悪夢の兆し
「悪夢って見たことあるか?」
ソファに寝転がった父が、テレビのリモコンを右手の指先でバランスを取りながら、無関心そうにこちらを向いた。まるでリモコンとの会話に困り、次の話題をこちらに押し付けてきたかのようだ。
「何その質問。普通に見るでしょ」
相変わらずうちの父は変なことを聞く。父は変わり者ではあるけれど。
「どんなの?」
父の目の中はどこか鈍い光を宿している。
「えーと、階段から落とされたり、お母さんになって怯える私を叱ってたり、あとはテストに追われたり?」
「テストに追われる?」
「そう。真っ白で大きなテスト用紙が追いかけてくるの。最後は囲まれて真っ暗になって終わり」
「奇抜だな。ストレスか?父さんのは口が血だらけになる夢だな」
「……なにそれグロい。流血沙汰の夢はないけど、目から黒い血が出てくる夢とかならあるかも」
「そっちのほうがグロいだろ」
台所から母が神妙な顔を出した。
「2人とも、話してないで手伝いなさい。で、なに話してるの?」
「お母さん聞いてよ。お父さんがキショい!」
「どうしたの? セクハラ? 答えなくていいわよ、由芽。あとで私が“ハラスメントおじ”にお灸を据えておきますから」そういいながら母は持っていたおたまをくるくると振って、父の方に先を向けた。
「違うよ!」父が不満げに口を挟む。「ニュースのことだって。ほら、見てみろ」
テレビの音量が上がった。画面ではニュースキャスターが深刻そうな表情で原稿を読んでいる。
「繰り返します。新型ウイルスが流行の兆しを見せています。WHO(世界保健機関)は、中国で報告されたこのウイルスについて、緊急事態宣言を検討中です。特徴的な症状として、著しい不眠、吐き気、そして悪夢があります……」
「悪夢だって。お父さん、まさにそれじゃん」
「いや、俺のはただの疲れだろ」
父はそう言いながらも眉をひそめた。テレビ画面に映る中国の映像には、病院のベッドに横たわる患者たちが、うめき声を上げている様子が流れている。その顔には、明らかにただの睡眠不足とは違う疲労感が滲んでいた。
「怖いわね……」と母が呟く。
「でも、悪夢なんて誰だって見るもんじゃないの?」と私が口を挟むと、父が言い返した。
「そうか? こんなにニュースになるってことは、ただの悪夢じゃないんだろ」
その時、テレビ画面が切り替わり、街中の様子が映し出された。マスクをした人々が行き交う中、「眠るのが怖い」と話すインタビュー映像が繰り返し流される。
「どんな夢を見たか、ですか? 言葉じゃ表現できません。ただ、二度と見たくない。それだけです」
キャスターの声が画面を通じて響く。
「現在、感染経路は特定されておらず、治療法も見つかっておりません。中国での感染者数はすでに1万人を超え、国内でも疑いのある症例が報告され始めています」
家の中に静けさが訪れる。「感染症ならあなたの専門でしょう?」母が何故か父を責めるように言う父は、何か言おうとするが口を開けない。
私は平静を装いながらも、どこか胸の奥がざわざわするのを感じていた。
悪夢が流行する? 馬鹿げた話に思えるけれど、それが現実なのだとテレビが突きつけてきている。
「まぁ、どうせ中国の話だろ。こっちには関係ないって」
父の無責任な一言で、緊張の糸が一瞬だけ緩んだ。
テレビではなおも感染の広がりを伝えるニュースが続いているが、由芽は興味を失ったようにリモコンを手に取るとチャンネルを変えた。代わりに画面には、明るいバラエティ番組が映し出される。
「ほら、こういうの見て笑ってる方がマシでしょ」
「そうね」と母が肩をすくめた。
家の中に漂う微妙な緊張感を打ち消すように、由芽はそのままソファから立ち上がる。
「じゃあ、学校行ってくる。今日はちょっと早めに出るから」
母が台所から「気をつけてね」と言うのを聞きながら、生返事を返して由芽は玄関のドアを開けた。
外に出ると、いつも通りの朝が広がっていた。空は穏やかに晴れていて、通りを歩く人々もどこかのんびりしている。ほんの数分前までテレビ画面に映っていた騒々しい世界とは、まるで別の場所のように感じられた。
「流行り夢、ねぇ……」
小さくつぶやきながら、自転車にまたがる。確かに気味の悪いニュースだったが、それ以上に気にする気にもなれなかった。悪夢なんて誰にでもある。それが病気になるだなんて、大げさすぎる。
ペダルを漕ぐうちに、頭の中はもう別のことで埋め尽くされていた。学校のこと、友達との約束、そして──。
校門に着くと、いつもの顔ぶれが待っていた。クラスメイトの優奈が手を振りながら駆け寄ってくる。
「おはよ、由芽! ねえ、聞いた? あの話!」
由芽は自転車を止め、少し笑いながら問い返した。
「またなんか面白い話?」
こうして、何気ない日常の一コマが始まる。
だが、その日常の中に、じわじわと忍び寄る影があったことに気づくのは、まだ先のことだった。
学校の昼休み。校舎の裏庭で、日向ぼっこの猫のように日差しを浴びながら、友人たちとくだらない話をしていた。
「ねえ、流行り夢の話、知ってる?」
優奈が、スマホの画面を見せながら声をひそめる。そこには中国で倒れた患者のニュースが映し出されていた。
「うん、家でもニュースでやってたよ。なんか悪夢を見るんでしょ?」と由芽が答える。
「そうそう。で、目覚めたら気分最悪になるって。なんか怖いよね」
「怖いっていうか、不気味だよね。夢なんてみんな見るものじゃん。あれが病気になるって変な話」
優奈は肩をすくめて、「でもさ、ほら」と言いながらスマホの画面を拡大する。
「これ、見て。コーヒーの話。絶対眠らなくなるとか言ってるやつ」
画面には怪しげな広告が表示されていた。深い色のカップに注がれたコーヒーの写真とともに、大げさなキャッチコピーが添えられている。
「眠れない夜に、究極の解放を──」
「なにそれ、嘘くさすぎる。こんなの飲んだら体壊すんじゃないの?」
由芽が笑い飛ばすと、優奈も「だよね」と同調する。
その時だった。後ろから声がかかった。
「何話してんの?」
振り向くと、そこには幼馴染で隣のクラスの小鳥遊 暁人が立っていた。バスケ部で鍛えた快活な笑顔と、少し汗の匂いが混じったジャージの裾。由芽は思わず心臓が高鳴るのを感じた。
「あ、別に。ただのニュースの話」
「ああ、あれか。中国で流行ってる悪夢のやつ?」
暁人は小さく頭をかきながら、「変な話だよな」とつぶやく。その横顔に、由芽は密かに見とれていた。
「でもさ、そんなことより、大会近いんでしょ?調子どう?」
由芽が努めて平静を装いながら話題を変える。
バスケ部のマネージャーである優奈が被せた。
「憎たらしいことに暁人なら余裕でしょ?」
暁人は大きな動作をして腕を組み、少し得意げに答える。
「まあまあかな。今回はみんなの調子も良さそうだし、優勝も狙えるかも」
「すごいじゃん!」
「確か模試近いんだろ?こっちも負けてられないな」
暁人の無邪気な笑顔に、由芽の胸はじんわりと熱くなる。優奈が茶化すように「ふーん、なんかいい感じじゃん」と横でささやいてきたが、由芽はその声を軽く無視した。
──こんな何気ないやり取りが、いつまでも続くと思っていた。
だが、それは間違いだった。
その日、学校を出た後、由芽が友人たちと別れて自宅へ向かう途中のことだった。道端に座り込んだ男性がうめき声を上げていた。自転車から降り、男性に近づく。顔は蒼白で、目の下には大きなクマがある。
「だ、大丈夫ですか?」
声をかけると、男性は由芽を見上げた。その瞳には恐怖と絶望が浮かんでいる。
「眠れないんだ……」
その言葉に、由芽は背筋が凍る思いをした。
ニュースで見た“症状”そのものだ。だが、それはまだ彼女にとって遠い世界の出来事だった。家に帰れば家族がいて、学校では友人たちと他愛のない話をして、暁人の笑顔があって──。
この平穏が崩れるのは、ほんの少し先の未来だった。
──“流行り夢”は、静かに、確実に広がっていたのだ。