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揺れる糸

 

 由芽がバスケ部への入部を決めたのは、突発的なことだった。昨夜の夢がどうしても頭から離れない。あの体育館、そして暁人の姿。目覚めた後もその感覚は薄れるどころか、むしろ鮮明さを増していた。


 昼休み、彼女は優奈とともに体育館の横手にあるバスケットコートに向かった。ボールを追いかける部員たちの間に暁人の姿を見つけると、自然とその方へ足が向いた。彼は仲間と話している最中だったが、由芽に気づくと軽く手を振った。


「お疲れ。どうした?」

 暁人はいつもと変わらない表情でそう言った。だが、よく見るとその声には微かな硬さが混じっているように思えた。


「ねえ、私、バスケ部に入ろうと思う」

 由芽が言うと、暁人の笑顔がほんの一瞬だけ途切れた。横で優奈が「聞いてないんですけど!?」と由芽の腕を掴んで不満を露わにする。


 そんな優奈を一瞥して、もう一度暁人の目の奥を捉えるようにじっと見据える。優奈は由芽のただならぬ雰囲気を感じとり、腕をパっと離した。暁人の表情の変化を見逃さなかった由芽の胸に、小さな違和感が生まれる。


「そうか。由芽が入ってくれるのは嬉しいよ」

 言葉の内容とは裏腹に、その声には何かしらの迷いが滲んでいる。


「ねえ、なんでそんな言い方なの?もっと素直に喜んでくれてもいいんじゃない?」

「いや、本当に嬉しい。ただ、部活って案外ハードだし、無理だけはしないようにって思ってさ」


 暁人の言葉に特別な引っかかりはなかった。けれど由芽には、それがあえて選ばれた言葉のように感じられた。暁人との会話が途切れないように、何か話題を探す。


「そういえば、お父さんが、暁人の話してたよ。頑張ってるって誉めてた」

 私の中の大事件を暁人に伝える。


「お前のお父さんって、いつも俺のこと気にしてくれるよな」

 父さんが私以外の子供を褒めるなんて一大事なのに、暁人はどこ吹く風だった。


「今日、先生に入部届を出してくるよ」

「そっか。じゃあ、また一緒に練習しよう。あとあの件黙っててくれよな」


 暁人は再び笑顔を見せた。けれどその笑顔は、いつものように自然ではなく、どこかぎこちなさが残っていた。暁人の笑顔に由芽は無言で頷く。隣の優奈は、まるで子猫が初めて鏡に映る自分を見たような、そんな素直な表情を顔に出していた。


 体育館の廊下を戻りながら優奈は由芽にぶつくさと文句を言う。

「ねえ、由芽さん? わたくし、一応バスケ部のマネージャーなんですけどねえ? あと、なによ。あの件って」

「ごめん、ごめん。さっきの場で、二人ともに言いたくて。あのことは、ナイショ」

 その様子からして優奈は本気では怒ってないようだ。優奈は「ナイショってやらしい!」と廊下に響く声で言う否や、突然走り出し由芽の前で振り向いて、顔をこちらに突き出した。

「ま、由芽のその猪突猛進な感じ、私は好きよ。それに恋は盲目っていうもんね!」

 顔をこちらに向けながら優奈は後ろ向きに軽快なステップを踏む。

「違うから!」

 由芽も負けじと小走りで優奈を追う。


「へー! へー! 私も『由芽が入ってくれるのは嬉しいよ』」

 優奈はさっきの暁人の調子を真似して由芽に叩かれないように前を向いて走り出した。由芽は笑いながら優奈を追いかける。優奈とのやりとりを暁人に聞かれていないか後ろを振り向いたが、誰もいなかった。


 放課後、入部届の提出を終えた由芽は、昇降口へと向かっていた。暮れかけた空の下、廊下は静まり返っている。ふと背後が気になり振り返ると、体育館の入口付近に暁人が立っているのが見えた。


 彼は動かない。由芽に気づいている様子もない。視線の先にあるものを捉えようとしているのか、わずかに眉を寄せている。その横顔は、練習中の暁人とはまるで別人のようだった。


 由芽は迷ったが、結局声をかけることはしなかった。そのまま踵を返し、足早に昇降口を目指した。





 由芽がリビングに足を踏み入れたのは、父がソファで仕事用のノートパソコンを開いている時だった。いつもの光景。しかし、その背中には、かつて感じた親密さが薄れている。


「お父さん、ちょっといい?」

 由芽の声に父は顔を上げたが、表情はどこか疲れている。


「なんだ?」

「前も言ったけどさ、私、最近変な夢をよく見るんだけど……。これって、ニュースでやってるウイルスと関係あるのかな」

「寝れてないのか?」

「寝れてはいるよ」


 父は少し眉をひそめたが、すぐにまた画面に目を戻した。

「なら、そんなこと気にするな。若いんだから、すぐ治る」

「いや、そういう問題じゃなくて!」

 思わず声を荒げる。由芽はこの反応が信じられなかった。


「ごめん、でも本当に大したことじゃないんだよ。お前みたいな健康な若者が心配する必要はない」


 父の言葉は、理論的ではあるが冷たかった。由芽が知っている“昔のお父さん”なら、もっと真剣に聞いてくれたはずだ。


 幼い頃の記憶が蘇る。夜泣きがひどかった由芽を父が背負って部屋の中を歩き回ってくれたこと、進路相談にも全力でアドバイスしてくれたこと──。


 だが、ここ数年、父との会話は表面的なものに変わりつつあった。仕事が忙しいのは知っている。それでも、由芽は物足りなさを感じずにはいられなかった。


「……お父さん、何か隠してない?」

 由芽の言葉に、父は一瞬だけ動きを止めた。しかし、それは一瞬のこと。


「仕事のことだよ。家族には関係ない」

 そう言って、またタイピングを再開した。


 由芽は部屋に戻る途中、ふと思い出した。幼馴染の暁人の言葉──。

「お前のお父さんって、いつも俺のこと気にしてくれるよな」


 父と暁人が交わす会話を見たことがある。どこか特別な親密さを感じたが、それが何かは分からなかった。しかし、由芽にとって、父が暁人に向ける表情は、自分に向けられるそれとはどこか違って見えた。


 暁人は、父が思っている以上に特別な存在なのかもしれない。いや、だからこそ、彼女自身も暁人に惹かれているのか──そんな考えが頭をよぎる。

 由芽は、布団を頭まで被るが、眠りにつくまでの間、考えがまとまることはなかった。



 その夜、再び由芽の夢に体育館が現れた。今回は夕暮れ時の薄暗い光が差し込む静かな空間だった。目の前には、ボールを持つ暁人の姿があった。彼の目は深く虚ろで、無言のままじっと由芽を見つめていた。



 翌朝、由芽は目覚めた瞬間から気持ちの整理がつかず、曖昧な夢の感触を引きずったまま学校に向かった。暁人に会って話をするべきかどうか迷いながらも、結局その答えを見つけられないまま自転車を走らせた。

 しかし、教室に暁人の姿はなかった。

「風邪らしいよ」

 近くの席の友人が、彼の欠席理由を簡単に伝えた。その一言だけで、それ以上の情報は誰も持っていなかった。由芽は軽い失望を感じながらも、それを表に出すことなくいつも通りの一日を過ごした。


 放課後、昇降口を出るときには空が薄く茜色に染まりかけていた。仮入部期間中にもかかわらず、今日は「体調不良」と伝えて欠席した。暁人のいないバスケ部に足を運ぶ気にはどうしてもなれなかったのだ。由芽は自転車の鍵を外しながら、ふと昨夜の夢を思い出した。あの夢が何を意味しているのかは分からない。ただ、暁人が欠席したことで、奇妙な不安感が胸に湧き上がっていた。


 由芽は軽くため息をつくと、ペダルに足を乗せ、ハンドルを握った。学校を離れ、家へと続く道を走り出す。暮れなずむ光が自転車のフレームに反射し、細長い影を路面に描いていた。

 夕暮れの薄明かりが住宅街の路地に影を落とし、人影もまばらだ。だが、角を曲がった瞬間、不意にその影がひとつ増えた。


 由芽が足を止めると、家の門のそばに立つスーツ姿の女性が目に入った。どこか場違いな印象を受けるその人物は、こちらを向いて微笑んでいる。


「由芽ちゃん?」


 突然名前を呼ばれ、由芽は思わず立ち止まった。「え……どなたですか?」

 慎重な声で問い返す。女性は肩までのストレートな黒髪に、よく仕立てられたスーツを身にまとい、まるで企業の重役のような洗練された雰囲気を漂わせていた。けれど、その表情にはどこか張り詰めたものが見える。


「私よ。由芽ちゃん。わ、た、し。玲子よ。小鳥遊玲子」


 その言葉に由芽は記憶を遡り、はっとして声を上げた。

「あ、暁人のお母さん?」

 由芽の脳裏に浮かんだのは、どんな時も優しい笑顔を絶やさなかった理想の母親像だった。だが、目の前のスーツ姿の女性とそのイメージがどうしても結びつかない。


「実は、私の会社って製薬会社でさ。お父さんの研究所と協力してるの」

 玲子は一歩近づきながら、スムーズに用件を伝えて、手に厚い封筒を差し出した。「これを渡してくれる? 緊急の案件だから、よろしくね、由芽ちゃん」


 由芽の目が封筒に吸い寄せられる。それは無地で地味なものだが、赤い文字で「極秘」と印字されていた。手に取ると、どこか冷たい重みが伝わってくる。


「えっと……ごめんなさい。気づかなくて! お父さんに渡せばいいですか?」

 戸惑いながらも受け取り、由芽は玲子を見上げた。


「ええ、お願いね。お父さんには非常に重要なものって伝えてね」

 玲子の声は落ち着いているが、目はどこか揺れているように見えた。


「えっと、その、いつも父がお世話になっております」

 由芽は自分の失礼を取り繕うように、年不相応な言葉を並べた。


「いいのよ。そんな改めて畏まらなくても。それより由芽ちゃん、お父さんに愛されてるのね。お父さんのデスクに写真があったわよ」


 玲子の言葉を聞き、由芽は驚きと喜びが入り混じった複雑な気持ちになる。けれど、すぐに疑念が湧き上がる。あの堅物で恥ずかしがり屋の父が、職場に家族の写真を飾るだろうか。以前、父のスマホを無理やり由芽の写真に変えたことがあったが、翌日には山の風景に戻されていた。その父が、家庭の話題を職場で持ち出すとは思えない。


「お父さんが、写真を……?」

 疑念を隠しながら尋ねる由芽に、玲子は微笑みを浮かべたまま応じる。


「ええ、いつも由芽ちゃんの話をしているわよ。本当に大切に思っているんじゃないかしら」


 玲子の言葉に、由芽の胸にかすかな苛立ちが芽生えた。「直接言えばいいのに、どんだけ恥ずかしがり屋なんだよ」と思う反面、やはり父の行動がどこか違和感を伴っていた。


「よろしくね」

 玲子は短くそう告げると、軽く会釈をして背を向けた。その歩みは迷いなく、路地の向こうへと消えていく。由芽はその背中を見送った後、手にした封筒をじっと見つめた。その中に何が入っているのか、そして玲子の笑顔が何を隠しているのかを考えながら──。


「極秘」の文字がじわじわと重みを増していく。指で封の部分をなぞると、しっかりと糊付けされていることがわかった。簡単に開けられない仕組みだ。そして開ければ、一目でそれと分かるだろう。


 ──バレずに開ける方法なんて、あるのだろうか。


 由芽の心臓が鼓動を早める。開けてはいけないとわかっている。けれど、このまま父に渡すだけでは済まされない気がした。玲子の話も、わざわざ父が家で受け取る理由も、どこか納得できない。



 そっと封筒を光に透かしてみたが、分厚い紙が影をつくるばかりで、中身は見えなかった。由芽は微かなため息を漏らすと、慎重に家のドアを開けた。部屋には誰もいない。父も母も帰宅しておらず、静寂が満ちていた。


 封筒を手に持ったまま階段を上がり、自室へと向かう。ドアを閉めて鍵をかけると、初めて深く息をついた。


 机に封筒を置き、じっと見つめる。「開封厳禁」の文字が目に入るたびに、心の中の躊躇が声を上げた。しかし、自分が感染しているかもしれないという恐怖と、父の隠してることに迫りたいという衝動が勝った。


「切っちゃダメだよね……」

 呟きながら、封筒の端を慎重に指先で探る。封を閉じているシールに指を滑らせると、わずかな隙間があることに気づいた。


「ここからなら、いけるかも……」


 由芽は学習机の引き出しからピンセットを取り出し、それをシールの端に差し込んだ。慎重に力を加えながら、シールを剥がしていく。息をするのも忘れるほど集中し、小さな音を立てて接着面が剥がれるたびに、心臓の鼓動が速くなる。


 数分かけて、ようやくシールを完全に剥がした。封筒の中から分厚い報告書が顔を出す。由芽の心臓は高鳴り続けていた。中には、数十枚の報告書が束になって収められていた。表紙には「第32回研究報告書」とだけ書かれている。


 由芽は手汗をぬぐい、一枚目をそっと引き抜き、目を走らせた。



 “「ヒト脳における扁桃体及び前頭前野の活動異常についての初期観察」

「ニューロトランスミッターの分泌量に伴う夢の追体験現象の変異仮説」

「α波及びθ波における記憶断片の統合過程に関連する神経経路の特定」”


 専門用語の羅列に、由芽の眉間には自然と皺が寄った。次のページをめくるも、さらに難解な言葉が続くだけだ。


「扁桃体って、何……?」

 呟いても、答えが返ってくるわけではない。報告書の内容は完全に理解の範囲外だと気づき、由芽はため息をついた。興味が薄れてきた彼女は、報告書を封筒に戻そうと手を伸ばす。


 そのとき、束の間に挟まれていた、一枚の紙がひょいと床に滑り落ちた。


 拾い上げたその紙には、こう書かれていた。その文面に思わず目を奪われた。そこにはこう記されていた。



 “「夢は、記憶の断片の再構成によるものと考えられる。他者の記憶の追体験現象について、特定の条件下において観察されるケースが増加」

「今回の新型ウイルス感染症との関連性も否定できない。特に夢を媒介とした感染経路の可能性については、今後の検証が必要」”


 由芽の手が震えた。


「夢が……感染経路?」

 頭が混乱し、息が詰まる。まさかそんなことがあり得るのか。由芽はすぐさま次のページをめくり、さらなる情報を探ろうとした。


 そのとき、階下から玄関のドアが開く音が響いた。


「ただいまー」


 母の声だ。由芽は慌てて報告書を束ね直し、剥がしたシールを封筒に貼り直した。細かな位置を調整しながら、まるで封筒を開けた痕跡がないように見せかける。


 階下から母が上がってくる音が聞こえた。由芽は平静を装いながら、封筒を手に取ると部屋のドアが開いた。


「何してたの?」


 母の問いかけに、由芽は封筒を差し出しながら言った。「これ、さっき暁人のお母さんから渡されたの」


「玲子さん?」


「うん。会社でお父さんの研究手伝ってるんだってだって」


 母は怪訝そうな顔で封筒を受け取ると、ちらりと娘を見た。「あの人の仕事関係のことなんて、家に持ち込まないのにね……」


 由芽は曖昧に笑いながら、机の上を片付け始めた。母がその場を去った後、由芽は深く息をついた。


「あれ、何だったんだろう……」


 封筒に戻した報告書の内容が頭の中をちらつく。夢と感染。由芽の中に、不可解な謎が静かに広がり始めていた。




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