宣言
私たちが一番恐れていたことが、現実になった。
「繰り返します。政府は新型ライノウイルスの感染拡大を受け、東京・神奈川・埼玉・千葉の1都3県を対象に、特別措置法に基づく『緊急事態宣言』を発出しました。さらに、来月には大阪・兵庫・京都・愛知・岐阜・福岡・栃木の7府県も追加される見込みです。計11都府県が宣言下となる見通しです」
リビングのテレビが無機質に伝えるニュース。そのアナウンサーの声が、いつもより低く、重く感じられたのは気のせいではないはずだ。
数日前から、緊急事態宣言が出るのではと噂されていた。帰宅部の連中は、何がどう変わるかもよく分かっていないのに休校になるかもと聞いただけで「早く出せ出せ」とまるで宝くじを待つかのようにはしゃいでいた。だが、そうでない人間にとってはたまったものではない。大会に向けて、毎日泥のように汗をかきながら走り、ボールを追い、身体を削ってきた選手たち。みんなには、悪夢のような知らせだっただろう。推薦を狙っていた人にとっては、進路そのものが揺らぎかねないのだから。
私はその道を選ばなかったが、周囲にはスポーツに人生を懸ける仲間が多い。短期間ではあるけど、みんなの努力を間近で見てきたし、みんながどれほどの犠牲を払ってきたかも知っている。
食べかけのヨーグルトを口に運ぼうとして、やめた。持ち上げたスプーンをそのまま器に戻す。
「……うっわ。今かあ。大会どうなるんだろ」
何をどう考えても、答えは出ない。それでも思わず口に出してしまう。
「こればっかりは仕方ないわね」
母はあっさりと言い、ヨーグルトを掬って口に運んだ。何も変わらない日常のように。
一方で、父は珍しく食卓にいた。新聞ではなくスマートフォンを見つめたまま、深く刻まれた眉間の皺をほぐそうともせず、無言で画面を睨んでいる。
何がどう変わるのか。
それすらも、まだ誰にも分からない。
由芽は深く息を吐いた。視界の端で、カーテン越しの朝日がぼんやりと滲んでいる。
「こんなんじゃ、みんな病んじゃうよ。運動がストレスの捌け口みたいなもんなのに」
愚痴というより、独り言に近い。だが、母はしっかり聞き取っていたようだ。
「まぁ、そうねえ。カラオケもダメだろうしね。あなた、こういう時こそ自分の娘にアドバイスでもしたら?」
唐突なパスに、由芽は思わず母を振り向いた。その視線の先で、父は新聞を畳みながら無造作に答える。
「ん? そうだな。オープンエアーのアクティビティに参加しなさい。ソーシャルディスタンスを広くとってマスクもしてればいいはずだ」
横文字の羅列に、由芽はわずかに眉を寄せた。助言のつもりなのか、それともただ言葉を並べただけなのか判然としない。結局、父は食後のコーヒーを一口飲み干し、席を立ってしまった。
母は苦笑しながら由芽を見つめる。翻訳してほしいようだ。
「……つまり、マスクして距離とって外で遊べってこと」
「ははーん。由芽は賢いねえ」
直球の褒め言葉に、由芽は一瞬むずがゆい気持ちになる。だが、それを悟られないよう、軽く首を傾げて聞き返した。
「で、お母さんからのアドバイスは?」
「病は気から、よ。気を強く持って前向きにいなさい。お父さんみたいに考えすぎてもダメなんだからね」
「なによ、それ」
呆れたように返したところで、洗面所の方から父が顔を出した。歯ブラシを咥え、泡のついた口元を手でぬぐいながら、すかさず口を挟む。
「おいおい。あながち間違いじゃないぞ、由芽。体と心の不調の関わり合いの仕組みを、逢坂大学の研究チームが見つけたらしい」
「……はあ」
父は歯ブラシをくわえたままスマホを操作し、画面をこちらに向けた。
「脳の感情を司る遺伝子が、不安の抑制、太りやすさ、免疫機能に関わることが判明したそうだ。つまり、メンタルが体調を左右するってことだな。それと——」
一拍置いて、父は少し声を落とした。
「流行り夢も、メンタルと関連しているみたいだ」
その言葉を聞いた瞬間、由芽の意識の奥底に、何かが引っかかった気がした。だが、それが何なのかは、まだ分からない。
父がこのまま語り続ければ、きっと朝の貴重な時間はすべて奪われてしまう。由芽はスプーンを手に取り、何気ない風を装いながらヨーグルトを口に運んだ。
「りょーかい。マインドセットを改めまーす」
努めて軽く流す。だが、胸の奥には小さな違和感が残ったままだった。
母は数回瞬きを繰り返したが、すぐに思考を放棄したらしく、満面の笑みで由芽の頭を撫でた。
「その、ちょーしです!」
楽観的で、どんな状況でも自分を曲げない母。この人なら、たとえ父と由芽がいなくなっても、変わらず笑って生きていくのだろう。そんな確信めいた思いが、ふと胸をよぎる。「Be like 母。今日のスローガンはそれでいこう」呪文のように心の中で唱えつつ軽く頬を叩き、気持ちを切り替えると、由芽は玄関を出た。
しかし、その決意は学校に着いて数分と持たなかった。
由芽は自分の靴を脱ごうと踵に手を伸ばそうとしてるときだった。優奈が下駄箱から取り出して床に投げるように置いた内履きが乾いた音をたてる。
「由芽。落ち着いて聞いてね。暁人が入院した」
優奈の一言で、思考が止まる。
「……暁人が? なんで?」
「周りには過労ってことにしてる。でも、由芽、誰にも言わないって誓える?」
「言うわけない!」
「──流行り夢、なんだって」
「は?」
昇降口のざわめきの中、やけに優奈の声だけが耳に残る。
「新型ライノウイルスだった、ごめんって本人がDMしてきたの。だからみんなに見舞いに来るなって伝えって」
「なんで暁人なの? なんで謝るの? なんで私にはいわないの」
混乱と動揺、そして得体の知れない感情が胸の奥でせめぎ合う。でも、どこかで気づいていた。そうか、やっぱりそうだったんだ。
「由芽! 落ち着いて!」
優奈が肩を抱いてくる。ありがたいけど、今はそれすら煩わしい。
無意識に振り払ってしまい、すぐに「ごめん」と言い直す。優奈の顔が僅かに引き攣つるのを見た。ただ、彼女をフォローすることにまで気を回す余裕は由芽には無かった。
「ありがとう、優奈。それで、暁人はどこに入院してるの?」
「お母さんの母校の大学の附属病院らしいけど、詳しくはわからないよ」
東悠大学の附属病院。
画面を数回叩き、地図を開く。位置を確認するまでもない。向かうべき場所は決まっていた。
「私、行くね」
「ちょっと! 由芽! どこ行くの!?」
「私も体調不良って言っといて!」
優奈の呼びかけを背中に受けながら、由芽は校門を飛び出した。
理由はひとつではない。
暁人を心配する気持ちは当然ある。
でも、それだけじゃない。
由芽は走る。
一刻も早く。
アレに、流行り夢に、罹りたかった。




