青の残像
「ごめんなさい……急いでいるので……」
それだけ言うと、由芽は男に背を向けた。喉がひどく乾き、心臓の音が耳にまで響く。後ろからの返事はなかったが、視線だけは感じる。
早足になる。自分を叱咤するように靴音を響かせる。振り返らない。そう決めたはずなのに、なぜか肩越しに後ろを気にしてしまう。視線を振り解くように自転車に飛び乗った。
街灯の下にしゃがみ込む影が目に入ったのは、ほんの一瞬だった。それが最後に見た彼の姿だ。
胸の奥が重くなる。だが、自分に何ができるというのか? 思い返してみても、助けを求める声にどう応えればよかったのか、答えは見つからない。
やがて家の灯りが見えてくると、緊張が一気に解けた。漕ぐ足を止めると、背中に流れる冷たい汗がはっきりとわかる。
──何だったのだろう。
考えたくなかった。ただ、あの男が普通ではないという確信だけが残った。
その夜、由芽は眠れなかった。薄暗い部屋の天井を見つめながら、あの時聞いた声を思い出す。
「眠れないんだ……」
低く掠れたその声が、耳元で繰り返されているように感じる。枕を抱きしめても、布団に潜り込んでも、それは止まらなかった。
その夜、由芽は眠るのが怖かった。男の苦しげな顔が脳裏に焼き付き、目を閉じるたびに浮かんでくる。感染するなんてあり得ない、と自分に言い聞かせたが、胸の奥に広がる不安を拭うことはできなかった。
深夜、意識が朦朧とする中で、不意に由芽は夢の中にいた。いや、夢だと気づいたのは目が覚めてからの話で、当時の彼女にとって、それはあまりに現実的な体験だった。
由芽の目の前には、ブルーシートに覆われた何かがある。
暗い夜道を赤の回転灯が照らし、静寂を引き裂くような警察無線の音が鳴り響いている。
「警部、これで三件目です」
隣で話しかけてきた部下の声に、由芽は頷く。頷いた拍子に自分の服が目に入る。警官の制服のように見えた。
「例の感染症か?」
由芽の声が現実よりも低く響いた。
「ええ、間違いないかと」
部下が書類を手渡してくる。そこには「新型ウィルス感染症」の被害者とされる人物の名前や状況が事細かに記されていた。由芽はそれを斜め読みし、何度か無言で頷いた。
しばらく同じような確認の会話をして、自分が無意識に時間を稼いでいることがわかった。それでも「見なければならない」という圧力に抗えず、彼女は一歩一歩シートの端へと近づいていく。
「めくりますか?」
若い警察官の声が耳元でささやき、由芽は無言でうなずく。
ブルーシートが静かにめくられる。その下にあった顔を見た瞬間、由芽の世界は一瞬で崩れ落ちた。
それは、自分自身の顔だった。
蒼白で、無残に歪んだその顔は、由芽が鏡の前で見慣れたそれと寸分違わなかった。全身が硬直し、喉の奥から絞り出されるような悲鳴が響く。
「いやあああああああ!」
叫び声とともに、由芽はベッドの上で跳ねるように目を覚ました。
目を開けると、部屋の天井がぼんやりと目に入る。汗が額から首筋を伝い、体は震えが止まらない。喉はカラカラに渇き、胸は破裂しそうなほど鼓動している。
「夢……夢だ……」
自分に言い聞かせるように呟くが、胸に残る感触が現実感を持って彼女を襲う。
ブルーシートをめくる瞬間、由芽はその光景が現実の延長線上にあるように感じた。夢特有の不明瞭さや曖昧さはなく、むしろ現実以上の鮮明さで全てが目に焼き付いてる。
どうしよう。もしかして感染したのではないか──?
彼女は自分の腕を掻きむしりながら部屋の隅に逃げ込むように座り込んだ。
その時、廊下から足音が近づいてくる。
「由芽、大丈夫?」
母の声だ。ドア越しに心配そうな声が響く。
「入らないで!」
由芽は悲鳴のような声を上げた。
「由芽、どうしたの?」
母がドアノブを回す音が聞こえる。
「来ないで!」
由芽は頭を抱え、嗚咽を漏らしながら叫んだ。
自分が感染者であるかもしれないという恐怖。そして、もしそうなら母を危険にさらしてしまうという罪悪感。感情が渦巻き、由芽はただその場にうずくまることしかできなかった。
ドアの向こうで母の気配がしばらく留まっていたが、やがて静かに立ち去っていった。
由芽はその音を聞きながら、深い闇に落ちていくような感覚を覚えた。
翌朝、由芽は部屋の隅で膝を抱えている自分に気づいた。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。
二度目の眠りでは悪夢を見なかったことに気づき、由芽は胸をなで下ろした。そして小さく息を吐き出す。
「なーんだ。やっぱり違ったんだ」
「由芽ー! ごはんよ! 降りてきなさい!」
母の声が階下から響く。由芽は急いで制服に袖を通し、髪を手早く整えると階段を駆け下りた。
「あんた、昨日大丈夫だったの? すごい声が聞こえたけど」
母が心配そうに尋ねる。父も新聞を脇に置いて顔を上げた。
「何かあったのか?」
その問いに由芽は軽く首を振りながら答えた。
「いや、ちょっと変な夢を見ただけ。そんな大したことじゃないよ」
テーブルの上にはいつもの朝食が並んでいる。パンに目玉焼き、サラダ。それに母が淹れたコーヒーの香りが漂っている。
「変な夢って、まさかその流行り夢ってやつじゃないだろうな」
父が眉をひそめて言う。その声に少しだけ警戒心が含まれているのを感じた。
「違うって。普通の悪夢だったから」
由芽は笑ってごまかそうとした。だが、母が横から声を上げた。
「あなた、昨日のニュースを見てたけど、大げさすぎるわよね」
母の声には冷たい響きが含まれている。それはテレビのニュースに向けられたものではなく、どこか父に対する皮肉が混じっていた。
「感染症だとか悪夢だとか、どうせあなたたちが騒ぎ立てているだけじゃないの?」
「俺たち、って……」
父が反論しようとするも、母はそれを遮った。
「だってそうでしょ? 医者だからって、全能の神様みたいに振る舞わないでくれる? 家族を気遣うフリして、結局は自分の立場を守りたいだけなんじゃないの?」
その言葉に、由芽の心臓が跳ねる。父は明らかに言葉を失い、視線をテーブルの上に落とした。
「それは……仕事だ。俺だって家族を──」
「家族を守る? 本当にそう思うなら、もっと実感できる形で示してよ。あなたがしっかりしていれば、あの子だって今頃……」
母の声は冷たい響きがあったが、その奥には疲れや不安がにじんでいた。由芽は、その言葉が本心からのものではない気がして、黙ることしかできなかった。
その場の空気が急速に冷たくなる。由芽は視線を皿に向けながら、そっとパンをちぎった。
「お父さん、お母さん……朝からケンカしないでよ」
弱々しく口を挟むが、二人はそれぞれ違う方向を向いて黙り込むだけだった。
いつもなら賑やかで少し喧嘩っぽい朝食の風景が、今日は異様に静かだった。胸の奥に広がる不安とともに、由芽はその場に居場所がないような気がしていた。
静寂に気まずくなった父が手元のリモコンを取り、テレビの電源を入れる。
ニュースの画面が点き、由芽の視線が吸い寄せられるようにそこに止まった。青いシートに覆われた人影が映し出されている。アナウンサーの冷静な声が流れ、画面下には字幕が並んでいた。
由芽は目をそらそうとしたが、手が小刻みに震えていることに気づいた。目の奥に蘇る昨夜の悪夢。その光景はテレビの画面に映る現実と、どこか重なり合っていた。
「路上で倒れていた男性、死亡」
胃の奥がぐっと絞られるような不快感が押し寄せた。昨夜の出来事が断片的に脳裏をよぎる。あの男だったのだろうか──。
由芽は無意識に父の手元にあるリモコンに手を伸ばし、それを奪い取ると、強引にテレビの電源を切った。
「由芽! なんだ急に」
父が驚いて抗議の声を上げるが、由芽は気にも留めずに言い放つ。
「朝からこんな暗いニュースなんて見たくない!」
トーストの最後のひと口を急いで口に放り込み、椅子を勢いよく引いて立ち上がる。
早々に席を立ち、家を出る準備を始める。玄関を出る直前、父の小さなため息が背後から聞こえた。
「……すまないな」
父が誰に向けたのかもわからないその言葉に、ローファーの踵を踏み潰し、由芽は振り返らず扉を開けた。
靴を履き直して、深呼吸を繰り返すが、胸の奥に渦巻くざわめきは収まらなかった。冷たい風が頬を撫でる。それでも、あの映像は心から消えない。夢の中の自分。路上に倒れていた男。昨日の声。全てが混ざり合い、胸の中で黒い霧のように渦巻いていた。
青いシート。その映像は、瞼の裏にこびりついて離れなかった。