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機序

 


 ついさっきまで目にしたもの、耳にしたもの。そのすべてが霧のように消え去っていた。

 確かに経験したはずなのに、指の間からこぼれ落ちる砂のように、記憶の輪郭すら掴めない。

 寝起きのぼんやりとした頭のせいか。それとも、これが流行り夢の典型的な症状なのか。由芽には分からなかった。だが、ひとつだけ確信できることがある。あれは、恐ろしい夢だった。


 とにもかくにも、目覚めが悪い。

 まぶたは鉛のように重く、布団はまるでコンクリートの塊のようにのしかかる。重力すら増しているかのように、背中が地面に沈み込む感覚がする。別の惑星にでも飛ばされた気分だった。


 朝だというのに全く体力が回復しておらず、寝る前の身支度からもう一度やり直したい気分だった。窓の外は十分に明るい。二度寝するのにも本来なら制服の袖に腕を通さなければいけない時間のはずだ。起床時間する予定の時間よりも早くあれと祈りながらiPhoneのサイドボタンを押す。ロック画面にコロンで二分された四桁の数字が浮かび上がった。その下には、皆んなと撮影した中でも由芽の笑顔が特別に盛れた写真が表示される。画面の中で笑う自分が、今は他人のように見えた。


 深いため息が漏れる。

 寝直せば、またあの悪夢が襲ってくるのだろう。

 それを思うと、目を閉じるのさえためらわれる。


 流行り夢にかかるため、あれほど躍起になった自分を少しだけ後悔する。だが同時に、あの噂の悪夢を自分が見たのだという興奮も、確かにあった。



 仕方なく学校の準備をしながら、スマートフォンを手に取る。

 いつもの日課、SNSの巡回だ。


 Instagram、X、TikTok、BeReal──どこを覗いても、人々の呟きは同じだった。

 誰もが、眠ることを恐れていた。


「寝ても寝た気しない。詰んだ」

「無理。これなら徹夜したい」

「流行り夢の人たちだけでオールしませんか」

「オイオイ。出てくんなカス。ひきこもりらしくしてろ」

「小鳥遊暁人のお母さんの開発した薬を買えるとこ誰か知りませんか」

「薬? コーヒーって聞いたけど」

「コーヒーなんかきくかよ」

「寝れないし病む」

「終わり。死にたくない」


 絶望的な言葉が、無機質な画面の中に散らばっている。

 それらを眺めながら、歯ブラシを口にくわえたまま画面をスクロールした。


 制服の襟を正しながら、ふと目に留まったのは、優奈のInstagramのストーリー。左上に緑色の丸が光っている。

 その色を見るだけで、少しだけ胸の内が温まる。


 タップして覗くと、数学の参考書を押さえた手が映っていた。指先には新しいネイルが煌めいている。ストーリーには、一言だけ添えられていた。


「休校でよかった。全く寝た気しない」


 由芽は思わず息を呑んだ。制服のボタンに手をかける。慌てて外しながら、ストーリーの下部にあるDMボタンを押した。


「私、登校するとこだった!」


 数秒もしないうちに、優奈から返信が来る。


「ははww ストーリーあげなきゃよかったか?」

「もう! ありがと!」

「いいってことよ。あ、暁人どうだった?」

「もう元気そうだったよ。今度は私の番かも」

「うわ。由芽も? 私もなんか変なんだよね」

「怖いね」

「怖いけど、暁人のお母さんのおかげでそこまでだよね」


 またコーヒーか。

 由芽は心の中でため息をついた。


「うん。優奈は信じてるの? コーヒー」

「Xの広告で流れてこなかった?」

「あったけど、いいのかな」

「そうも言ってられないよ。あの悪夢、噂だと33回見ると死ぬらしいよ」

「え!!」

「嘘でーす」

「ほんと洒落にならないんだけど」

「ごめんって! でもあんまり思い詰めちゃダメだよ」

「優奈、私のお母さんみたい」

「由芽ちゃま。学校はなくてもお勉学に励むのよ」

「そんなんじゃない」


 優奈の軽口は相変わらずだ。

 ホッとしたような、呆れたような気分でiPhoneを置く。

 堅苦しい制服をすぐに脱ぎ捨て、ダル着に袖を通しベッドへ向かった。






 由芽は早く暁人の記憶の深層に辿り着きたかった。悪夢は不快だったが、寝ること自体には何の抵抗もなかった。むしろ、眠ることでしか掴めない手がかりがあるならば、いくらでも目を閉じる覚悟はあった。


 しかし、何度試みても、求めるものには届かなかった。ただの悪夢ばかりが押し寄せ、肝心の記憶には一向に触れられない。焦燥が募るばかりだった。


 このままでは埒が明かない。そう思ったとき、ふと脳裏に浮かんだのは父の書斎にあるノートパソコンだった。


 幸いにも、母はまだ寝ている。由芽は静かに書斎の机に向かい、その薄いボディを開く。黒い画面の中央に、PINコードの入力を求める文字列が浮かび上がる。


 当然ながら、四桁の暗証番号が必要だった。迷うことなく、自分の誕生日を入力する。しかし——。


 「……違う?」


 弾かれた。再び試す。指の動きを確かめながら、慎重にもう一度。駄目だ。三度目、四度目。認証されない。焦りが胸を締め付ける。まさか父が、娘の誕生日以外の数字を設定するとは思えなかった。では、なぜ——?


 冷静になれ、と自分に言い聞かせる。可能性を考えろ。父が由芽以上に大切にしているもの——。


 指が無意識のうちに、ある日付を打ち込んでいた。エンターキーを押す。直後、画面が切り替わり、デスクトップが現れる。


 暁人の誕生日。


 その瞬間、喉の奥に冷たいものが張り付いたような感覚に襲われた。無意識のうちに、ノートパソコンを両手で掴み上げる。視界が揺れる。怒りか、失望か、それとも別の感情か。机に叩きつけようとする直前、理性がぎりぎりのところでブレーキをかけた。こんなことで手がかりを失うのは馬鹿げている。深く息を吐き、震える手でそっと本体を置いた。


 父は、なぜ暁人の誕生日を——。


 胸の奥にこびりついた不快感を振り払うように、マウスを握りしめる。いまは怒っている場合ではない。流行り夢の真相に近づけるデータを探し出さなければ。父の性格は熟知している。必要な情報は、きっとそこまで深い場所には隠されていないはずだ。


 予想通り、フォルダを開いて数分と経たずに、目的のファイルを見つけた。


 『新型ライノウイルス』


 ファイル名を見た瞬間、指先がひやりとする。クリックすると、内部には数十ものWordファイルとExcelデータが並んでいた。どれも冷たいデータの羅列にすぎない。だが、そのどこかに真実がある。


 視線を走らせ、一つのファイルに目を留めた。


『発症機序』


由芽は迷わず開いた。


 画面いっぱいに専門用語が並ぶ。見慣れない言葉がいくつも続き、意味を汲み取ることすら困難だった。スクロールする速度が無意識に上がる。ページの端を指でなぞるような感覚で、急ぎ足に読み飛ばしていく。


 「……読めるわけがない……」


 苛立ちを押し殺し、マウスのホイールを勢いよく回す。小さなスクロールバーが一気に下へと滑り落ち、画面は末尾へとたどり着いた。


 そこで手が止まる。


 最後の部分だけ、異質だった。


 専門的な文章の羅列の果てに、不釣り合いなほど砕けた口調のメモ書きがあった。


 ——まるで、誰かに読ませるために書かれたような。



「感染者との粘膜を介した接触の度合い、精神的な交わり。それが感染者の夢、すなわち記憶の深さと関係している可能性がある。ウイルス量と何らかの相関があるのだろう。しかし、免疫細胞の活性とは相関がない。健康な人間でも、ウイルス量が低いまま発症しているケースがある。発症を決定づけるトリガーは、まだ見つかっていない——」


 そこまで読んで、由芽の指が止まった。スクリーンの光が瞳に反射する。父が言っていた。「他人の過去の記憶を見た後に、悪夢を見たかどうかが発症の契機を示している」と。


 ならば——。


 わたしは、あの日を境に発症したことになる。


 あの日、わたしに何があった——?


 記憶を探るように目を閉じた。父の声、母の声が頭の奥で反響する。


 「病は気から、よ」


 優しく微笑んでいた母の姿。だが、その言葉はあまりにも漠然としていて、何の手がかりにもならないように思えた。病は気から? つまり、気の持ちようで病気になると?


 「脳の感情を司る遺伝子が、不安の抑制、太りやすさ、免疫機能に関わることが判明したそうだ」


 それは、その時父が補足するように言っていたことだった。何気ない会話の端々に紛れ込んでいた科学的な言説。


 ——不安、抑制、免疫。


 その三つの単語が、まるで点と点を繋ぐ線のように、ゆっくりと形を成していく。


 指が無意識のうちに動き、スクロールバーを一気に戻す。画面の上部へと目を走らせながら、由芽は別のタブを開いた。プライベートモードに切り替え、わからない単語を検索する。


 だが、その間ずっと、視界の隅にまとわりつくものがあった。


 ——コーヒーの広告。


 優奈と一緒に見た、あの広告だ。どのサイトを開いても、ページをスクロールしても、執拗についてくる。まるで意思を持っているかのように。


 なぜか、以前よりもリアルに見えた。画面の中にあるのに、手を伸ばせば掴めるような質感を持っている気がした。


 じわり、と背筋に冷たいものが走る。


 楽になりなさいと脳が命令するが、本能が拒絶する。


 優奈と笑い飛ばしたそれはもう、夢の中だけの存在ではなかった。




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