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悪夢

 家の中庭で父と1on1をしていた。


 バスケットゴールへ向かってダックインする。父の手が伸びてくるが、阻まれることなく私は駆け抜けた。次の瞬間、ボールがリングに当たり、わずかに揺れたネットを通り抜ける。乾いた音が響く。


 初めて父から得点を奪った瞬間だった。


 思わず両手を握りしめ、天を仰ぐ。熱いものが胸の奥から込み上げてくるのを抑えきれず、声が漏れた。膝に手をつき、荒い息を吐く。何十回、何百回と挑戦した中で、ようやく成功した一回。体の芯まで満たされるような達成感があった。


 父が私の名前を呼び、背中を叩く。少し強めの力が伝わるが、不快ではない。


「よくやった」


 二度目の声とともに、背中を撫でる手の動きが変わる。初めは歓喜のスキンシップだと思った。しかし、違和感があった。まるで同性の仲間を労うような、そんな手つき。


 そして、気づく。


 父が呼んでいる名前が、私のものではない。


 ありえない。そんなはずはない。


 違和感と同時に、先日の父の言葉が呼び起こされる。


「すごいなあ、由芽。家の前にバスケットゴールでも買うか? 今度シュート練習、一緒にやろうな」


 ──買っていない。

 ──それに、うちには中庭なんてない。


 視界を巡らせようとするが、思うように体が動かない。背中に置かれていた手が離れた瞬間、硬直していた筋肉が解放されるように、私はゆっくりと顔を上げた。


 見慣れた光景が広がっている。だが、何かが違う。


 いつもなら、この場所は斜め上から見下ろしているはずだった。


 私の部屋の窓から。


 そこにあるのは、隣の家の庭だった。


「よく父さんから点を取ったな」


 父が笑っている。久しく見ていなかった、心からの笑顔だった。


 その瞬間、意識が急速に覚醒していく。


 ──ゆめ、じゃない。




 由芽は跳ね起きると、カーテンを引き裂くように押しのけ、隣家の中庭を凝視した。


 暁人が昏睡して二週間。


 ずっと空き家だった隣の家の玄関には、今や記者たちが屯ろし、まるで巣を作るかのように活気づいていた。何かが起きている。


 由芽は窓辺に両手をつき、深く息を吸い込んだ。先ほどの夢を思い出せるうちに思い出す。夢の記憶は、感染者との接触が深いほど強く残るのかもしれない。確信とまでは言えないが、状況はそう物語っていた。



 唯一の懸念だった流行り夢の重症化も、これで回避できる。全てが繋がり、ひとつの仮説となる。まだ証明には至らないが、足元の霧が僅かだが晴れていく感覚があった。


 Xでは、「日本初の流行り夢からの脱出者が現れた」というポストが、すでに五十万RTを超えていた。そのリプライのひとつに、こう書かれている。


「Amp Bioのコーヒーで目を覚ました」


 一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに合点がいった。玲子の会社の製品だ。さらに下のツリーには、記者会見らしき場面の玲子の写真が添えられている。玲子は化粧でテカテカになっている顔にやつれた笑顔を貼り付けていた。



 昨晩、暁人から連絡があった。


「明日、一時退院する」


 それだけの短いメッセージだったが、意味するものはひとつしかない。



 暁人が生き返った。



 昨日の夜、由芽は、弾かれたように部屋を飛び出し、寝ている両親を揺さぶった。半分夢の中の二人に飛びつき、思わず声を上げた。父も由芽の喜びようをみて何のことか悟ったのか声をあげて泣いていた。母はまだ夢見心地だったのかぼんやりとしたまま、わたしたちをみて微笑んでいた。






 玲子の会社が開発したコーヒー。それが、暁人を奇跡的に回復させたのだ。





 Xにリンクがあった玲子へのインタビュー記事は、流行り夢へのコーヒーの効果について慎重ながらも肯定的な論調でまとめられていた。彼女は、臨床試験を経た結果、安全性には問題がないと強調しつつも、これはあくまで対症療法であり、根本的な治療法ではないと釘を刺している。また、暁人が昏睡に陥る前にコーヒーを摂取していたことから、すでに昏睡状態にある患者への適用方法が課題として残る、と指摘する形で記事は締めくくられていた。成功を高く評価しつつも、いまだ解明されていない点に言及することで、読者にさらなる関心を抱かせるような構成だ。


 由芽にとって、その疑念は些細なことだった。


 彼女は小鳥遊家の玄関前に立っていた。暁人に連絡を取ったせいか、玲子が直々に姿を見せ、「後ろの女の子を通してください。写真は撮らないで」と記者たちに向かって一喝する。彼らは渋々道を開けた。


 モーゼが大海を割ったようだった。視線が一身に集まる。熱を帯びた空気の中、胸の奥に高揚感が広がるのを感じた。そこへ遅れて父が現れ、「嫁入り前の娘の写真集が出回ったら困るからな」と呟きながら、自然と由芽の前に立つ。その背に守られる形で、彼女は門を潜った。


 まるでバージンロードを歩く花嫁のように——。祝福され、迎えられる特別な存在。全身が心地よい浮遊感に包まれる。現実なのに、どこか夢のようだった。


 玲子の案内で家の中へ入る。父が暁人の部屋へ向かおうとするのを、玲子がさりげなく制し、リビングへと誘導する。そして、振り返ると由芽に悪戯っぽくウィンクした。


 由芽は迷うことなく、暁人の部屋へと駆け出す。


 足音を立てないように。それでも、胸の鼓動だけは抑えきれなかった。


 「暁人!」


 勢いのままドアを押し開けた。

 暁人は驚いたように目を見開き、慌てて何かを布団の中に隠す。同時に、胸まで掛け布団を引き上げた。


 「由芽!」


 「心配したんだよ、暁人」


 そっとベッドに腰を下ろし、耳にかかった髪を払う。


 「由芽……悪い夢から覚めたみたいだ」


 「本当によかった」


 静かに身を寄せ、唇を重ねる。

 今度は拒まれなかった。暁人は微かに息を呑み、だが抵抗することなく、由芽の動きを受け入れた。

 そのまま口づけを深めようとした瞬間、ふと気になって、そっと唇を離す。


 「……ところで、何を隠したの?」


 「べ、べつになにも……」


 暁人の声がわずかに裏返る。

 目が泳ぎ、肩がこわばっている。


 「優奈から借りたタオル?」


 股の間に置かれた手。隠すようなその仕草が、すべてを物語っていた。

 空いている手で布団を剥ぐ。


 露わになったのは、手に絡みつくほど柔らかい、優奈のタオル。

 指でつまんで持ち上げると、淡く湿った感触が伝わる。


 「……こんなのがいいんだ」


 掠れるような声が、自然と漏れた。


 「あ、いや、それは……」


 暁人が言い訳を探している間に、由芽は優奈のタオルを引き連れてするりと布団の中に手を忍ばせた。

 彼が先ほどまでしていた続きを、代わりに始めるように。


 驚愕に目を見開く暁人の顔を見つめながら、由芽は微笑んだ。

  暁人の頬が赤く染まり、押し殺した息遣いが微かに震える。その瞳はとろりと溶け、意識が深いところへと沈んでいくのがわかった。由芽は微笑み、もう一度唇を重ねた。彼の記憶の奥底へ潜るために。父の愛の形を知るために。由芽は彼を自らの深淵へと引き込んだ。


 全てが終わり、二人でリビングに降りると、待ち構えていたかのように父が駆け寄ってきた。


「お父さん」

 呼びかけるが、父は応えなかった。代わりに暁人の肩を抱きしめ、その目を見つめて涙ぐむ。


「よかったね、暁人くん」


 父の言葉に釣られたように、暁人も目元を潤ませる。


 その横顔を見て、由芽は改めて思った。やはり暁人は父に似ている。あるいは、父が暁人に似ているのか。


 無遠慮に肩を叩きながら、父は「本当によかったよ」と由芽にも言葉をかける。その声音に宿る安堵と温もり。しかし、それが由芽には遠いもののように感じられた。


 二人の間に確かに存在する何か。目には見えず、けれど確かにそこにあるつながり。それに対して、由芽は嫉妬を覚えた。


 誰に対する嫉妬なのか。暁人にか、それとも父にか。由芽には分からない。ただ、それを追求することにはさほど意味がないように思えた。


 とにかく、早く眠りたかった。この胸の奥に巣くうざらつきを振り払うために。


 




 数日前、厚生省が全国一斉の臨時休校を発表した。暁人が目を覚ます前のことだ。今回の一件が影響を及ぼせば、休校期間も短縮されるかもしれない。


 明日は休み。しかし、由芽は早めに眠ることにした。流行り夢がもたらした新たな不安に、冷静に向き合うために。




 いくつかの取るに足らない会話が交わされた後、父が現れた。隣には玲子がいる。二人とも、これまでに見たことのない真剣な眼差しで私を見つめていた。

 だが、その奥には春の木漏れ日のような穏やかさも見え隠れしている。


「暁人くん」

 父が重々しく口を開いた。小鳥遊家のローテーブルを挟み、彼らは正座をしている。


「いや──暁人」

 ひと呼吸置いて、父は言った。


「君の本当の父親は、俺だ」


 時が止まる音がした。


「え……じゃあ僕は由芽と……兄弟ってことですか?」


 世界が崩れていく音が聞こえた。

 視界がぐにゃりと揺れ、色彩が溶け合う。黒いインクが水面に垂らされたように、周囲の景色が歪み、やがて暗闇に塗りつぶされた。


 バスケなんて、どうでもいい。

 テストなんて、どうでもいい。

 ──どうだっていい。


 さっきの嫉妬の矛先は、もうはっきりしている。足元を覆っていた霧は完全に晴れた。だが、その代わりに、自分が沼の底に沈みかけていることに気づいた。頭の中は靄がかかっているのに、ただ一つの考えだけがくっきりと浮かび上がる。


 ──沈めてやる。


 由芽は、ぐるぐると渦巻く思考を止めようともせず、目が乾くことすら意識しないまま、真っ暗な天井を睨み続けていた。



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