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訪問者

 体育館の窓から差し込む午後の陽射しが、由芽の背中にじんわりと温もりを伝えていた。

 その日、由芽はバスケットボール部の見学に訪れていた。高校生活が始まって半年が経とうとしている中で、やっと部活に入る決心を固めたのだ。体育館には、ボールがフロアを滑る音や、軽快な掛け声が響き渡り、明るい雰囲気に包まれていた。


 ノートをバインダーに挟み、ペンを走らせマネージャー業務をこなしている優奈の横で、由芽はボールと気になる人を目で追っかけている。体育館の壁際に立っていると、ボールがこちらに向かって転がってきた。由芽はボールを拾いあげる。

「ごめん!」という声とともに、その後を追う半袖のユニフォーム姿の少年が駆け寄ってくる。

「優奈! タオルくれ!」

 そう言いながら走り寄ってきたのは、暁人だった。息を切らしながらも、その目は楽しげに輝いている。

「ほい」

 優奈が暁人にタオルを投げて渡す横で、由芽がボールを止め持ち上げた。「さんきゅ」と暁人はにこやかに受け取り、汗を拭い、ポケットにしまった。そこでやっと由芽に気づくと僅かに間を置いてから話しかけてきた。

「あ、由芽……。どの部活にするか決めた?」

 由芽はまともに彼の顔をみれない。節目がちに答えた。

「まだ迷ってるんだよね。演劇部も面白そうだけど、バスケ部もいいかなって」

 ボールを手渡したとき、暁人の指先が一瞬触れた。その冷たさに、由芽はほんのわずか眉をひそめた。普段の暁人とはどこか違う——だが、その感覚は曖昧で、確信には至らなかった。


 暁人がこちらに来るのではないか、そんな期待を胸に、由芽はゴール下に立っていた。それは偶然を装った、ほんの少しの計算だった。しかし、目の前の暁人がいつもの笑顔を浮かべると、さきほどの違和感は霧のように薄れ、どこかへ消えていった。



「演劇? いいじゃん!」

 優奈の方からペンが走る音が消える。視線をこまめに動かす暁人は、ボールを脇に抱えなおして一呼吸おくと、恥ずかしそうに付け加えた。

「でも俺、実はバスケ部なんだけど、由芽が来てくれるなら大歓迎だよ」

 暁人が爽やかに笑う。軽い調子の冗談なのに、それだけで由芽の胸が高鳴った。その笑顔が、体育館のワックスがけされた床に反射する陽射しよりも鮮明に映る。横でうんうんと無言で頷く優奈が目に入るが、由芽は暁人の笑顔に夢中だった。


 けれど、その瞬間、不意に頭の隅に浮かび上がった青いシートの映像。どこかで見たあの光景、そしてあの男の後ろ姿。由芽は首を軽く振り、その考えを振り払おうとした。目の前の陽射しや、暁人の笑顔だけに集中したかった。




 帰宅すると、湯気の立つ鍋が食卓を彩っていた。母親が調理を進めながら父親と軽口を叩いている。

「今日は学校どうだった?」

 母親が何気なく尋ねてきた。


「部活見学してきた。まだ迷ってるけど、バスケ部にしようかな」

「いいじゃない。体を動かすのは健康にもいいしね。それに──」


 父が、何かを察知したように由芽に話しかけてくる。

「由芽の幼馴染の、暁人くんもバスケで頑張ってるらしいな。だからか?」

「あ、うん。そ、そうだけど、関係はないよ」


 由芽は答えながらも、ふと胸の奥に違和感を覚えた。何かが迫ってくるような予感がしてならなかった。


 その直後、インターホンが鳴った。普段なら気にも留めないはずの音が、この日はなぜか鋭く響いたように思えた。


 母親が玄関に向かい、しばらくして戻ってくると、こう言った。

「警察の人が来てるわ。由芽、あなたにお話があるみたいよ」


 由芽の胸が急に締め付けられるような感覚に襲われた。



 玄関先には、若い警官が立っていた。制服の清潔なラインが目を引くが、どこか人懐っこい笑みがその印象を和らげている。


「橘由芽さんですね。少しだけお話を伺いたいのですが、お時間よろしいでしょうか?」

 その口調は丁寧で落ち着いていたが、微妙な抑揚が警戒心を引き起こした。由芽は自然と背筋を伸ばし、顔を引き締めた。


「最近、学校の周りで何か気になることや、不審な出来事はありませんでしたか?」

 警官の視線は柔らかいが、じりじりと間合いを詰めるような真剣さを内に秘めていた。


 由芽の脳裏に、一瞬あの青いシートと男の背中がよぎる。胸の奥にほんの僅かだが重たいものが沈む感覚が広がった。それでも彼女は、その記憶を必死で押し込めた。


「いえ……特に何も」


「そうですか」

 警官は短く頷くと、スーツの内ポケットに手を入れた。その仕草には無駄がなく、どこか慣れたものだった。そして、彼の指先が一枚の静止画をつまみ出した。


「これについて、何か覚えがありますか?」


 由芽の心臓が一拍跳ねた。写真の中には、防犯カメラの映像が映し出されていた。モノクロの画面越しに、自分が例の男──目の下にクマのある男と話している姿が写っている。あまりに鮮明で、息苦しくなるほどだった。


 気づくと、警官の手元に目をやっていた。彼の手はほんの僅かだが震えている。その震えを目にした途端、由芽の胸の中に得体の知れない不安が芽生えた。


「この男性と、どのようなお話をされていたか覚えていますか?」


 由芽の頭の中で何かが音を立てて崩れていくようだった。夢の中での出来事がフラッシュバックする。男の背中、青いシート、そして何もできなかった自分。


「えっと……覚えてないです。ただ、通りすがりに声をかけられただけで」

 由芽はそう答えるのが精一杯だった。


 警官は一瞬だけ鋭い目つきになったが、すぐに柔らかな表情を取り戻した。

「そうですか。もしかしたら記憶の片隅にあるかもしれません。また何か思い出されたら、こちらにご連絡をお願いします」


 そう言いながら、警官は胸ポケットから手帳を取り出し、身分証を提示した。その際、懐から小さなメモ用紙を取り出し、簡単な連絡先を書いて渡してくる。


「こちらが私の連絡先です。気軽にご連絡ください」


 警官の言葉は親切そうだったが、由芽にはその一言一言が胸を締め付けるように感じられた。


 由芽は、その背中を見送りながら胸の中に渦巻く違和感と恐怖をどう処理すればいいのか分からなかった。ただ一つ分かっているのは、警官の顔にどこか見覚えがあるということ。そして、それが何を意味するのかを考えると、足が竦む思いだった。


 由芽は静かにメモ用紙を見つめた。記されている名前を何度か頭の中で反芻してみる。だが、それが記憶のどの部分にも接続する感覚は得られない。


 小さく息を吐いて、メモ用紙をスウェットのポケットにクシャッと丸めて押し込み、立ち上がった。そのままリビングに戻ると、母が訝しげな表情でこちらを見た。


「警官さん、何の用だったの? 由芽、何か悪いことでもしたんじゃないでしょうね」


 母は声に軽い調子を織り交ぜていたが、由芽には母の目の奥に何か探るような光が宿るのを感じた。

「そんなんじゃない。ただ、この前、落とし物を届けたときの確認とか、そういうの」

 由芽は努めて平静を装いながら答えた。


「落とし物で? わざわざ来るなんて変ね」

「さあね。そんなに気になるなら110番して、うちの子になんの用ですかって聞いてみれば」

 言い返した瞬間、由芽は失言だったと気づいた。案の定、父が新聞から顔を上げてこちらを見たが、すぐに目を戻し、それ以上何も言わなかった。


 食卓を囲む時間は、家族にとっていつも通りの静かなひとときのはずだった。由芽は箸を進めながら、父と母の会話を耳にするともなく聞いていた。

「例の感染症のせいで、研究所、大変そうね」

 母が何気なく口にした一言は、食器を片付ける音にかき消されそうなほど小さかったが、その響きには妙な棘が含まれていた。


「まあな。でも、やりがいはあるよ。それに、この研究が成功すれば世界が変わる」

 父は新聞を畳みながら答えた。一瞬、由芽の目に、流行り夢の言葉が書かれた記事が映る。父の顔にはには疲れが滲んでいるものの、どこか誇らしげだった。由芽はその表情に憧れにも似た感情を覚えた。

 父はいつも忙しく、どれだけ一緒にいたいと思っても、彼を自分のものにする時間は限られていた。それでも、由芽にとって父は世界の中心だった。


「でもさ、由芽だって父さんの仕事、興味あるんじゃないか?」

 父が急に話を振ってくる。

 由芽は一瞬戸惑ったが、小さく頷いた。

「うん……。いつか、父さんみたいな研究者になって、お父さんのこと手伝えたらなって思うよ」

 その言葉に父が微笑むと、胸の奥がじんと熱くなる。父に認めてもらえること、それが由芽の小さな幸せだった。


「研究者? あら、初耳ね」

 母がテーブルを拭きながら、由芽に視線を向ける。その瞳は、光を反射して鋭さを増しており、どこか挑戦的で、由芽は思わず視線を逸らした。

 母は美しかった。少しきつめのその顔立ちは、由芽の心に畏怖と憧れを同時に刻み込んでいる。だが、それだけではない。由芽は、母が持つ全てに羨望を抱いていた。父を完全に自分のものにしている、その事実さえ。


「まあ、由芽が何を目指そうと、自由だけどね。でも、父さんの影響を受けすぎるのも考えものよ」

 母が軽く笑いながら言った。だがその言葉は、由芽の心にひりひりとした感覚を残した。


 会話が途切れた頃、由芽は早めに自室へと引き上げた。



 深夜。

 由芽は目を覚ましたわけでもないのに、意識がはっきりしていることに気づいた。布団の中で体が重く、寒気が肌を刺すようだった。けれど、自分の中で何かが覚醒している感覚に抗えず、瞼を閉じたままその波に身を委ねた。


 気がつくと、目の前には体育館が広がっていた。午後の陽射しが窓から射し込み、いつもの場所に見える。けれど、その静けさは異様だった。周囲は深い沈黙に包まれ、空気そのものが何かを押し隠しているようだった。


 ふと足元を見ると、バスケットボールがゆっくりと転がってきた。床の上で止まる直前、不自然な音が耳に残る。


 その時、奥から暁人が姿を現した。白いビブスを身につけ、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべている。だが、何かが違う。


「ボール、拾ってくれる?」

 暁人の声は確かに暁人のものだった。それなのに、その言葉の響きは感情を剥ぎ取られたように空虚だった。


 由芽は一歩踏み出そうとしたが、自分がなぜここにいるのかを考えると、急に足が重くなった。体育館にいるのは当然のことのように思える。だが、それを疑問視すべきではないか、と自分に問いかけたくなる。


「……私、どうしてここにいるんだろう?」

 由芽は無意識に呟いた。その声は空間に吸い込まれるようにかき消えた。


 由芽がボールを拾い上げた瞬間、背後で奇妙な音がした。振り返ると、体育館の床がじわじわと黒く染まっている。いや、染まるというより、黒い液体が床そのものから湧き出しているのだった。それは生き物のように蠢きながら、由芽の足元を包み込もうと広がっていく。


「由芽! 助けて!」

 暁人が叫んだ。だが、その声は耳に届くと同時に空間に吸い込まれ、次には彼の姿さえ薄れていく。そして、その場に残されたのは青いビニールシートの輪郭だった。まるで何かを覆い隠しているかのように。


「暁人……?」

 由芽の声は消え入りそうだったが、次の瞬間には自分の布団の中に戻っていた。顔には冷や汗が滲んでいた。


 夢だ、と彼女は思った。しかし、その感覚はいつもの夢とは違う。これはただの夢ではなかった。何か──触れてはいけない何かに触れてしまったような感触が、指先に残っていた。


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