リングの向こう側
翌日、由芽は鼓動が速まるのを感じながら体育館の扉に手をかけた。冷たかった取っ手が少し汗で滑る。扉を押し開けると、まばゆい光が目に飛び込み、ボールが弾む乾いた音が耳を叩いた。その瞬間、昨夜の封筒の記憶が一瞬よみがえった。中身をのぞいた罪悪感よりも、そこに書かれていた得体の知れない、父が抱えている秘密の片鱗。興奮がまだ胸の奥にくすぶっていた。
──ここにいる間は忘れよう。
心の中でそうつぶやきながら、由芽は一歩前へ進んだ。
「今日からバスケ部に入ります、橘由芽です。よろしくお願いします!」
言葉を発した自分の声が、予想以上に大きく体育館に響いた気がして、少しだけ恥ずかしさがこみ上げた。けれど、その直後に返ってきた部員たちの「よろしく!」という元気な声に、思わず肩の力が抜ける。
視線を正面に戻すと、顧問の男の先生が腕を組み、微かに笑みを浮かべながら頷いていた。その視線はどこか安心感と期待を帯びていて、由芽の胸に少しだけ自信を灯した。
──ここではただ、一人のバスケ部員としてやるだけだ。
自分自身にそう言い聞かせるように、由芽は深呼吸を一つして、仲間たちの輪の中へと歩み寄った。
先生の紹介で、再度挨拶をし終えた由芽は、先輩の促しで女子バスケのシュート練習に合流した。渡されたボールは見慣れたはずのバスケットボールなのに、手のひらに触れる感触がやけに冷たく、重かった。緊張で指先がこわばっているのが自分でもわかる。
深呼吸をして心を落ち着けようとするが、視線を前に向けるたびにゴールが遠ざかるような錯覚に襲われる。リングはただそこにあるだけなのに、その存在感が圧倒的だった。
由芽は両手に力を込め、ボールを丁寧に構えた。軽やかに放つイメージを頭の中で描きながら投げたシュートは、想像と違いその重さを軌道の中に含んでほんの僅かにリングネットをかすめ、壁に跳ね返された。
「あ……」という言葉が漏れそうになるのをぐっと飲み込む。再び挑戦しても、結果は変わらない。放物線を描くはずのボールは、軌道を外れたまま、ゴールに触れることすらできなかった。冷や汗が額ににじみ、由芽の胸の内で焦りがじわじわと広がっていった。
「まずはフォームをしっかり覚えないとね。まぁこういうのは、いきなりできるもんじゃないよ。数、こなしていこう! ゆめちゃん!」
隣で声をかけてくれる先輩に由芽は頷いたものの、その言葉は耳の奥でぼんやりと反響するだけだった。
目の前のボールに集中するはずが、どうしても意識は隣のコートへ逸れていく。そして、視線の先には彼がいた。暁人だ。
昨日の風邪はすっかり回復したようで、軽快な動きでボールを扱いながら、いつもの精悍な顔つきでこちらを見ている。暁人が満面の笑みを浮かべたかと思うと、大げさなジェスチャーで何かを伝えようとしているのが見えた。
「ひ、ざ、を、つ、か、え……?」
不器用な口パクを読み取った由芽は、心の中で小さく繰り返した。暁人のジェスチャー通りに膝を曲げ、シュートフォームを変えてみる。自分の手元に重心を戻すように丁寧にボールを構え、一呼吸置いてから放った。
ボールは静かに放物線を描き、ゴールリングに音も立てずに吸い込まれた。
「入った……!」
驚きと喜びが一気に押し寄せる。
「やったね! ゆめちゃん! はい!」
さっき声をかけてくれた先輩が、両手でハイタッチをしに由芽に駆け寄ってきてくれた。先輩にされるがままにハイタッチをすると、そのまま指は絡めとられ、由芽の腕ごとブンブンと上下に振られる。
由芽の腕に隠れては覗く先輩の屈託のない笑顔に負け、気づけば由芽も笑みを浮かべていた。周りにバレないように自然な様子を装って、隣のコートに目を向ける。暁人が両足で飛び上がって、これまた大袈裟なガッツポーズを決めていた。まるで暁人自身が、大事な試合でブザービートを入れたかのようだ。
先輩が満足して離れていく姿を見送った後、暁人につられて、由芽も無意識のうちに拳を突き上げた。由芽の反応が意外だったのか、暁人はもう一度拳を掲げて、こちらに向かって何度か振っている。
だがその瞬間、暁人の後ろにいた顧問が彼の頭を軽く小突いた。叱られるのかと思ったが、顧問は意外にも口元を緩めると、由芽に向かって親指を立てた。その仕草が先生の屈強な筋肉とはなんとも不釣り合いで、思わずクスッと笑ってしまう。
「ナイスシュート!」
暁人がわざとらしいくらい大きな声で叫んだ。その声に再び顧問が暁人を小突く。体育館に響く軽い笑い声。その穏やかな空気に、由芽の緊張は少しだけ和らいだ。
シュートフォームを忘れないうちに、シュートを繰り返し打った。由芽は放物線を描くボールを見ながら、頭の中では暁人の言葉をリフレインする。由芽の胸の奥には、いろんな思いが入り混じって渦巻いていた。シュートが入るたびに感じる快感は、父に対して抱えている違和感とは正反対のものだった。どれだけ努力しても結果が出ず、見向きもされなかったときの悔しさ。あの封筒を開けてしまった後悔と興奮が交錯する瞬間──そんな心の重みを、今だけは打ち払いたかった。
「今度はもっとより完璧に」
そう自分に言い聞かせながら、また次のシュートを構えた。リングをじっと見据え、膝を軽く折り曲げる。その動作が次第に体になじんでいった。シュートが決まるたび、周囲の空気が変わっていくのを感じる。ネットとボールが出す歯切れのいい音をきくと、由芽の心のささくれは取り除かれていくようだった。
練習が終わり、周りに気づかれないようにそっと隣のコートを探したが、暁人の姿はもうどこにも見当たらない。その空白が、シュートが入るたびに感じていた興奮とは別の冷たい感覚を、静かに由芽の心に落とした。
バスケ部での初日は、由芽が思い描いていた以上の出来だった。いてもたってもいられず、帰り道の自転車を無意味に立ち漕ぎしてみたりする。普段は慎重な由芽からは決して考えられないことだが、自転車のペダルから足を離して広げ、風を体で感じながら景気良く坂を下った。卸したてのバスパンが風にはためいて小気味いい音をたてる。
──私、こんなに才能があるなら、入学した時から暁人と一緒にバスケ部に行けば良かったのに。
由芽の自信は、ペダルを漕ぐたびに大きく膨らんでいった。
「ただいま!」
いつもより声が大きくなってしまった。母のおかえりという声も普段より反応が早く感じる。脱いだ靴をしまおうと顔上げると、シューズボックスの天板に母が買ってきたクマのぬいぐるみがご機嫌に座っているのが目に入った。くまのすけと由芽が勝手に命名し、父も母も気付けばくまのすけと呼んでいた。彼にも小声で帰宅した旨を伝える。
「何してんの? 早くお風呂入っちゃいなさい」
母は怪訝そうな目でくまのすけと由芽を交互に見た。由芽は少しも動じずに、はーいと間延びした返事を返して風呂場に向かった。
「バスケ部の初日、どうだった?」
夕食の席で母が尋ねてきた。
「うん、すごく楽しかったよ。シュートも褒められたし!」
由芽はさらりと答えたが、少し得意げだった。
「私はからっきしだけど、さすが父さんの子ね。血かしら?」
「え? お父さん、運動神経いいの? 意外」
なんだか自分の手柄を父に取られたような気がしたが、父の更なる長所に由芽は強い興味を抱いた。
「あら、言ってなかったかしら。父さんは──」
「そんなことどうでもいいよ」
途中で父が話を遮った。「由芽の実力さ。すごいなあ由芽。家の前にバスケのゴールでも買うか?今度シュート練習、一緒にやろうな」
「なによ。あの子も生きていればきっと」と母は、おかずのお皿を母の方に寄せる。
父の言葉を聞きながら、由芽は少しだけ嬉しくなった。だが、その裏で封筒のことが頭をもたげてきているのに気づき、心の中で静かにそれを追い払う。今は、この平穏な瞬間を楽しみたかった。