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幽閉

 消毒剤の臭いがほのかに漂う白い大きな箱の中で、由芽は、自分が機械仕掛けの人形と会話しているような感覚に陥っていた。


「ですから、患者様と二親等以外の方の面会はお断りしております。あと、マスクの着用をお願いします」


 病院の受付の女性は、まるで録音された音声を再生するように、一言一句違わぬ調子で同じセリフを繰り返している。声には抑揚がなく、当然ながら感情もない。ふと、聞き取りの悪い音声アシスタントを思い出す。「すみません、よくわかりません」と返されるほうが、まだマシだった。なぜこうも私の思いが伝わらないのか。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。脳内で彼女の声をSiriのものに変換してみると、少しだけ冷静になれた。だが、それも長くはもたない。


「もしもーし?」


 突然肩を叩かれ、由芽は驚いて振り向いた。パンツスーツをきちんと着こなした女性が、軽く微笑んで立っている。玲子だった。


「れ、れい……」


 最後まで言い切る前に、玲子の指がそっと唇に触れた。冷たい感触が一瞬だけ残る。彼女は素早く片目をつぶった。


「小鳥遊暁人の母です。この子は私の娘です。ほら、由芽。マスクをしてちょうだい」


 その言葉を聞いた瞬間、受付の女性の顔にかすかな動揺が走った。思いのほか人間らしい反応をするんだ、とぼんやり思いながら、玲子から不織布マスクを受け取る。耳にかけたところで、玲子の言葉の意味をようやく理解した。受付の女性に言った言い訳と食い違ってしまう。由芽はマスクの内側で口を開けたまま固まった。


「ですが、先ほど暁人君の彼女だと……」


 由芽の頬が一気に熱を持つ。自分で埋めた地雷を、見事に踏み抜いた気分だった。


「あらあ」


 玲子は目を細め、由芽の顔をじっくりと観察した。極限まで細めた目で由芽の赤面をこれでもかと舐め回してくる。じわじわと屈辱がこみ上げてくるが、この状況を打破できるのは玲子だけだ。されるがままにされるしかなかった。


「最近の子たち、こういうおふざけが流行ってるみたいで。ごめんなさいね。では」


 玲子はすぐに由芽の腕を取り、受付をあとにした。思いのほか力強く引かれ、由芽はよろめく。振り返ると、受付の女性が眉をひそめてこちらを見ていた。だがすぐに視線を受付に並ぶ伸び切った列へと移し、深いため息をつく。そして、「次の方どうぞ」と、またアンドロイドのような声で応対を始めた。







「奇遇だったわね。由芽ちゃん」


 玲子は柔らかな笑みを浮かべながら、エレベーターの扉を足で押さえ、躊躇なく三階のボタンを押した。無駄のない動きだった。まるで、すべてを見通していたかのように。


「ありがとうございます。暁人のこと聞いて、いても立ってもいられなくて」


 由芽は少し息を整えながら答えた。病院特有のツンとした匂いが鼻を刺し、足元から冷たい空気が這い上がる。玲子の横顔は、穏やかなのにどこか計算されたような微笑みを湛えていた。


「ふふ。嬉しいわ」


 玲子の声はいつも通りの甘さを含んでいたが、どこか試すような響きがあった。


「でも、すみません。庇ってもらって」


「いいのよ、気にしないで。他でもない由芽ちゃんだもの」


 玲子の目が一瞬だけ細められた。意味ありげな間があったが、それが何を意味するのか、由芽には分からなかった。


「で、何しにきたの?」


 玲子の声が低くなり、視線がまっすぐに向けられる。意図を探るような眼差しだった。


「あ、だからその、お見舞いに」


「本当にそれだけのため?」


 問い詰めるような声音に、由芽は一瞬だけ息を呑んだ。玲子の目は笑っていたが、その奥にある感情は読めなかった。


「はい」


「ふうん。この前のことを聞きにわたしに会いにきたのかと思っちゃった」


 ──何を言ってるんだ、この女は。


 由芽は思わず口元を引きつらせたが、すぐに取り繕う。


「あ、はは。もちろんそれも気になりますけど、玲子さんにも会いにきました」


「本当?嘘でも嬉しいわあ」


 玲子は突然、由芽の体を引き寄せた。その腕は驚くほどしなやかで、それでいて抗えない力があった。病院の静寂の中で、玲子のスパイシーな香水の香りが際立った。どこか刺激的な甘さの中に、微かに柑橘系の爽やかさが混じっている。


 由芽の意識が、過去の記憶に引き戻される。シトラスの香り。嗅ぎ覚えのある匂い。


 ──これは、父の香水の匂いだ。


 胸の奥が冷たくなる。玲子の意図が分からないわけではなかった。いや、むしろ分かりすぎるほど分かった。


「こいつ、わざとか」


 柔らかな体温への和みと、心の奥に張りつくような憎悪。その相反する感情が、由芽の中でぐるぐると渦を巻く。玲子の腕の中で、由芽はただ静かに息を詰めた。





 玲子の影に隠れて、病棟の個室に入った。


「じゃーん! 暁人! 私、来ちゃった」


 由芽は玲子の影からひょっこりと顔を出す。


「うわ、由芽」


「うわとはなによ。うわとは」


 片手を振り翳し暁人に詰め寄る。たまらず暁人は笑みをこぼした。


「じょ、冗談だよ。嬉しいよ由芽」


「じゃあ、私はお邪魔虫のようなので、タリーズでも行ってくるわね」


「玲子さん、ありがとうございました」

 由芽は内心ほくそ笑んだ。


「そうだ。母さん、ついでにコーヒー買ってきて」


「ダメよ。コーヒーなら前もってきたやつがあるでしょ」


「ええ……美味しくないんだよなあ……」


「あれを飲みなさい。じゃあね」


 玲子は病室を去っていった。彰人が気まずそうに頭を掻いて独り言をこぼすように言った。



「てか、みんな大袈裟だよ。ただの過労だってさ」


「優奈から聞いたよ」


「あいつ、口軽りぃな。相談したのは失敗だったか」


「なにをよ」


「いや、こっちの話」


「暁人が、優奈のタオルを持って帰って使ったって話?」


「や、やめろよ。そんなの本人に言えるわけないだろう」


「まぁそうよね。使用済みのはどうしたの?」


「まだ家にある」


「私が返してあげよっか?」


「え、ほんとに!?」


「いいよ。その代わり私の言うことを一度だけきいて」


「一度だけ? それ、本当?」


「嘘、つかないよ」


「じゃあいいよ」


「目を閉じて」


 由芽はじっと暁人の唇を見つめた。


 乾いてひび割れた唇。そのせいで、本来の柔らかさを失い、薄く硬い膜が張り付いているように見える。それなのに……いや、それだからこそ、その薄皮の向こう側に眠る熱を、舌で確かめたくなった。


 ベッドの柵に手をかけ、そっと身体を傾ける。そして、暁人の柑橘類のような唇を覆う薄皮を舐めとるように、深く口づけをした。


 目は閉じない。暁人の目がどこまで大きく見開くのか、確かめたかった。


「な! 由芽! 僕は……あの流行り夢なんだぞ!」


 暁人は力なく肩を押し返してくる。今の彼では、由芽の腕を振りほどくことすらできない。ならば、ともう一度、今度はさらに深く唇を重ねた。


 暁人の頬を包み込み、その目を覗き込む。先ほどまでまん丸に開いていた瞳は、ようやく焦点を取り戻した。


「……だから。優奈から聞いてたよ。それにね。実は前から気づいてた」


 由芽は微笑む。


「でも、暁人。私、怖くないよ。ずっとそばにいるよ、暁人」


 暁人の瞳の縁が、じわりと濡れる。そのまま身体を寄せ、抱きしめる。彼の身体は一瞬強張ったが、次の瞬間、嗚咽とともに力が抜け、頼りなく由芽の背中に腕を回した。


 その感触が、堪らなかった。


 彼の能動的な動きを初めて感じる。テストでも、バスケでも埋められなかった空白が、今、満たされていく。途方もない充足感が彼の体温に乗って血管を通して全身を駆け巡っていく。


 由芽は、五感すべてでこの瞬間を焼き付けようとした。


 痩せた身体の中にも、確かに感じる筋肉の起伏。バスケットボールに最適化された肢体。


 コーヒーの余韻だろうか。唇に触れる彼の舌から、かすかな苦みと酸味が広がる。


 距離を取って、彼の顔を見つめた。


 目を擦る彼の顔が由芽の測距点に映る。赤く充血した瞳が、こちらを捉えた。


 照れたように、彼は再び由芽を抱き寄せる。由芽も、迷わず飛び込んだ。



 ——おかしい。


 暁人の匂いがしない。


 鼻を擽るのは、病衣に染みついた洗剤の香り。


 いや、それだけじゃない。何かが混じっている。


 この匂いは——。


 瞬間、背筋が粟立った。


 玲子だ。


 その匂いを、暁人から感じ取った途端、全身が冷えた。さっきまで満たされていたはずの万能感が、一瞬で蒸発し、空虚な裂け目に変わる。

 神聖なサンクチュアリウムだった病室が、途端に異質なリミナルスペースに置き換わっていった。



「由芽……痛いよ」


 暁人のかすれた声が、耳の奥に響く。


 はっとする。


 気づけば、奥歯が軋むほどに噛み締められている。


 いつの間にか。


 無意識のうちに、全身が強張っていた。










──そして、その晩、暁人は昏睡に陥った。


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