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疫禍の萌芽

 ニュースキャスターの声が、部屋の中に満ちている。


「大型連休、シルバーウィークが始まりましたが、新型ライノウイルスの感染拡大の影響で、新幹線や空の便など公共交通機関の利用は一部にとどまっており、東京駅や羽田空港も閑散としています」


 朝の食卓に流れるニュースは、穏やかな団欒というより、どこか冷え冷えとしていた。テレビの中のキャスターは落ち着いた口調で伝えているが、その内容は異常事態を示している。母はパンにバターを塗りながら、まるで他人事のように言った。


「なんだか、悪夢みたいね」


 由芽は食パンをちぎり、口に運ぶ。あたたかいはずのパンが、妙に味気なく感じた。父はすでに家を出ていて、この場にはいない。昨夜、ほんの数時間だけ帰宅したのを見たきりだった。母と二人で向かい合っているこの光景に、慣れたはずなのに、まだ違和感がある。


「鉄道各社によりますと、午前中、新幹線はいずれの路線の列車も自由席の乗車率は10%以下となっています。このうち、午前7時4分発の上越新幹線『とき303号』や、午前7時52分発の北陸新幹線『かがやき501号』などは、始発の東京駅を出発する時点で自由席の乗車率が0%だったということです」


 画面に映るのは、がらんとした新幹線のホームだった。普段なら大荷物を抱えた家族連れやスーツ姿のビジネスマンで埋め尽くされるはずの場所が、白々しいほどに閑散としている。


「パンデミックってやつかな」


 パンの耳をかじっていたせいで、気まずさがこみ上げる。母は特に反応せず、のんびりとカフェオレを作っている。


 母に気づかれないか気恥ずかしくなり由芽は黙って、パンの最後の一片を口に押し込んだ。


「由芽、そんな焦って食べるとつまらすよ?」


 確かに、急いで口に詰め込んだせいで、パンの塊が喉の奥で行き場を失っていた。なんとかしようと口を動かすが、食塊は喉頭蓋の上に鎮座したままだ。


 母が頬杖をつきながら、コップに入った牛乳を差し出してくる。

 その仕草はどこか緩慢で、けれど無駄がなかった。


 由芽は慌てて牛乳を口に含む。ようやく飲み込めた……と思った瞬間、誤嚥したらしい。今度はむせ返ってしまう。


「はは……危なかった。流行り夢にかかる前に、食パンつまらせて死ぬとこだった」


 涙目になりながら、冗談めかして言う。


「つまらない駄洒落を言いながらね。──パンだけにパンデミックである。橘由芽。享年16歳の幕引きであった──」


 母は大袈裟な口調で言いながら、胸の前で手を組んでふざけてみせた。


「ちょっとやめて、お母さん。洒落になってない」


 そう言いながらも、笑いがこみ上げてくる。

 最初の咳込みは苦しさからだったが、今度のそれは違った。


「ふふ。これくらいの気の持ちようの方が、案外病気をしないもんよ」


 母は肩をすくめて、また頬杖をついた。

 どこか他人事のような顔をしている。母にとっては、流行り夢も、パンデミックも、テレビの向こう側の出来事にすぎないのかもしれない。


「こちら、渋谷スクランブル交差点のライブ中継です。蘇我元さあん」


 テレビの画面が切り替わる。

 スクランブル交差点。いつもなら人で溢れているはずの場所。しかし、そこには異様なまでの静寂が広がっていた。




「はい。やはり、ほぼ人気はないです。発症したら死ぬと言われている流行り夢。みなさんおそろしくて家から出られないようです」


「そうですよね。私も今日こうしてスタジオに来ているわけですが、正直なところ家に帰ってコーヒーでも啜っていたいですね」



 ワイプのキャスターが冗談めかして目を擦る。



「偉いよね。リポーターさんも命懸けで働いてる」


「当たり前でしょ? 高い給料と有名税みたいなの貰ってんだから」


 母はやたらと日の目に当たる人たちに厳しい。かといって、日の陰に暮らすナメクジに優しいかと言うとそうでもない。


「あれ? 蘇我元さん。誰か後ろにいらっしゃいますよ?」


「はい? あの方ですかね。一般の方のようです。ちょっとインタビューしてみましょうか。あのう……」


 蘇我元と呼ばれる男性キャスターは、ハチ公と睨めっこしている元は白色であったであろう薄汚れた作業服を着た中肉中背の男性に話しかけた。頭には手拭いが巻かれているようだ。


「おはようニホンバレという番組ですが、インタビューよろしいでしょうか?」



「……」


 しばらく気まずい空気が流れる。全国のお茶の間では、なんでこの不気味な男性に話しかけたんだ蘇我元、と思っている視聴者が多いだろう。由芽もその一人だった。


 と、カメラがその男に寄った瞬間、急に首だけがこちらに回転した。


 映像が少し乱れる。カメラマンも男の圧力に驚いたのだろう。


 その男は、クマでびっしりと覆われた落ち窪んだ目元の上に、血走った眼の中に狂気の光を浮かばせていた。


「怖」


 母がカフェオレを啜りながら、映画を見るかのように呟く。言葉とは相反して、微塵も怖がっていなさそうだ。


「やらせかなあ」


 男の出来上がったあまりの雰囲気に、由芽はテレビの台本を疑ってしまう。


「蘇我元さん。時期もありますんで、無理には──」


 ワイプに浮かんだキャスターが、心配そうな顔をしている。


「おまえらか」


 男はマイクに拾われるか拾われないかの境ほどの音量であるが、凄みのある声で蘇我元に詰め寄る。


「おまえらがやったのか」


「いや、あの……」


 異常を察知した番組スタッフが二人の間に割って入るが、男は止まらない。蘇我元もプロ根性なのか、逃げない。


「これは犯罪だぞ!! あんなもの!」


 一発、二発。スタッフと蘇我元は、腰の入っていない打撃を男からお見舞いされた。


「犯罪だぞおおおおおおお!!」


 男の絶叫が、異様なまでに長く尾を引いた。

 その声は渋谷のまばらな雑踏を切り裂くように響き渡り、数人しかいない周囲の人々が息を呑んで立ち止まる。

「ちょっとやばそうね」

流石の母も眉を顰めてテレビを見ている。


 カメラの向こうでは、作業着姿の男が地面を転がり、まるで痙攣するかのように体を跳ねさせた。


 よく見ると彼の服はくたびれ、あちこちに黒ずんだ染みがつき所々破れている。顔には不健康な脂が浮き、荒れた唇からは泡立った唾が飛び散る。目は充血し、焦点が合わず、まるで世界のどこにも居場所を見つけられないようだった。


 警察官が数人がかりで取り押さえるも、男はなおも吠え続けた。

「おまえらがやったんだろ!! あんなもん飲まっ」

 男は途中で叫びを詰まらせる。その声には、怒りというより狂気が滲んでいた。だが、もはや本人すら分かっていないのではないかと思えるほどに、言葉は支離滅裂だった。


 と、その瞬間、カメラが急に方向を変えた。


 次に映し出されたのは、ガードレールに突っ込んだライトバンだった。車体は無惨に歪み、ボンネットから煙が上がっている。タイヤはキュラキュラと乾いた音を立てながら、異常な速度で空転を続けていた。


「いま、車が──!」


 リポーターの声が震えた。

 カメラがズームインする。運転席の女性が、体を前後に揺らしながら、口元をわなわなと動かしている。開いた窓から見える彼女の顔は青ざめ、汗でびっしょりと濡れていた。


「……ダメ……これ……夢じゃない……わたし……帰れない……帰れない……帰れない……!」


 女はうわごとのように繰り返しながら、まるで抜け出せない夢に囚われたかのようにアクセルを踏み込み続けていた。


立て続けに起こった事件に番組スタッフたちが呆然としていると、画面はスタジオに切り替わった。


「みなさん、繰り返しますが、外出は控えるようお願いします!」


さっきまでの騒然とした空気を入れ替えるように軽快なCMが流れ始める。


「これ見て、外に出ようと思う人なんているのかしらね」


「少なくとも私はなくなったよ」


 由芽が呆れたように呟くと、隣でカフェオレを飲み終わった母は、いつもと変わらない調子で立ち上がった。

「大人しくしてなさいね、由芽。私はちょっと備蓄を買いに行ってくるわ」

「えっ、このタイミングで?」

「近所のスーパー、お米がどんどん売り切れてるらしいのよ。この間、ママ友の電話で聞いたの」

 実際はママ友との会話ではなく、スーパーで慌てて買い込んでいる人々の話でも盗み聞きしたのだろう。由芽はもう何度目か分からない溜息をついた。


「気をつけてね、お母さん」


「はいはい。鍵閉めといてね、すぐ帰るから」


 母は小さな財布を手に持ったまま、まるでちょっとした散歩に出かけるかのように軽い足取りで玄関を開けた。

 よくあんな映像を見た後ですぐ外に出られるものだ。


 我が母ながら、誇らしいほどに図太い。



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