警告音
控室の空気は、一瞬にして変わることがある。
選手たちはそれぞれのルーティンに没頭していた。ストレッチを続ける者、ボールを手のひらで転がす者、窓の外に視線を向ける者。それらが作る静かな緊張感の中、明るい声が響いた。
「みんな、水分補給は大丈夫? 靴ひももしっかりね! 今のうちに確認しておいてね!」
優奈の声は、ひときわ軽やかだった。それだけで空気が少し和らいだ。彼女の存在は、チームにとってなくてはならないものだった。選手が気づかない細部まで目を配り、誰もが頼りにするマネージャー。その一方で、少々口うるさいと感じる者もいる。
「優奈、ホント細かいな」
暁人は脚を伸ばしたまま軽く笑い、ストレッチを続けた。表情に余裕が漂っているが、それを見て満足する優奈ではなかった。
「その余裕が油断になるんだからね。前回の試合で靴ひもを直してた人、誰だったっけ?」
言葉を投げかけると、暁人は片手を挙げた。
「……俺です、すみません」
笑いをこらえたその表情は、どこか憎めない。
そんな暁人に、控えめな声が届く。
「でも、最後はしっかりシュート決めてたからすごいよね」
由芽の言葉に、暁人は肩をすくめて応えた。
「おいおい、そんなこと言われたら緊張しちゃうよ」
いつものやり取りに、控室のピリピリした空気が少しだけ緩んだ。だが、優奈はそのまま話題を変えることにした。
「今日の試合のカギって、なんだと思う?」
暁人は少しだけ間を置いた。冗談を言おうか、それとも真剣に答えようか迷っている様子だった。そして首を傾げながら答える。
「カギねぇ……俺がいつも通りプレイして、お前らが応援してくれれば、何とかなるだろ?」
暁人の軽口に、控室のあちこちから苦笑が漏れる。直後、仲間たちが代わる代わる彼の肩や背中を叩きながら、「調子いいこと言うなよ」と小突いていく。まるでお決まりの儀式のようなやり取りだ。
その様子を見ていた優奈は、静かに息をついた。これも彼らの「ルーティン」なのだとわかっている。それでも、目の前の軽さにほんの少しだけ呆れた気持ちが混じるのを隠しきれなかった。
「根拠があるならいいけどね。でも、本当に守備を最初からしっかりしないと……気を抜かないで」
由芽も小さくうなずいた。
「相手、攻めが早いって聞いてるけど……大丈夫?」
暁人は答える代わりに、指で空中に数字を描いて見せた。それは「4」だった。彼の背番号だ。
「ま、任せといて。練習の成果を見せるだけだから」
その言葉に優奈はひとまず納得したように見えたが、由芽の心にはどうしても引っかかるものがあった。暁人の声のトーン、言葉の間合い──どれもいつもと同じはずなのに、微かに違和感を覚えたのだ。控室のざわめきの中で、由芽だけが小さな異変を察知しているようだった。
「……暁人、何か隠してるんじゃない?」
彼女の呟きはほとんど聞き取れないほどの小さな声だったが、その場にいた親友だけはしっかりと耳にしていた。
「え? 今なんて言ったの? 『暁人がやっぱり好き』って聞こえたけど?」
優奈が顔を寄せて小声で茶化してくる。由芽は慌てて首を振った。
「もー、違うってば! 優奈、変なこと言わないでよ!」
顔を赤くして否定する由芽に、優奈は悪戯っぽい笑みを浮かべる。控室のざわつきに紛れて、そのやりとりを聞いた者は誰もいなかった。だが、由芽の中で膨らんだ小さな不安が、この先どんな意味を持つのか──それを知る者は、まだ誰もいなかった。
体育館の空気は、まるで水槽の中のように重く、湿っていた。由芽はその隅で、小さく拳を握りしめている。試合は残り15秒、3点差。暁人のチームが逆転するには、この攻撃を成功させるしかない。
隣で優奈が「絶対いけるよ」と明るい声を漏らすが、由芽は返事をしなかった。暁人の姿が、どこか普段の彼とは違う気がしてならないのだ。額の汗を何度も拭い、肩で息をしている。その様子に、由芽の胸に小さな不安が芽生えた。
「疲れてるだけ……だよね?」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
体育館中が固唾を呑む中、暁人はボールを受け取った。時間はほとんど残されていない。コートには、試合の疲れが染み込んだような緊張感が漂っている。試合を通して、暁人のプレイは決して悪くなかった。むしろ、ここまでは完璧だったと言ってもいい。けれど、今の彼の表情はどこかおかしい。
額に浮かぶ汗の量が異様に多い。それに普段はしない行動を暁人はしていた。目を頻繁に擦っている。それを見て、由芽は何度目になるかわからない不安を抱いた。
「暁人……」
彼の名前を呼ぶ由芽の口は妙に粘ついていた。
試合再開のホイッスルが鳴る。
暁人はスピードのあるドリブルで相手ディフェンスを翻弄し、味方に手で指示を送った。観客席からも歓声が上がる。「やっぱり暁人はすごい」と隣の優奈が感嘆の声を漏らしたが、由芽は違った。やはり彼の動きがいつもと少し違う気がしてならない。
コード上の暁人は自身を鼓舞していた。
「行ける……!」
自らに言い聞かせるように呟き、ドリブルを開始した。鋭いステップで相手ディフェンダーをかわし、ゴール下へ切り込む。その瞬間、リング前で待ち構えていた相手センターが立ちはだかった。
だが、暁人はスピードを緩めることなく、跳躍した。
空中で体をひねり、ダブルクラッチの体勢に入る。その直後、相手の腕が暁人のシュートを阻もうと伸びてきた。視界が揺れたかと思うと、暁人の体は弾き飛ばされた。それでも彼の手から放たれたボールは、見事にリングを通過した。
歓声が体育館を包み込む。スコアは75対76──1点差だ。
床に倒れ込んでいた暁人をよそに、審判の声が響いた。
「バスケットカウント、ワンスロー!」
その言葉に、観客はさらに大きな声を上げた。
「ほら! ほら! 言ったじゃん由芽!」
観客席の片隅で、由芽は自分の肩を激しく揺らしてくる優奈を見つめながら首を傾げる。
「何が起きてるんですか?」
揺らされながらも、優奈と反対の隣に座る先輩に問いかけると、彼女は微笑みながら答えた。
「簡単に言うとね、今のシュートがファールを受けながらも成功したって審判が認めたの。それで、暁人くんにはフリースローが1本与えられるのよ。決めれば同点!」
「同点……!」
その言葉を聞き、由芽はコートを見つめ直した。暁人はすでに立ち上がり、フリースローラインへ向かっている。顔には小さな傷が見えたが、その瞳には迷いの欠片もなかった。
電光掲示板のスコアは75対76に変わっている。暁人には同点を狙うフリースローが与えられた。
コートの暁人はすでに立ち上がり、フリースローラインへ向かっている。その目には迷いの欠片もない。由芽は彼の姿を見つめながら、ふと昨日の父との会話の続きを思い出した。
「流行り夢に囚われる者は、夢と現実の境界が曖昧になる。現実に戻るほどの強い刺激や、眠りから目覚めるまで、その状態が続くんだ」
試合中の暁人の様子──頻繁に目元を擦り、何度も深呼吸を繰り返していた姿が頭に浮かぶ。
「まさか……暁人も……」
心の中でそう呟くと、急に胸のざわつきが大きくなった。
体育館中が静まり返る。暁人がボールを受け取り、ゆっくりと深呼吸をした。その動作はいつもと変わらないはずなのに、どこかぎこちなさが感じられる。
彼の手から放たれたボールは、リングの縁を叩いて外れた。
観客席からはため息が漏れる。だがその瞬間、味方のセンタープレイヤーが素早く動き、弾かれたボールを力強く掴んだ。電光掲示板には残り時間1秒の数字が刻まれた。すぐさまシュートを放つ、リングとボールが重なる瞬間、ブザーが鳴る──
「入ったぁ!」
歓声が一気に爆発する。ブザービートを決めた選手は既に何人かにもみくちゃにされていた。スコアボードには77対76の数字が輝いている。暁人のチームが逆転勝利を収めたのだ。
チームメイトが歓喜の声を上げながら集まる中で、暁人だけはその場に立ち尽くしていた。手に滲む汗を見つめながら、思わず拳を握りしめる。
「あのフリースロー……外したのは、わざとだ……よな?」
自分に問いかけるようなその言葉は、喧騒の中にかき消された。
試合が終わり、熱気に包まれた体育館の外は人々の歓声とざわめきで満ちていた。その中、由芽と優奈は立ち止まり、同時にスマホを取り出した。ビーリアルの通知が画面に表示されていたのだ。
「ねえ、由芽。撮ろうよ、今しかないって!」
「え? 今?」
「そうだよ。試合直後のリアルな瞬間、これ以上ないじゃん」
優奈はすでにカメラを起動しており、周囲にいるベンチの選手たちにも声をかけ始めた。断る理由が見つからない由芽は、軽くため息をついてカメラのフレームに収まった。
「いくよ、せーの……」
優奈の声に合わせてシャッターが切られる。画面には笑顔の選手たちと、少し戸惑った表情の由芽が映っていた。
「いい感じじゃん、由芽。自然体ってやつ?」
「うーん……これ、後でいろいろ言われそう」
「それが楽しいんじゃん。リアルだし」
そう言いながら、優奈は手早く投稿を済ませる。その動きに迷いはなく、いつものように明るい笑顔を見せた。一方、由芽はスマホをポケットにしまうと、ふと遠くを見つめた。その表情には、まだどこか試合の余韻が残っている。
「どうしたの、由芽?また暁人のこと考えてるんでしょ?」
「……別に」
「ふーん。気になるなら聞けばいいじゃん。ね、そういうときはちゃんと話しといた方がいいよ」
優奈はあっけらかんと言ったが、由芽は返事をしなかった。違和感の正体を考えるべきなのか、それとも今は忘れるべきなのか──彼女の中で答えは出ていない。
周囲の騒がしさが遠ざかるように感じる中、由芽は深呼吸を一つした。そして、その場の空気に自分を馴染ませるように、再び歩き出した。
試合後、由芽は体育館の廊下で暁人を見つけた。
彼は壁にもたれかかり、額に手を当てている。顔を上げたその目には疲労が滲んでいた。由芽が近づくと、暁人はわずかに笑みを浮かべた。
「結果オーライ、だな」
「でも、暁人……今日の暁人、いつもと違った。何か隠してるでしょ?」
由芽の問いに、暁人は一瞬視線を逸らす。だがすぐに「なんでもねーわ」と短く答えた。その声には、何かを振り払うような力が込められていた。いつもの暁人ならもっと軽口を叩くはずなのに、今日は違う。その様子に、由芽の胸の中で不安がさらに膨らむ。
帰り際、由芽はふと気づいた。
暁人が試合中、何度も目元を擦っていた理由──それが気になって仕方がない。彼のプレイミスは偶然なのか、それとも何かの兆候なのか。
「まさかね……」
心の中で呟きながら、由芽は夕日に照らされる体育館を振り返った。けれど、その胸のざわつきは、どうしても収まりそうになかった。