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はやり

 

 その夜、由芽は驚くほど気持ちのいい夢を見た。どんな内容だったのかはさっぱり覚えていない。けれども、目覚めたときの感覚はいつもと違った。頭が冴え渡り、心も軽い。夢の余韻は朝食の時間にも続き、テンションの高さは午前中いっぱい続いた。しかし、昼休みのチャイムとともに、その高揚感はあっけなく崩れ去ることになる。


 チャイムが鳴ると、由芽は机の引き出しをゴソゴソと探った。しかし、あるべきものがどこにもない。

「あれ……?」

 嫌な予感がして、鞄を開ける。それでも見つからない。


 ──最悪だ。


「どうしたの?」隣の優奈が尋ねてきた。

「弁当忘れた」

「あらら、それは災難だねえ」優奈は少し考え込み、続けた。「私のおかず、一品あげるよ。それか、みんなからちょっとずつもらったら?」

「それ、絶対やだ」由芽は即答した。


 優奈が肩をすくめる。「じゃあ、これどうぞ」

 そう言って机の上に差し出されたのは、スリムな缶のブラックコーヒーだった。

「え、これ? 優奈がコーヒーなんて珍しいじゃん。もしかして、あの前に見せてきたわけのわからないやつじゃないでしょうね」

「違うわ。あんな怪しいの、誰が買うんだっての。親が買いだめしててさ。なんか輸入品らしいけど、パッケージがオシャレだからつい持ってきちゃったんだよね」


 由芽はその缶をじっと見つめた。黒地に赤い英字がプリントされている。異国の文字に見えなくもないが、どこかチープな印象もある。

「ありがとう。でもこれ、苦そうだな……」

「大丈夫、慣れるって」


 渋々口をつけた由芽の顔が中心に集まるように歪んだのを見て、優奈は愉快そうに声をあげて笑った。

「ちょっと、ひどい味!」

「だから、慣れるって言ったじゃん」


 由芽が文句を言う隙を与えず、優奈はまた提案してくる。

「やっぱり一品ずつもらったら? よくあるやつじゃん」

 だが、そんな浅ましい真似は由芽のプライドが許さなかった。

「最近鍋ばっかり食べてるから、ダイエットだと思うことにする。優奈の唐揚げ一個だけでいいや」

「へぇ、私からはもらうんだ」優奈が笑いながら弁当箱を差し出す。「いいけどさ、まだ箸つけてないからどうぞ」


 箸で唐揚げを摘んだ瞬間、廊下から由芽を呼ぶ声が聞こえた。

「あれ? 由芽、彼氏来たんじゃない?」

 優奈がニヤニヤしながら耳打ちしてくる。

「違うってば!」

 唐揚げを口に放り込む由芽の頬を、優奈がわざと軽く押した。

「ちょっと、出ちゃうから!」


 そんなやり取りをしていると、声の主が教室の入口から顔を出した。暁人だった。手には見覚えのあるキャラクター柄の包みを持っている。

「おい、由芽」

 暁人が包みを掲げる。由芽の弁当箱セットだ。

「由芽のお母さんが、これ渡してくれってさ」


 教室中の女子たちの視線が暁人に集中する。それも当然だ。暁人は幼馴染の由芽から見ても端正な顔立ちで背が高く、学年の中でも目立つ存在だった。何より彼の優しさは女子たちの間で評判だった。


「ありがと」

 素っ気なく答えた由芽だが、心の中では女子たちの羨望の視線に少し優越感を覚えていた。


 暁人が包みを渡しながらからかうように言った。

「お前、まだこの柄の包み使ってんの?」


 その言葉に教室の女子たちがさらに色めき立つ。優奈までニヤついている。由芽は唐揚げを飲み込むと間髪入れずに返した。

「デカカワ、可愛いじゃん。暁人も昔、デカカワのパンツ履いてたでしょ?」


 教室の空気が一瞬固まり、続いて男子たちが湧き立った。暁人は顔を赤くしながら叫ぶ。

「おい! 履いてねーわ!」

「そうだっけ?」由芽は首を傾げて、しらばっくれる。「ま、ありがと。助かりました」感謝の念は、しっかり暁人の目を見て伝えた。


 席に戻る途中、モブ男子がクスクス笑いながら囁いてきた。

「橘は、暁人の今のパンツも知ってんの?」

 由芽は一瞥もくれず、その言葉を完全に無視した。




 体育館にはボールが床を叩く乾いた音が響いていた。窓の外から射し込む夕日が、コートの上に長い影を作っている。試合前の調整のため、今日は全体練習はない。暁人はバスケットボールを手に、黙々とシュート練習を続けていた。


 由芽は体育館の端に腰を下ろし、体育の授業で使ったシューズの紐を結び直しながら、彼の姿をぼんやり眺めていた。軽やかな足運び、無駄のない動き。何度も見ているはずなのに、彼のプレイにはどこか惹きつけられるものがある。


「さすがに疲れたんじゃない?」

 由芽が声をかけると、暁人は額の汗を手の甲で拭いながら振り返った。

「まあね。でも、まだあと10本決めるつもり」


 そう言う彼の顔はどこか生気が乏しい。いつもなら明るく輝く瞳が、どんよりとしている気がした。シュートを打つたびに、何度も目元を擦っているのも気になった。


「ねえ、最近寝不足?」

 由芽は、シューズをカバンに押し込みながら尋ねた。

「ん? まあ、ちょっとだけね。でも別に気にするほどじゃないよ」


 暁人はボールを拾い上げ、ポンポンと軽く床に弾ませた。だが、その返事にはどこか含みがあるように聞こえた。由芽は眉をひそめたが、それ以上は追及しなかった。幼馴染だからこそわかる。暁人は、聞かれたくないことには頑なに答えないタイプだ。


「そうなの? 無理しないでね。明日の試合、主役がバテてたらチーム全員の士気が下がるんだから」

「わかってるよ」


 暁人は小さく笑うと、再びボールを放った。リングに吸い込まれるように、見事なアーチを描いてシュートが決まった。


 それを見届けた由芽は、立ち上がりながらふと思った。

 ──目元を擦る仕草、最近多くない?


 声をかけようとして飲み込んだ言葉が胸につかえ、その奥に、得体の知れない不安がじわりとまた広がっていく。



 夕方、由芽は父の部屋に忍び込んだ。特に目的があったわけではない。ただ最近、ニキビのように潰してはすぐに膨れてくる妙な不安が胸をザワつかせていた。部屋はそんなモヤモヤを解決してくれる「答え」が転がっているような気がしたのだ。


 本棚を何気なく眺めていると、小さな木製の箱が目に留まった。色褪せた装飾と滑らかな質感からして、かなり昔から使われているものらしい。鍵はかかっておらず、簡単に開けることができた。


 中には何枚かの写真が入っていた。何気なく手に取った一枚を見た瞬間、由芽は息を呑んだ。

 写真には若い頃の父が映っていた。誰かと肩を組み、爽やかに笑っている。由芽がそれを父だと思った理由は単純だった。鼻筋の通り方や口元の形がそっくりだったからだ。


「お父さん、暁人よりもカッコいいかも……」

 由芽は写真をじっと見つめながらつぶやいた。その鼻筋はよく自分にも似ていると言われる。改めて自分の鼻を指でなぞり、少しだけ誇らしい気持ちになる。


 だが、視線を隣の人物に移した瞬間、由芽は思わず目を見開いた。


「あれ……お父さんが、二人いる……?」


 目の前の写真には、まるで双子のように似た二人が写っている。だが、どちらも父のようであり、どちらも父ではない気がする。いや、待て──その隣の人物の顔立ちは、暁人そのものだ。しかし、どこか違う。表情が硬く、暁人よりも少し老けて見える。


「暁人のお父さん……?」

由芽はそうつぶやきながら写真をじっと見つめた。だが、すぐに首を振った。暁人の父親は由芽が幼い頃に事故で亡くなっている。この写真が撮られた時代と彼の父親の年齢を考えると、矛盾しているように思えた。それでも、その顔立ちは紛れもなく暁人に似ていた。写真をじっと見つめていると、胸の奥が妙にざわついてくる。


 写真の背景には「東悠大学バスケットボール部OBOG総会」と書かれた看板が映っている。二人とも試合直後なのだろう、汗で顔が光って見える。その光景は明るい青春そのもののように見えたが、由芽の胸にはなぜか得体の知れないざわつきが広がった。


 

 ──どうして父がこの写真を持っているんだろう?


 考えれば考えるほど、頭が混乱してきた。結局、「見なかったことにしよう」と決めて、写真を箱に戻した。だがその瞬間、写真が持っていた何かが由芽の心にしっかりと爪痕を残していった。目立たなかったニキビを潰せず、逆により痛く目立つようになったような感覚に由芽は陥った。





 夕方、リビングに降りると、父がソファに腰掛け、新聞を広げていた。何気ない日常の風景だが、由芽は写真のことが頭を離れず、視線が父に向かう。すると、その父がふと顔を上げ、由芽を手招きした。


「由芽、少し話がある」


 突然の言葉に、由芽は警戒心を抱いた。まさか、さっき部屋を物色していたことがバレたのだろうか?

「何? またお説教?」

「そうじゃない。ちょっと確認しておきたいことがあってな」


 父の表情は真剣そのものだった。新聞を脇に置き、前のめりになる。


「最近、変な夢を見ていると言っていただろう。覚えているか?」

「ああ、うん。だから何?」


 由芽はぎこちなく答える。夢の話は前にも少しした記憶があるが、それがどうして父の口から今持ち出されるのかがわからない。


「いいから答えな。その夢で、覚えのない過去の出来事を見たりはしないか? 例えば、自分が見たことのない場所や、経験したことがない状況。それでもなぜか、そこを知っているような気がする、そんな夢だ」


 由芽は一瞬考え込んだが、すぐに首を横に振った。「ううん、そんなのはない。普通の夢しか見ないよ」


 父は小さくうなずきながら続けた。「ならいい。だが、念のため聞いておく。その夢を見て以降、悪夢を見るようになったり、眠ることを嫌がるようになったりしていないか?」


 由芽は戸惑いながら答える。「別に……そんなことはないと思う」


 父は安堵のため息をついた。「それなら心配ない。お前のは流行り夢とは関係ないだろう。きっと、疲れてるだけだ」


「流行り夢って……そんなに怖いものなの?」

 由芽が恐る恐る尋ねると、父は少しだけ目を細めて言った。「あまり深く考えるな。ただ、お前がそういう夢を見たときは、すぐに教えてくれ。それでいい」


 由芽は少しほっとしながらも、胸の奥に小さな違和感を覚えた。父がここまで慎重になることなんて、滅多にない。


「まあ、年頃の女の子が見る夢なんて、いろいろあるだろう。気にするな」

 父は軽く肩をすくめて笑い、由芽の肩をポンと叩いた。


「な、何よそれ!」

 由芽は真っ赤になりながら立ち上がった。その瞬間、父が少しでも和らげようとした空気が、逆に不気味なものに思えてしまった。


 そして、由芽は考えた。忘れていたはずの青いシートも頭の片隅にちらつく。

 ──本当に、私は大丈夫なのだろうか?



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