揺れ動く
試合後の興奮が冷めることなく、由芽はそのまま布団に潜り込んだ。疲労と満足が入り混じった微妙な感覚の中で、すぐに深い眠りに落ちる──はずだった。しかし、その夜、由芽は予想もしない不気味な夢に悩まされることとなる。
目の前に立っていたのは、目の下に深いクマを作った男だった。薄暗い光の中で、その男の顔ははっきりと見えず、影が全体を覆っているように感じられる。ただ、ひときわ鋭い視線が由芽を貫いていた。言葉一つ発さず、ただじっと見つめられるだけで、体全体が冷たくなり、心の中に湧き上がる恐怖を抑えきれなかった。
目が覚めた瞬間、由芽はその恐怖が現実に迫ってきたかのような感覚に襲われ、息が荒くなっていた。汗が額から滴り落ち、目の前がぼやける。夢だとわかってはいても、胸の中の高鳴りは止まらない。
「そういえば、あの男……」
ふと、思い出したのはその男の目つきだった。まるで助けを求めるような目だった。そして、由芽の中にあの不安が再び蘇ってきた。それは、無意識に蓋をしていたものだった。だが、今、その不安が膨らんでいくのを感じていた。思考がまとまらないまま、何かをしなければと思い、ポケットに手を入れてみる。
その瞬間、手に感じたのは、クシャクシャになったメモ用紙。そうだ、あの警官からもらった連絡先が書かれていたのだ。驚きながらも、慌ててメモを取り出す。どうやら洗濯をしたせいで、すっかり乱れてしまったようだが、幸いにも水に強い紙だったのか、破れずに残っていた。少し薄くなった筆跡を慎重に目で追い、由芽は何度もそれを読み返す。番号の判読は可能だった。
翌朝、由芽はひどく迷っていた。昨晩の悪夢がまだ心の奥にひっかかり、眠っている間もその感覚は消えなかった。彼女は布団にくるまったままで、幾度も深呼吸を繰り返し、ようやくその番号を押す決心を固めた。指先は震えていたが、何とか電話をかける。
呼び出し音がなる中で、由芽は、自分が伝えようとする内容を何度も口の中で繰り返しながら、心の中で準備を整えていた。しかし、まだ頭の中の原稿を完全にする前に、電話の向こうから若い警官の声が響く。予想外に早く1コール目で受話器が取られてしまった。
「もしもし」
その声に、由芽は思わず一瞬、間が空いてしまった。冷静でいようと心の中で繰り返しながら、ゆっくりと口を開いた。
「こんにちは。あの、この前警官さんがお家にきてお話ししたことなんですが。あ、橘です」
彼の声が静かに反応し、由芽は深く息を吐きながら、昨夜の夢を語り始めた。彼の声は最初、予想に反して穏やかだった。ひとしきり話すと、彼は少しの間をおいて、微妙に口元を引き締めたような声で返してきた。
「橘さん。今の話の確認だけど、目の下にクマのある男のことだよね」
由芽は一度、顔を上げて静かな心の中で頷いた。「はい、そうです。こんなことを言っても不安にさせるだけだとは思うんですけど。でも、あの流行り病とも関係があるかもしれなくて。それに、警官さんが『お気軽に』って言ってくれたから」
しばらく、彼は黙って聞いていた。重たい沈黙の後、警官の声が低く響く。
「知ってると思うけど。その男、もう亡くなったよ」
その言葉は、由芽の心臓をまるで硬直させたかのように感じさせた。彼女は一度、息を呑む。何か、予感があったのかもしれない。しかし、その予感が現実のものとなった今、何とも言えない安堵感と恐怖が入り混じった。
「やっぱり、あのニュースはその人だったんですね」
「うん。でも、まだ正式に死因は発表していないんだ。ただ、橘さんにも関係があるだろうから、教えておくね。亡くなった理由は薬物。基準値を大きく超える量が体内で検出されたからまず間違いないと思う。事件としては、もう解決扱いだ」
由芽は目を閉じ、ほっと胸を撫で下ろす。その安堵がまるで、どこか遠くの霧のように漂う。
だが、警官の声は続く。
「でも、実はね、その男、俺も何度か見たことがあるんだ。職務質問もしたけど、正直、あの時はすごく様子が変だった。で、それが──」
「それが?」由芽は少しの間を置いて、静かに問いかけた。
「夢に出てくるんだ。あの男が。しかも、ただ出てくるだけじゃなくて、じっと、俺を見つめてる。目をそらすこともできないくらい、強烈な視線で」
その言葉に、由芽の背筋が冷たくなる。まるで、あの男が目の前に現れているかのような感覚に襲われる。彼女は言葉を失った。
「もしかして、それ、本当に、現実なのか、夢なのか……」
警官の声がどこか遠くなったように、彼女の耳に届く。「そう。分からないぐらい、あまりにもリアルすぎる。正直、気味が悪い」
一瞬の沈黙が二人を包み込む。やがて警官は続けた。
「だから、橘さん。もし、何か気になることがあったら、すぐに病院に行ってね。俺が見た夢が何を意味しているのか、分からないけど、少しでも気をつけておくに越したことはないから」
由芽は、その言葉にしばし思いを巡らせる。その背後で、何か薄い不安が膨れ上がるような感覚に捉えられた。
「大丈夫です」彼女は少し力を込めて答える。「お父さんがお医者さんなんですけど、そのお父さんが大丈夫だって言ってました。きっと、私も警官さんも大丈夫です」
電話の向こうの警官は、乾いた笑いをした後、どうにも不安そうな様子で続けた。
「うーん。あの流行り夢とやら、どうやら日本でも感染が広がってきてるみたいだよ。あ、発症と感染は違うからね」
由芽はその言葉を受け止めながら、心の中で冷静に反芻していた。医者の娘として、その違いを知らぬはずもない。だが、それを口に出す気にはならなかった。警官の親切な気配りを無碍にするわけにはいかない。彼の言葉には、どこか不安と優しさが混ざり合っていたからだ。微妙な距離感を感じつつ、由芽はただ一言だけ返した。
「ありがとうございます」
スマホの向こう側で、警官の気まずい沈黙が長く続く。その沈黙を破るように、由芽は息を吐き、通話を終えた。なんとなく警察は頼りにならないと感じる。画面を見つめたまま、指先で通話ボタンを切った。まだ耳に残る警官の声。その重さが胸に圧し掛かるようで、彼女は一瞬、立ちすくんだ。その一方で、やはりお父さんが私たちを救ってくれるヒーローだという思いが強まっていった。
その夜、由芽は薄暗いリビングで一人、静かに時を過ごしていた。父は二日間、研究所に籠りきりで姿を見せていない。母は友人との食事会とやらで、おしゃれをして早々に家を出ていた。リビングのテレビでは、特に関心もない番組がぼんやりと流れていた。画面に映る人物たちの動きだけが、静まり返った部屋に微かな生命を感じさせていた。
そんな中、突然の玄関チャイムが響いた。由芽は心臓が小さく跳ねるのを感じながら、反射的に振り返った。
「……こんな時間に?」
訝しさを抱きつつ、インターホンの画面を確認する。しかし、画面は真っ暗なままだ。カメラが何者かによって塞がれているのだとすぐに気づいた。胸の奥にじわりと不安が広がる。
意を決して通話ボタンを押し、声を出した。
「どなたですか?」
しかし、応答はない。沈黙が続くたび、不安は膨れ上がる。そのまま無視してしまう選択肢も頭をよぎったが、逆に見過ごすことが更なる不安を呼びそうで足は玄関へと向かった。
音を立てぬよう注意深く歩き、玄関先に置かれた靴の上を飛石を渡るような気持ちで進む。そして、恐る恐るドアスコープを覗いた。
そこに立っていたのは、意外な人物だった。小鳥遊玲子。そしてその隣には、暁人の姿もある。
驚きと安心がない交ぜになりながらも、すぐに鍵を外してドアを開けた。
「もう、暁人! 来るなら連絡してよ!」
由芽は少しばかり怒り混じりの声を上げたが、暁人は苦笑いを浮かべるばかりだった。
「はは、悪りぃ。……あ、ちなみに今隠してたの、俺じゃないからな。」
そう言って暁人は隣の玲子を指差した。
玲子は楽しそうに微笑みながら、軽い口調で言った。
「こんばんは、由芽ちゃん。ちょっと悪戯しちゃってごめんね。仕返しみたいなもんよ。お母さんに由芽ちゃんの様子を見てあげてって頼まれちゃって、それで来ちゃったの」
「仕返し?」由芽の中に疑問が浮かぶ。玲子に何かした覚えなどまるでない。むしろ彼女の仕事を手伝った際には、感謝の言葉を受けたことすらある。それだけに、玲子の言葉には戸惑いを隠せなかった。
だが、それを表に出すことなく、由芽は努めてにこやかに返した。
「え、はあ……どうぞ。よかったら上がってください。大したものは出せませんが」
玲子は微笑みを絶やさず、足元の靴を脱ぎながら家に入った。その後を暁人が続き、二人の背中がリビングに向かって進んでいく。由芽は玄関のドアを閉めながら、心の中に芽生えた小さな違和感を、どこに収めるべきか迷っていた。
二人をリビングに案内すると、由芽は「ちょっとお手洗いに」と告げて席を外した。その実、目的は別だった。洗面台の鏡の前に立ち、自分の髪をささっと整え、顔色を確認する。暁人の前に出れるような顔をしているのか確認したかったのだ。最後に自分の笑顔をみて洗面所を後にした。
戻った由芽は、まず母が来客時に出していたお茶菓子を探し始めた。キッチンの棚を一つ一つ開けながら、頭の中では母がこの家で歩いた軌跡を思い返している。その合間、リビングから聞こえてくる玲子と暁人の笑い声が、どこか耳に障る。
ちらりと目をやると、大きめのソファに二人が寄り添うように座っていた。四人掛けの余裕があるはずの場所で、親子とは思えないほど密接した姿に違和感が募る。玲子の手は頻繁に暁人の肩や腕に触れ、暁人も特に気にする様子はない。その光景が由芽の胸をざわつかせた。
ふと棚の奥で、母が友人にもらったと言っていたカステラを見つけた。これはいい、と心の中で呟きつつ冷蔵庫から冷茶を取り出し、急いで二人の会話に割り込むように茶と菓子を差し出した。
「はい! 暁人、たしかカステラ好きだったよね」
暁人は少し驚いたように微笑んだ。「お、ありがとう。気が利くな、由芽」
玲子もにこやかに言葉を添える。「由芽ちゃん、ありがとね。それにしても暁人、小さい頃の話を由芽ちゃんにしてあげたいわ」
「やめろって、母さん」
玲子は笑みを絶やさず、由芽を見つめながら言葉を続ける。「でも、由芽ちゃんだって聞きたいでしょ?」
その一言に、由芽の中で火種が灯った。「聞きたい」それが何を意味するのかは分からないが、その言い方はあまりに無神経に聞こえた。
「結構です」と、少し強い口調で答える。「一応、私、幼馴染ですから。暁人のことならおばさんより詳しいと思いますけど」
玲子は肩をすくめ、どこか楽しげに暁人と由芽を見比べている。その様子にまた苛立ちを感じたが、玲子はそれを楽しむかのように、柔らかい声を続けた。「あら、そうなの。なら、いろいろ教えてもらおうかしら」
「ほら、由芽も嫌がってるだろ。もうやめとけよ」と暁人が割って入る。まるで母親をなだめる父親のような態度に、由芽は余計に腹立たしさを覚える。
「そんなことないわよねえ?」玲子は肩を揺らしながら微笑む。その視線は由芽の反応を試すかのようで、由芽の胸には冷たい怒りが渦巻いていく。
ふと気がつくと、玲子の手が暁人の太ももに置かれていた。その光景に、由芽は無意識に視線を鋭くする。もし自分が漫画のキャラクターなら、今頃その手を目から出る光線で焼き尽くしているに違いない。だが、現実ではただ睨むことしかできなかった。
暁人はその視線に気づくこともなく、玲子の額を指で軽くつついた。
(なんで……こんなに仲良さそうなの?)
その問いだけが、由芽の心の中で膨らみ続けていた。
リビングで交わされる笑い声が遠ざかり、由芽の胸の内には不安と焦燥が渦巻いていた。暁人と玲子の親密すぎる様子。ふと、彼らが話していた幼い頃の記憶を辿るも、由芽の脳裏にそんな場面が甦ることはなかった。暁人の父が早くに亡くなったことは知っているが、それを理由に説明できるような距離感ではない。むしろ、不自然なほどの親しさが、由芽の心を締め付けた。暁人が玲子に見せる笑顔、何気ない仕草。その全てが、由芽にとって未知の一面だった。
耐え切れなくなった由芽は、衝動的に立ち上がった。そして、玲子の隣に座る暁人の腕を掴むと、力任せに引っ張った。
「ねえ、暁人。ちょっと部屋に来て。」
その唐突な行動に、暁人は驚いた表情を浮かべつつも従った。一方、玲子は短く「どうぞごゆっくり」と言って微笑んだ。だが、その目はどこか含みを持っているように見えた。
部屋に入ると、由芽は振り返り、暁人を睨むように見据えた。
「なんで……あんなに仲良くしてるの?」
暁人は目を丸くして応じる。「え? なんのことだよ?」
「玲子さんと……仲良すぎるよ!」
由芽の声は震えていた。自分でもなぜこれほど感情が高ぶるのか説明できない。ただ、玲子に暁人を奪われるような予感が、彼女を理性の外へと追いやっていた。
次の瞬間、由芽は勢いのまま暁人の腕を引き寄せると、衝動的にその唇を奪った。
暁人は目を見開き、驚きのあまり動けなかった。数秒後、ようやく彼は由芽を押し退けた。
「由芽!! いきなり何やってんだよ!」
暁人の声には怒りと困惑が入り混じっていた。手の甲で口元を拭いながら、彼は由芽を睨みつけた。
「だって……暁人が心配で……」
由芽は消え入りそうな声で言い、上目遣いに彼を見つめた。その視線には後悔と、それでも消せない切実な想いが宿っていた。
暁人は視線をそらし、苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。「心配って……お前、何考えてんだよ……」
由芽は俯いたまま、小さく震えている。部屋には、二人の間に漂う沈黙だけが広がった。
階段を登る足音が近づく。次いで、軽いノック音の後に部屋の扉がゆっくりと開かれた。
「どうしたの?」
玲子の声が柔らかく響く。心配そうな表情を浮かべた彼女が、わずかに首を傾げながら部屋を覗き込んでいる。
「なんでもないよ」
暁人はぶっきらぼうにそう言うと、玲子を避けるように肩をすくめながら部屋を出ていった。その仕草にはどこか逃げるような焦りが感じられる。
玲子は彼の後ろ姿を少しだけ追ったが、すぐに視線を由芽に戻した。そして一歩中に踏み込み、由芽の前で腰を落とすと、彼女の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫? 由芽ちゃん。暁人に何かされたの?」
玲子の声には母親然とした優しさが含まれていたが、その瞳の奥にわずかな焦燥が混じっていることに由芽は気づいた。玲子の表情は穏やかでありながら、頬の筋肉が微かに引きつっている。まるで、何かを探ろうとしているようだった。
「いえ、大丈夫です」
由芽は小さく微笑み、淡々と答える。自分の声が他人のもののように冷たく感じられる。
「暁人も色々悩んでるみたいですし」
「ふぅん」
玲子は短く答え、わずかに目を細めた。そしてゆっくり立ち上がると、床を見つめるように視線を落としながらつぶやく。
「暁人が、私に話してないことなんてあるのかしらね」
彼女の言葉には、どこか含みのある響きがあった。心配を装ったその顔には、ごく僅かな笑みが浮かんでいる。由芽は玲子の口角がわずかに上がったのを見逃さなかった。その仕草が何を意味しているのか、由芽にはまだ分からない。ただ、胸の奥に冷たい感覚が広がるのを感じた。
玲子が立ち去ると、部屋に静寂が戻った。けれどその空気は、少し前とは明らかに違うものだった。