そら」も、「しばふ」も、「さんどいっち」も、生まれてから一度も見たことがない。
けれど、骨があまりに楽しそうに語るから——
深海では決して湧かない種類の感情が、胸の奥に生まれた。
わくわく、という名の温かい泡。
いつしかさかなは、骨が話す世界に行ってみたいと思うようになった。
その物語は、さかなにとって“夢”と呼べるものになっていた。
ー
ここは海沿いの小さな町。
住むぶんには不便はないけれど、特別なものは何もない——
ありきたりな田舎だ。
日中は子どもたちが道路を走り回り、
夜の九時になれば、街灯だけが頼りの真っ暗な世界になる。
海の音と虫の声が混ざり合うその静けさは少し不気味だが嫌いではなかった。
私は琴平 白。高校2年生。
名前のせいで、みんなからは昔から「しろ」と呼ばれている。
顔立ちは「さっぱりしていて綺麗」とよく言われるけれど、
自分ではあまり実感がない。
たぶん、私は“はっきりした何か”を持つのが得意じゃない。
小さいころから、流れる水みたいに、
周りの声や空気に合わせてきた。
ただ――ひとつだけ、うまく言葉にならない気持ちを
自分の形にする時間があった。
絵を描いているときだけは、
静かに自分の輪郭が浮かび上がる気がする。
上手いわけじゃない。
でも、色や線が自分の呼吸とつながっていく感覚が好きだ。
「しーろ!」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返る前から誰かは分かっている。
石屋 梨花。幼稚園の頃からずっと一緒に、この町で育ってきた親友だ。
太陽みたいに明るくて、気持ちがすぐ顔に出て、いつも話題の中心にいる子。
笑い合いながら廊下を歩いていると、
隣のクラスからひょいっと顔を覗かせる男子がいた。
佐塚 慶。私たちと同い年で、家も近所。
小さい頃から男女隔てなく接してくれる幼なじみだ。
慶「お前ら、次移動か?」
梨花「そ、美術。あたしのだ〜いきらいな美術。」
慶「はは、梨花ほんま苦手よなそれ。しろは得意やのに。」
梨花「慶も美術ダメじゃん!」
慶「……まぁ、否定はせん。」
慶はそう言いつつ、なぜか私の顔をちらりと見る。
その視線の意味には気づかないふりをした。
進路希望調査の紙が、机の上で風にひらひら揺れている。
あと少しで提出期限だというのに、私はまだ一文字も書けていなかった。
——何になりたいんだろう、私。
教室の窓から差し込む午後の光はきらきらして
いて、絵を描くのが好きな自分をそっと背中から押してくれるようにも思える。
けれど「これがやりたい!」というはっきりした気持ちは、どうしても見つからなかった。
放課後、帰り道。
梨花は嬉しそうにスマホを見せてきた。
梨花「ねぇねぇ見て!美容の専門学校のオープンキャンパス!絶対行くの!」
「へぇ、いいじゃん。梨花、ずっとやりたいって言ってたもんね。」
梨花「そう〜親を説得するのはまだこれからだけどさ〜」
「説得できたらいいね。うまく行けれたら、だけど……」
梨花「しろ、それ“行けたら”ね。“行けれたら”は言わないから!」
「あ、またやった……?」
慶も、部活帰りの汗をぬぐいながら言う。
慶「俺は公務員。安定しているし稼げるからな。」
梨花「ほ〜う、将来は結婚相手に専業主婦とかして欲しいっていうタイプだな〜?」
慶「べ、別にんなじゃねぇよ!事実だろ!」
梨花「はいは〜い」
ふたりとも、未来の話をすると目が輝く。
その光は眩しくて、楽しそうで、
——私には、なにもない。
そんな不安が胸の奥にじわりと広がった。
家の前に着くと、父親がちょうど帰ってくるところだった。
父「おう、シロ。今日はちょっと多めに獲れたぞ。」
父は漁師で、深海漁を生業としている。
競りでさばけなかった売れ残りの魚をいつも持って帰ってくる。
その発泡スチロールの箱の中に色んな種類で少しグロテスクな見た目の魚も混じっていた。
母親が手際よくそれを調理し、食卓に並べる。
母「今日のは身がしっかりしてるわよ。シロも食べなさい。」
「うん……ありがとう。」
私はいつも通り夕食を食べ、自分の部屋に戻り、
いつも通り布団にくるまって眠りについた。
ーーー暗い。
どこか、海の底を思わせるような静けさ。
(……やあ。)
突然、耳の奥に声が落ちてきた。
(今日、君に食べられた“さかな”だよ。)
「……え?」
自分の声が、水の中に溶けていくみたいに響く。
(ちょっとだけ、話がしたくてね。
深海の外のこと、知ってるかい?)
姿は見えない。
だけど、その気配は確かにそこにあった。
(深海よりもっと上。「そら」っていうものがあるんだ。
「しばふ」の上で食べる「さんどいっち」は、とても美味しいらしいよ。)
「……空? サンドイッチ?」
(うん。僕はね、それを一度でいいから見てみたいんだ。)
静かに、淡々と語る声だった。
深海で生きるさかなが、ほんの少しだけ抱いた夢。
そんなものがあるなんて、私は考えたこともなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、私はふっと笑った。
「……そのくらいなら、すぐ叶うよ。」
(え?)
「簡単だよ。空も芝生も、すぐそこにあるし。
サンドイッチくらいパパっと作れるよ。」
(……本当に?)
「うん。だから、楽しみにしてて。」
さかなの気配が、ほわっと白い光に溶けながらほどけていくように薄れた。
――夢の中なのに、すごくあたたかかった。
⸻
ぱちっと目を開けると、朝の光がカーテン越しににじんでいた。
夢――だった。
でも、不思議と忘れたくない気持ちが胸の奥に残っていた。
(サンドイッチ……作ってあげるって、言っちゃったし。)
変だな、と自分でも思う。
相手は“魚”。
しかも“食べたあと”に見た夢。
それでも。
誰かのために何かをするのは嫌いじゃない。
むしろ昔から、人に頼られたり喜ばれたりすると嬉しかった。
だったら――
「……作るか。」
私はエプロンをつけ、冷蔵庫の中の材料を探し始めた。
卵、レタス、トマト。パンを軽く焼いて、マヨネーズを薄く塗る。
思いのほか手が動くのは、きっと
“誰かのため”だと張り切ってしまう自分の癖だろう。
完成したサンドイッチをタッパーに詰め、家を出る。
空は高くて、遠くて、淡い水色に透き通っている。
温かい陽の光が、まぶたの上に染み込んでくる。
気持ちのいい緑色の芝生の上に寝転んで、私はひとりサンドイッチを頬張っていた。
さっきまで風が心地よく吹いていて、
鳥のさえずりや子どもの黄色い笑い声が遠くから混じり合って聞こえていた。
サンドイッチを食べ終え、
ふぅ、と息をついた途端、いつの間にか眠ってしまった。
⸻
夢の中
(……ありがとう。)
暗い海のようでいて、どこかあたたかい世界に、あの声が響いた。
(「さんどいっち」、すごく美味しそうだった。
「そら」も……「しばふ」も。本当にあるんだね。)
「うん。私たちにとっては当たり前にあるものだけど……喜んでくれてよかった。」
(君はやさしいね。
僕の夢を、こんなにあっさり叶えてしまうなんて。)
くすぐったいような、照れくさいような気分になる。
(だから今度は、僕が君の夢を叶える手助けがしたい。)
「……え?」
夢の中なのに、胸がどきっと跳ねた。
(だって、君にはまだ“夢”がないだろう?
君の中にいて、なんとなく分かったんだ。)
図星だった。
私は言葉に詰まる。
「……うん。やりたいこと、分かんないんだ。
みんなみたいに、未来に向かって進んでる感じもなくて。
私だけ、止まってるみたいで……。」
さかなはすぐには答えなかった。
深海のような静けさが広がる。
(じゃあ、一緒に探そう。
どこにあるのか、どんな形なのか分からないけど……
君の夢が見つかるまで、僕はそばにいるよ。)
その声は、海の底から浮かび上がる泡みたいに優しかった。
「……ありがとう。」
そう言った途端、世界が淡くほどけて――
⸻
ぱちりと目を開けた。
空はすっかり橙色に染まり始めていた。
長い影が芝生の上にのびていて、少し冷たい風が吹いてくる。
「……もうこんな時間か。」
寝ていた身体を起こすと、胸の奥にさかなの言葉が残っていた。
――一緒に探そう。
ぼんやりとしたその余韻が消えないうちに、
私はカバンからスケッチブックを取り出した。
今日見たあの深海の青も、魚の小さな光も、
さっきまでの夢の続きみたいに胸に残っている。
それを逃したくなくて、
鉛筆を走らせる。
線は少し震えていたけれど、
描くほどに、紙の上に輪郭を持ちはじめた。
「……変なの。」
自分でもよくわからない絵だったけれど、
描き終える頃には胸のざわつきが少し落ち着いていた。
私は空を見上げた。
橙の陽の光と紫がかった雲が入り交じっているその光景は、
静かなこの町で見慣れた鮮やかさだった。
この町が嫌いなわけじゃない。
でもここにいる限り、私はずっと同じ毎日を繰り返す気がした。
みんなが進んでいくのに、私だけ進めない。
自分が何者か分からないままで、ここに留まることが
急に怖くなった。
描いたばかりのスケッチブックを閉じる。
そこには、今の私の気持ちがそのまま貼りついている気がした。
「……どこか遠くに行ってみよう。それにどうせなら行くなら人が多いところにしよう。」
ぽつりと口にした言葉が、思った以上にしっくりきた。
それからあっという間に月日が経ち、私たちは高校を卒業した。
梨花は県内の美容関係の専門学校へ。
慶も同じく県内の四年制大学へ進んだ。
……私は県外のイラストの専門学校へ進学した。
親を説得するのは大変だった。
母「県外なんて……危ないことも多いのよ?」
父「金だってかかるんだぞ。県内でええやろ」
「……分かってる。でも、どうしても行きたいの。今しかできない気がするから」
心配性な親はなかなか首を縦に振らなかったけれど、
私は自分でも驚くほど粘った。
結局、色んな理由を並べて、半ば強引に了承を得た。
「生活費くらいは自分でなんとかするから」
そう宣言すると、母は深い溜息をつきながらも「無理はしないのよ」と言った。
地元を離れた朝は少し灰がかっていて、
風が頬につんと刺さった。
胸がきゅっと締めつけられるような、
でも少し軽くなるような、そんな感覚。
電車から見た故郷の空の青はいつもより明るく、鮮明に、私の目に焼き付いた。
それからの生活は、思っていた以上に慌ただしかった。
昼は学校。
夜はガールズバーで働き、帰る頃にはいつも終電近く。
寝不足が続き、肌荒れもひどくなってきた。
それでも部屋に戻ると、まず手が勝手にスケッチブックを探す。
机の端に置いた鉛筆を握ると、
胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけ静かになる。
「描かなきゃ……」
呟いた覚えはないのに、
いつの間にか線を引いていた。
眠気で色の境目が滲んで見えても、
頭がぼんやりしているほど、線は素直に紙へ落ちていく。
私は今日見た景色を、断片だけ拾って並べるように描く。
ガラス戸に映って揺れていた、ネオンの青。
冷たい灯りを細長い四角でページの端に落とす。
青の上に、ほんの少し色を重ねて、
夜の湿った匂いまで閉じ込める。
気づけばいつも、外の気配が変わっている。
窓の向こう、ビルの間にかすかに白い光が滲みはじめて、
夜の青が薄い灰色に押し流されていく。
描きかけのページに影がゆっくり長く伸びて、
それでようやく時間が進んでいたことに気づく。
部屋の空気は冷たくて静かで、
自分の呼吸だけがはっきり聞こえる。
スケッチブックを閉じる瞬間、
肩にのしかかっていた重りが少しだけ外れるように、
ふっと息が楽になった。
描くのをやめたら、
自分がどんどん空っぽになってしまうようで怖かった。
でも、描いているときだけは、
“まだ見つかっていない何か”に手が届きそうな気がした。
私はあの日のさかなの言葉を胸の奥で噛みしめる。
――一緒に探そう。
「……うん、探したい。ちゃんと、見つけたい。」
何もない自分に焦りと不安に沈みながらもそう思った瞬間だけ、
心の色がほんの微かに明るくなった。
そんな日々がしばらく続いたある日。
勤務先のバーの閉店後、手馴れた笑い声が残る店を出ると、街灯がぼやけて一つの白い惑星みたいだった。足取りはふわふわして、まるで無重力な星を彷徨っているようだ。
「あ……」
歩道の端に座り込んだ瞬間、視界がぐらりと傾いた。
そのときだった。
「大丈夫?」
誰かの声がして、視界の端に影が落ちる。
顔を上げると、金髪に近い茶色の髪の男性がしゃがみこんでいた。
「……すみません、ちょっと……」
「ほら、これ飲んで」
差し出された冷たいペットボトル。
震える手で受け取り、ごくごくと口に流し込む。
「ありがとう……ございます……」
「ここら辺、酔って倒れると危ないよ。送るよ、家どこ?」
「だ、大丈夫……です。一人で、帰れます……」
男性は苦笑した。
「それが“大丈夫じゃない”んだって」
その言い方が妙に優しくて、私は気が抜けてしまった。
少し落ち着いたところで、ぽつぽつと自分のことを話し始めた。
「専門学校に通ってて……イラストの。生活費は自分で稼ぐために夜はバーで働いてて……」
「へぇ。絵描くんだ?」
「ただの趣味の延長です……。夢があるってほどじゃなくて、でも……何か見つけたくて」
ルアと名乗る彼はゆっくりと立ち上がり、空を見上げた。
ルア「分かるよ、その感じ。俺も今フラフラだけどさ」
「……フラフラ?」
ルア「うん。今はホストやってる。生活のため。でも、本当の夢は俳優になることなんだ」
その横顔は、街灯に照らされて妙に綺麗だった。
生ぬるい春の風がふっと吹き、彼の前髪を揺らす。
「俳優……すごいね」
ルア「すごくないよ? まだ全然うまくいってないし」
彼は笑う。
でも、その目はどこか本気で、一直線で。
「でもさ、夢を言葉にできるだけ、十分すごいと思うよ」
私がそう言うと、
ルア「……そう言ってくれる人、久しぶりかも」
彼は少し照れくさそうに頬をかいた。
胸の奥がじわっと温かくなる。
夢をまっすぐに語るルアが、
その瞬間、とても眩しく見えた。
柔らかい光に照らされた髪の色、少し赤みを帯びた頬、
その真っ直ぐな瞳の輝き……。
目の前の光景が、静かにキャンバスに置き換わるようだった。
それから、私はルアと連絡先を交換した。
それがきっかけで、彼が働いているホストクラブ「エスカ」に足を運ぶことが増えていった。
店に入ると、まっすぐこちらに向かってくるルアの笑顔があった。
ルア「来てくれたんだ。嬉しいな」
「うん……今日も少しだけ話したくて」
席に着くと、私が話すより先にルアが楽しそうに話し始める。
ルア「この前さ、オーディション受けたって言ったじゃん?
あれ、書類で落ちたけど……なんか逆に燃えてきてさ」
「ルアって、ほんとすごいよね。夢のためにずっと動いてて」
ルア「すごくないよ。
でも……応援してくれる人がいると、頑張れんだよな」
そう言って、少し照れたように笑った。
その瞬間、自分の胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
(ああ、私……ルアの夢を応援するためにここにいるんだ)
そんな勘違いにも似た想いが、いつの間にか私の中で本気になっていった。
⸻
でも、その生活はゆっくりと私を削っていった。
夜遅くまでエスカに通い、朝は起きられない。
夜のバイトもあって、睡眠はどんどん薄くなり、学校に行けない日が増えた。
気づけば、スケッチブックを開くことすらなくなっていた。
机の上には筆や色鉛筆が置かれたまま、埃をかぶっていた。
ある日、担任の先生に呼び出された。
先生「このままだと……進級は厳しいよ。どうするつもり?」
「……すみません。でも……まだ、ちゃんとやりたい気持ちはあって……」
先生「気持ちは大切だよ。でも“時間”を使わなきゃ、気持ちは形にならない。
本当に続けたいなら、生活を見直しなさい」
……見直す、なんてできるわけなかった。
結局、私は学校を辞めてしまった。
一年すら持たなかった。
机の上のスケッチブックは、今やただの“白い紙”になってしまった。
筆を持つことのあたたかさも、色を選ぶ喜びも、いつの間にか遠い記憶になっていた。
⸻
そして、それはすぐ親に知られてしまった。
母「どういうこと?なんで急に退学なんて……!?」
父「戻ってこい。話し合おう」
毎日、着信は鬼のように鳴り続けた。
スマホを開くと、梨花や慶たちからのメッセージもずらりと並んでいた。
梨花『シロ、大丈夫? 学校辞めたって本当……?心配だよ』
慶『無理すんなよ。連絡くらいはしてくれよ、心配だぞ』
でも私は画面をそっと伏せ、深く息をつく。
(……いま戻ったところで、なにもできないよ)
(……梨花や慶のことも、考えられない)
スマホを手元に置きながらも、視線は自然とルアのことだけを追い、
心の焦点は――ただ、彼だけに向かっていた。
ルア「今日も来れる?」
「うん……行く。行くよ」
ルアはやさしくて、儚くて、
夢を追っているその姿は、私にとって光そのものだった。
その光に触れるためなら、何を失ってもいいとさえ思っていた。
それから二年が経った。
ルアは「エスカ」でNo.2まで登りつめ、
私は彼の背中を追いかけるように日々支え続けていた。
彼の言葉、笑顔、仕草――
すべてが私の生活の中心で、
それ以外の時間や思考は、気づけば空白になっていた。
ルアが笑えば、胸の奥に小さな光が灯り、
彼が楽しそうにしていると、まるで自分まで“意味ある存在”になれた気がした。
でも、もし彼が不機嫌になったり、そっけなくされたりしたら、
私の世界は一瞬で色を失い、足元が抜けるような不安に飲まれる――
そんな怖さが、日々の胸の奥に居座っていた。
夢を応援するはずなのに、いつの間にか私は、
ルアの笑顔に依存し、彼の存在によってしか自分を確認できない状態になっていた。
生きる軸も、喜びも、希望も、すべて彼に預けたまま――
そんな歪んだ満足感が、静かに胸の奥に住みついていた。
⸻
ある夜、勤務しているバーで
芸能関係の仕事をしているという男性客が来た。
客「君、最近よく来てるホストの話してたよね?
俳優志望なんだって?」
「はい……その、ルアって言うんですけど。
本当に、誰よりも夢に向かってて……」
客「へぇ。ちょうどね、うちでキャスティングしてるドラマがあってさ。
イメージに合うかも。詳しく話したいんだ」
私は胸が高鳴った。
もしかしたら――本当に、ルアの夢が動くかもしれない。
客「連絡先、交換してもいい?」
「……はい!」
⸻
後日、その男から連絡が来た。
客『オーディションの話、ちゃんとしたい。
場所はホテルでもいいかな。込み入った話だから』
(どうしてホテル……?)
少しだけ引っかかったけど、
“芸能の世界って、きっとこういうものなんだ”と自分に言い聞かせた。
そして私は、ひとりでそのホテルを訪れた。
⸻
部屋に入った瞬間、空気が違うと感じた。
客「来てくれてありがとう。
正直に言うとね――あの役、オーディション飛ばして推薦できるんだ」
「す、すごい……!本当にルアにチャンスを……?」
客「ただし条件がある」
男はソファに座り、私を見上げるように言った。
客「俺と寝てくれたら、推薦する。
単純な交換だよ。どうする?」
その言葉が胸に深く突き刺さった。
頭では“おかしい”と叫んでいるのに、
心は別の方向へ転がっていく。
(ルア……夢、叶えたいって言ってた。
オーディションで落ちて悔しそうに笑ってた。
あの顔、もう見たくない……)
客「迷ってるの?君が決めていい」
――ルアのためになるなら……
私は目を瞑りながら暗闇の中で頷いた。
後日。
あの客からメッセージが届いた。
『推薦、通したよ。後はルアさん次第だ』
短い文章だったけど、私は胸をなで下ろした。
(本当に……夢が動いたんだ)
それだけで涙がにじんだ。
すぐにルアへ伝えたくなって、
私はそのままタクシーに飛び乗り、彼の家へ向かった。
⸻
部屋の前に着き、震える指でインターホンを押す。
しばらくして、寝起きのような顔でルアがドアを開けた。
ルア「ん……なに?こんな朝っぱらから……」
「ルア!聞いて、すごい話があって……!」
私は息を弾ませながら、必死に言葉を紡ぐ。
「この前話したお客さん、覚えてる?
ルアにピッタリなドラマがあるって言ってた人!
その人がね、推薦……通してくれたの!
ルア、本当にチャンスが来たの!すごいよ!」
ウキウキしていた。
自分の胸の奥にあった罪悪感すら、その瞬間だけは忘れられた。
ルアは少し瞬きをして、
そして――ゆっくりと表情を曇らせた。
ルア「……推薦?」
「うん!ほら、夢だったでしょ?俳優……!」
ルアは頭をかきむしるようにして、ふっと視線をそらした。
ルア「……もういいよ、俳優なんて」
「……え?」
ルア「もう目指してねぇんだよ。
俺、“エスカ”でNo.2になったんだぞ?
金も女も困らない。
なんで今さら地位捨ててまで、そんな不確かな夢追わなきゃならねぇんだよ」
「……そんな……だって、ずっと……」
ルアは苛立ったように声を荒げた。
ルア「お前、わかってんの?
俺がどれだけここまで来るために努力してきたか。
今が一番“輝いて”んだよ。
夢とか、もうとっくにどうでもいいんだよ!!」
彼の怒鳴り声が、胸の奥を震わせる。
視界の端に、赤や橙の光がちらつき、まるで警告灯のように心臓を叩いた。
頭の中が灰色の霧で満たされ、吐き気のような重さが背中にのしかかる。
(……どうでも……いい……?)
足から力が抜けて、
私はその場に崩れ落ちた。
「……じゃあ……私……なにしてきたの……?」
声が震える。喉が引き裂かれるように痛む。
赤い光が胸から喉へ、そして目の奥にまで侵食し、涙が勝手にこぼれた。
何かが心の内で砕け、無数の小さな破片が暗い海の底へ沈んでいくようだった。
ルアはそんな私を見ても、ただ疲れたようにため息をつくだけだった。
へたり込む私を、ルアは面倒くさそうに抱きしめた。
ルア「……お前のこと、大切なのは本当だよ。」
少し前までは柔らかく私を包んでくれたその声が、今はただ、苦しい。
胸の奥では、赤い警告灯の点滅が止まらず、灰色の霧はますます濃くなっていく。
心がひび割れ、崩れ落ち、どこまでも暗く黒に沈んでいく。
やがて、ルアは私をソファに座らせ、タバコに火をつけた。
ルア「とりあえず落ち着けよ。な?
今度さ、どっか旅行でも行こうぜ。
気分転換にもなるし」
そう言いながら、スマホで別の誰かに返信している。
画面に反射した光が、タバコの煙をぼんやり照らす。
(もういないんだ……あのときのルアは)
かつて眩しくて、真っ直ぐで、夢を追いかけていた彼はもういなかった。
目の前にいるのは、ただ“現実という色の波に飲まれたルア”だ。
目の端に、月明かりに光る細い線が走った。
青白く鋭く、銀色のかすかな残像を伴って、視界の隅で脈打つ。
瞬間、私の中のすべて――温かさも痛みも、希望も諦めも――が光と影の中で揺れた。
そして私は小さく息を吸い、
心の中で――いや、ほとんど声に出すように呟いた。
「……バイバイ、ルア」
吸いかけのタバコの煙。もう二度と色付くことはないルア。
赤と灰色が混ざったような手の震えを抱え、
私はいつの間にか溺れてしまっていた黒色の自分を鏡越しに見ていた。
一週間後。
私は、故郷の海岸に立っていた。
どうやってここまで来たのか、記憶はところどころ薄く途切れている。
携帯も、財布も、部屋の鍵も――全部、ルアの部屋に置きっぱなしだった。
潮風が頬をなでる。
冷たくて痛いのに、不思議と何の感情も湧かなかった。
まるで、胸の奥から色がひとつずつ剥がれ落ちたあとの世界みたいで。
白とも灰ともつかない濁った波が、ゆっくり足元へ寄せては消えていく。
色の境界が曖昧で、輪郭が溶けている。
世界が水彩みたいににじんで、薄くぼやけていく。
そのとき――
胸の奥底で、小さな“声”がした。
さかな「……夢は、見つかった?」
懐かしい声。
あの日の、深い海の夢の中で出会った、小さな魚の声だ。
私はゆっくりと目を閉じた。
(夢……? 私にとっての夢って……なんだっけ……)
波の音が、遠ざかり、世界が静かに水へ沈んでいく。
足元からじわじわと冷たさが上がってきて、
胸の内側まで青い深海の色に染められていく。
(スケッチブック……置いてきちゃったな……)
子どもの頃、色を塗るだけで胸が温かくなったこと。
線を引くだけで、世界が広くなる気がしたこと。
全部、遠い遠い記憶になっている。
けれど――
(もし……もしもう一度やり直せるなら)
(もう一度、“夢を見てもいい”のなら)
(あの空の下で。芝生の上で。
今度は……みんなでサンドイッチを食べて笑っていられたら……)
あの日の空がふわりと浮かんだ。
澄んだ青に、柔らかいオレンジの光が混ざり、
風に揺れる雲はほんのり紫を帯びていた。
光は肌をなでるように暖かく、まるで胸の奥の隙間を埋めるように広がっていく。
その色だけは、深い海に沈んでいく私の心でも、
水に溶けずにぽつりと胸に残った。




