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儀式

 暁人は、一時的に持ち直していた。もともとあった筋力のせいか、廃用症候群の影響も想定より軽く、リハビリも順調だった。だが、気づけばまた、彼の身体は緩やかに崩れ始めていた。熱が下がらない。食欲が落ちている。顔色が戻らない。そうした兆候を、由芽は誰よりも早く、誰よりも丁寧に拾い上げていた。


 彼女はその兆候に怯えなかった。むしろ、それを確かめに小鳥遊家へ足を運ぶ理由にしていた。


「スタバの新作、もう出たんだって」

「バスケ部の練習、来週から再開だってさ」


 同級生たちの誘いは、季節風のように次々と吹いてきたが、由芽は一度も靡かなかった。彼女が向かう先はいつも決まっていた。暁人の家。病人の部屋。薄暗く、静まり返った空間。そこにいる彼と、ふたりきりになれる午後。


 何かを看病するような言葉を口にしながらも、実際には、彼の頬を伝う汗の質感、指先の冷え、潤んだ瞳に自分の影が映る瞬間を確認することのほうが大切だった。


 熱に浮かされた暁人が自分の胸に顔を預ける時、彼の輪郭がわずかに歪んで見える。そのわずかな崩れが、由芽の心を満たしていく。


 かつては、回復を願った。快方に向かう彼の姿に安堵した。だが今は違う。暗鬱とした目元とそれと反するように充血した結膜、苦しげに擦る喉、乾ききった唇──それらに、自分だけが立ち会っているという確信が、胸の底に重く沈んでいた。


 それは罪悪感ではなかった。もちろん愛情でもない。ただ、自分だけが知る痛み、自分だけが持つ権利。そんな錯覚のような優越感が、心に降りた霜を、じわりと溶かしていった。自身の部屋で膝を抱えていた孤独が、彼の熱に溶けて流れていく気がした。


 暁人に夢日記をつけさせようと思い立ったのは、記録のためではなかった。

 紙に落とされた文字なら、どこにも逃げられないと思ったからだ。

 彼が見る夢──それは、彼の脳の奥で発酵し、泡立ち、腐臭を放つ記憶だった。見えないままでは意味がない。由芽はそれを、自分の手で“言葉”に変えたかった。


「夢なんて、覚えてないよ」

 彼は眉をしかめたまま、机の端をじっと見つめていた。

「思い出そうとしても、できないんだ。気持ち悪いだけで……胃のなかにずっと何かが居座ってるみたいで、吐きそうになる」


 その言葉に、由芽はひどく安堵した。

 曇り空の下でしか咲かない花のような感情が胸に広がる。

 晴れ間など必要なかった。彼の瞳が鈍く濁り、声が震えるとき──由芽は安心するのだ。


「大丈夫。単語だけでもいい。わたしが書くから」


 由芽はノートを開き、ペンを構えた。まるで葬式の記録係のように。


 暁人はしばらく口をつぐんでいたが、ぽつりとつぶやいた。


「……母さんが、いた。夢のなかで、俺、母さんに何かを飲ませようとしてた。あせってて……よく思い出せない。でも、そのあと、喉の奥から何かを全部出したくなる感覚だけが残ってる」


 “母さん”という言葉が出るたびに、由芽の耳の奥で薄い膜が破れるような音がした。

 ふいに、ノートの端に血が滲んでいるのを見つけた。気づけばペン先で自分の手の甲を刺していた。

 それでも、やめなかった。


「もっと話して。続きを、聞かせて」


 暁人の肩が震えた。その肩に手を添える。彼の中の何かが壊れていく音が、由芽には心地よかった。

 まるで、使い古した歯磨き粉のチューブを絞るように、軽く爪をたてて背中を擦る。彼の中身を上書きするように血を擦り込み、彼から記憶を絞り出していく。

 最後の一滴まで。


「……子どもが……泣いてて、でも、母さんはずっと眠ってた。いや、違う……俺が何かをしたのか……いや、違う、違う。夢だから、全部夢なんだ」


 彼はうわごとのように繰り返す。

 由芽はそれを書き留めながら、ゆっくりと目を閉じた。


 この夢が、もっと濃くなればいい。

 もっと彼を曇らせて、見えなくして──

 そのときにはきっと、ゆめが、ゆめであることが全身で証明される。


 長い間、繰り返し行なわれていくうちに夢日記は、もうただの記録ではなくなった。

 それは、もはや儀式だった。

 彼が彼であるための、最初で最後の“おまじない”。









 一番好きな季節は、と尋ねられたときに決まって口にすることがあった。

 季節の変わり目だ。別に奇を衒っている訳ではない。


 寒い日が続いた後の暖かな柔らかい風が、まるで冬の間の辛抱を労うように頬を撫でてくれる瞬間が好きだ。背景に過ぎなかった茶けた木々が、一斉に桜色に変わりこの世の一軍に昇格するあの光景が好きだ。今までどこに隠れていたのか分からない虫と鳥と爺婆が湧き出てきて、町全体が活気を帯びるのが好きだ。



 でも今年は辛抱しても流行病はまだ去らない。桜は注目もされない。爺婆は隠れたまま町は気怠い雰囲気を春の陽気に混ぜ込もうとしている。


 曖昧な線引きの延長線上に取り残されたようにぼんやりとしていたが、今年の季節の変わり目もどこか心が躍っていた。


 たかなしれいこの功績のおかげで、休校は一時解除されてしまった。儀式は中止となり、小鳥遊家に常に行くことも難しくなった。


 桜並木をまばらに登校する生徒に混じって、判然としない頭を学校に運ぶ。

 おおよそ効果のあるかわからないマスクをみなつけて、一様に息苦しそうな苦悶の表情を浮かべていた。これから始まる新学期への期待は誰も持ち得ていないのだのう。


 校門をくぐるが、葉桜に残った花びらの枚数の方が生徒よりも多く感じ、やけに瑞々しかった。


 学校生活は待ってくれない。

 堰き止められていた清流は、堰を切ると、質量と速度を増し川底の土を伴って濁流になる。休校になっていた分、加速度的に学校生活は目まぐるしいカリキュラムになっていた。生徒も先生も疲弊している。


 私もたしかに、日に日に疲れていった。そんな中もう縋るしかなかった。暁人のために買われたコーヒーを拝借して飲んだ。罪悪感はなかった。むしろ無駄にせずに再利用した私を褒めて欲しいくらいだった。小気味いい音を立てて缶が開き、鼻腔をくすぐる香ばしい香りが脳天を貫いた時から今に至るまで絶好調だ。

 シュートを放てば、リングを通り、ペンを持てば赤丸で返ってくる。周りの目が死んでいる中、由芽の目は生き生きとしていた。


 家での会話も自然と弾んだ。

「由芽、ここのところ活躍してるらしいわよ。父親譲りかしらね」

 母も嬉しそうだ。箸がすすんでいる。

「お父さんバスケやってたんだね。どうして教えてくれなかったの?」

 コーヒーを啜りながら父に笑いかける。

「まぁ昔のことだ。たいしたもんじゃない」 

 黒い液体を忌々しそうに一瞥した父の箸は、いつまでも煮豆をつかめずに皿の上を擦り続けていた。


書き溜めていた文が消えた上に思い出せなくて萎えてます。

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