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偵察

 由芽は机に向かっていた。開いた数学の参考書を前にしているが、今の彼女にとって数字の羅列は全くもっておもしろくないものだった。数学が不得手というわけではない。むしろ、他人と比べれば十分にできる自覚はある。ただ、頭の中では別の問題を解こうとしていた。


 玲子が現れる前、由芽は暁人のことを思い、胸の奥が痛むのを感じていた。それが今や、玲子への嫉妬へと変わりつつある。いや、嫉妬というには生ぬるいかもしれない。いずれ憎しみに転じるのではないかという予感があった。


 暁人はあの日、私がキスをしてあげてから距離を取ってくるようになった。照れているのかもしれない。それとも、別の理由があるのか。父は忙しく、顔を合わせる機会が減った。その理由の一端に玲子がいるという確信が、由芽の中で日に日に強まっていた。さらに、模試が近いせいか、普段は口を挟まない母が「バスケットボールもいいけれど、勉強もしなさい」と言ってきた。学内で常に上位にいる私に向かって何様のつもりだろう。由芽はそう思った。


 どこかで何かが狂い始めている。流行り夢がなければ、すべて順調に進んでいたはずだ。だが、気づけば日常のあちこちに綻びが生じている。そして、それは由芽だけではない。周囲の同級生たちも、青春を謳歌するはずの花のFJKとは程遠い表情を浮かべている。




 すべてを一挙に解決する策はないかと勘案する。私の領域を侵すようなことは断じてあってはならない。玲子が暁人にしていることを看過し阻止する。暁人を玲子の手から解放する。父の研究を捗らせて家に戻るように仕向ける。そして、できることなら玲子に相応の報いを与える。さらには流行り夢とかいうふざけた病も追い払えるようななにか──。


 参考書の数式と文字列の上を目が滑っていく。機密文章のこと、父の説明、みんなの異常行動、私の見た夢、いままでの出来事を篩にかけた。目の焦点深度が由芽の思考の深さと反比例していく。本に記された数式に焦点があわなくなったとき、由芽はこの方程式の解が導き出されるのを感じた。

 両手の力が抜けていく。シャープペンシルが右手から滑り落ち、小気味いい音をたてて芯をおりながら机の奥に転がっていく。重しだった左手が消えた参考書は、由芽の機略を称えて拍手するかのように、各ページをはばたかせて閉じていった。


 ──流行り夢を利用すればいい。


 流行り夢の性質は、言い換えるなら他人の記憶を覗くことができるってことのはずだ。それならば、隠し事なんて私の前には意味をなさなくなる。暁人の夢を見ることで、玲子が彼に何をしてきたのかを知ることができるかもしれない。それは暁人に限った話ではない。どんな人間に対しても、この方法は有効だ。

 なにより、この流行り夢の正体にたどり着ける可能性があるし、父の役にも立てる。もしかしたら世界中の人に感謝されて私の名前が教科書に載っちゃうかも。

 一挙両得、一石三鳥どころの話ではない。あんなに憎んでいた流行り夢が、現状を打破する救世主のようなものに由芽の中では置き換わった。


 誰か、流行り夢の感染者はいないのか。

 由芽は今までの会話や仕草を思い出し、他人の些細な変化を一つずつ拾い上げていく。しかし、どうしても決定的な手がかりは見つからない。


 やっぱり行くしかない。


 このまま何もしなければ、答えは永遠に得られない。そう思うとじっとしていられなくなった。


 時計は夜の八時を回っていた。家の中は静かで、母は部屋にいるらしい。そっとドアを開け、足音を殺して廊下を進む。慎重に鍵を開け、わずかにドアを押し広げた。外の冷たい空気が肌を撫でる。まだ冬ではないのに、夜の風は思ったより冷たかった。


 由芽は息を整え、意を決して足を踏み出した。






 インターホンを押すと、わずか二回目のコールが鳴り終わる前に応答があった。


「はい」


 少し間を置いて、声が続く。


「あら。今晩は由芽ちゃん。どうかしたの?」


 玲子の声だった。


「暁人くんいますか」


「暁人?」玲子は少し考え込むような間を置いた後、思い出したように言った。「あらあら、今日はこの前の試合の打ち上げ兼、今回の選抜メンバーのお祝い会って言ってたわよ。今頃ファミレスじゃない?」


 聞いていない。そんな話は一言も。何故、この私に言わないのか。


 わずかに指先が冷えていくのを感じた。言葉では説明できない苛立ちが胸の奥で燻る。


「聞いてなかったの?」玲子の声が微かに弾んだ。「私より暁人のことに詳しいんじゃなかったかしらね? 由芽ちゃん」


 それは冗談めいた口調だったが、わざとらしく思えた。軽く流せば済むことかもしれない。だが、由芽はその言葉を聞いた瞬間、胸の内に収めていたはずの苛立ちが一気に膨れ上がるのを感じた。


 ──このクソウザババア。


 喉元まで出かかった言葉を何とか飲み込む。だが、表情までは抑えられなかったのか、 インターホン越しに、玲子がくすっと笑うのが聞こえた。


「そんな顔しないで。冗談よ」


 由芽の反応を楽しむような口ぶりだった。ぞっとするほどに軽やかで、悪意のにじんだ声音。その一言で、由芽の背筋には薄い膜のような寒気が張りついた。


「ま……プライベートに踏み込みすぎるのは、最近はよくないって言われてますから」


 努めて平静を装いながら、そっけなく返す。しかし玲子は、そんな取り繕いなどすべて見透かしているかのように、微笑を含んだ声で言った。


「そうかしらね。私、古い人間だから」


 その一拍の沈黙が、どこか探るようなものに思えた。そしてすぐに、玲子は意識を逸らすように続けた。


「あ、そうだ。せっかくだし、由芽ちゃん、あがっていく? ほら、前に言ったじゃない。暁人の色々、教えちゃうわよ」


 わざとらしく甘えた声音が、インターホン越しに絡みつくように響く。


 玲子の悪趣味な腹積もりなど、容易に察しがついた。おそらく、ただの気まぐれ。あるいは、こちらの出方を試しているだけ。だが、それがどうした?


「ええ。じゃあ、いい機会ですし、そうさせてもらいます」


 慎重に、しかし迷いなく言葉を選んだ。玲子がどんなつもりであろうと、こちらにとっては渡りに船。暁人に関する情報を引き出せるなら、それに越したことはない。


「大したもん、出せないけどね」


「お構いなく」


 由芽は玄関に踏み込み、背後で小鳥遊家の戸が重たく閉じる。まるで、静かに口を閉ざす獣のように。


 内部に一歩足を踏み入れた途端、空気が違うことに気づいた。


 玄関にはほんのりと、スパイスのような甘い香りが漂っている。柔らかくも鋭利なその匂いが、静かな圧迫感となって由芽の鼻腔を刺した。


 玲子はにこやかに振り返って手早く鍵を閉めると、手招きする。


「さ、どうぞ」


 由芽は深く息を吸い、無言のまま玲子の後を追った。


 こんな時期なので、手洗いうがいを済ませてからリビングへ向かった。戸口を抜けた瞬間、由芽は思わず足を止めた。ソファの前に広げられた幾冊ものアルバム。その光景が、まるで周到に用意されていた罠のように見えたからだ。


「暁人の写真、見たい?」


 玲子が何気なく問いかける。これ見よがしにアルバムが置かれているのだから、敢えて聞く必要はなかっただろと由芽は訝しんだ。


「……見たいです」


 答える前にほんの一瞬の間が空いてしまう。儀式のようなやり取りを終えると、玲子は既に開かれていたアルバムの一ページをめくる。そこには、幼い暁人がミートソースを手と口いっぱいにつけた写真が収められていた。


「かっわ……」


「でしょう?」


 玲子の声音が、妙に満足げに響く。


「ほら、これなんてどう?」


「……刺激が強すぎます」


 ページをめくるたびに、由芽の知らない暁人が次々と現れる。寝癖だらけの寝起き顔、夏祭りで浴衣を着た姿、運動会で泥だらけになって笑う瞬間。どの写真にも、これまで知っていた暁人とは違う面が映し出されていた。


 気づけば、手が止まらなくなっていた。


 暁人談義に熱が入り、玲子と盛り上がってしまう。警戒心は、どこかへ置き忘れていた。


「そうしたらあの子ったらね!」


「あの、玲子さん」


「あ、ごめん。話し込んじゃったわね」


 気づくと時計の短針は、九時を指していた。


「そうじゃなくて……」


 玲子が小首をかしげる。由芽は赤ん坊の頃の暁人を両手で抱えて笑顔を放つ父に似た男をじいと見る。


「父さんと玲子さんの写真、家で見ちゃって」


「あ、バレちゃった?」


 玲子は驚くふうでもなく、さらりと言った。その軽さに、逆に何か隠されているのではと勘ぐってしまう。


「そう、私たち大学の同期なのよ」


「そうだったんだ……」


「お父さん、ひた隠しにしてたでしょ?」


「はい……。それで、見せて欲しいなって」


「ん?なにを?」


「お父さんの昔の写真」


 玲子は一瞬まばたきをした後、口元をほころばせた。


「ええ。いいわよ?」


 玲子が奥へと消え、戻ってくると、さっきより分厚いアルバムを手にしていた。表紙には擦れた跡があり、長い年月を感じさせる。テーブルに置かれたそれを見て、由芽はごくりと息をのむ。

 玲子は動かない。代わりに由芽がゆっくりとアルバムを開いた。


「やっぱり似てる」


「誰と誰が?」


「お父さんと、暁人くんと……それに、この人」


 由芽はある一人の男性を指さした。幼い暁人の隣で微笑んでいる、父にそっくりな人物。だが、確信を持つには何かが足りない。見覚えがあるような、ないような──。


 返事がないことに、ふと違和感を覚えた。視線を上げると、玲子の表情が凍りついていた。まるで、心ここにあらずといった風に。


 玲子は写真に目を落としている。だが、瞳孔が散大し、焦点は合っていない。口元には不自然な笑みが貼りつき、唇の端にわずかに唾が光った。


「あの……」


「……あぁ、ごめんね」玲子はようやく我に返ったように、わずかに肩をすくめた。「この人は私の旦那よ。由芽ちゃんも会ったことあるはずよ。覚えてないだろうけど」


 玲子の言葉に由芽の呼吸が止まる。今度は由芽が固まる番だった。玲子の夫? そんな記憶はまったくない。動悸が速まる。


「私と旦那と由芽ちゃんのお父さん、東悠大学の同期だったの」


 玲子の声が落ち着きを取り戻す。だが、表情には何か含みがある。亡き夫のことを思っているのか、それとも──。


「そうだったんですか」


 なんとか言葉を絞り出す。しかし、その間にも胸のざわめきは収まらない。


 アルバムの写真を見つめれば見つめるほど、奇妙な既視感が募る。由芽は写真の男を知らないはずなのに、なぜか他人に思えなかった。


「あの……玲子さん」


「なあに?」


「玲子さんの旦那さんって……私の父と、何か関係ありますか?」


 玲子はその問いに、ふっと目を細めた。


「まあ、由芽ちゃん。そんなこと聞いてどうするの?」


「いえ、なんかこう……他人とは思えなくて」


 玲子は少しだけ息を吸い、何かを言いかけ──。


 その瞬間、インターホンが鳴り響いた。


 同時に、玄関の扉が勢いよく開かれる。


「由芽! 探したぞ! 帰るぞ!」


 鋭い怒声に、由芽は肩を跳ね上げた。


「えっ……お父さん?」


 そこに立っていたのは、予想外の来訪者だった。戸口に仁王立ちし、険しい目でこちらを見据えている。ひと目でわかる。怒っている。


 驚きと戸惑いと喜び、そして、胸の奥に生まれた小さな疑念──それらが綯交ぜになり、由芽は言葉を失った。鍵はかけたはずだった。



「こんな時期に人様の家にあがるなんて非常識だろう。幼馴染のお隣さんだからって何してもいいわけじゃない。流行り夢をうつしたりしたらどうする」


 玄関先で父が腕を組み、眉間に深い皺を寄せる。神経質なほどに周囲を気にしているその様子が、妙にひっかかった。


「なんで? いつも帰ってきてくれないくせに、今日はずいぶん早いんだね」


 ふっとこぼれた言葉には、自分でも驚くほど棘があった。思えば、父とこうして向き合って話すのはいつぶりだろう。


「そんな言い方はないだろう! ニュースを見て、心配になって早めにあがってきたんだ」


「ニュース? 何の?」


「いいから、ほら、早く帰るぞ。一応、マスクもしろ」


 父はそれ以上の説明を避けるように由芽の腕を引いた。咄嗟に抵抗しようとするが、意外なほどに力強い。どこか焦っているようにも見える。


「ふふ、また来てね、由芽ちゃん」


 玲子が玄関先で微笑み、軽くウィンクをした。その顔には余裕があり、今の状況すら楽しんでいるように見える。


「まったく。一体、誰に似たんだか……」


 父が呆れたようにため息をつく。


「誰なんでしょうね」


 由芽はそう返しながら、玲子の視線と父の背中を交互に見つめた。胸の奥で、形にならない違和感がじわりと広がっていくのを感じながら——。



 自宅に戻ると、案の定、父のお説教タイムが始まった。

 ただし、母の手前を気にしたのか、いつものリビングではなく、父の自室に呼び出される形だった。


「変なものが出回っていると聞いた」


 父は開口一番、そう言った。由芽はてっきり、さっきのことで怒られるのだと思っていたため、予想外の言葉に肩透かしを食らう。


「なにそれ。危ない薬?」


 父はデスクチェアに深く腰掛け、目頭を押さえながら、ゆっくりと首を振った。


「……コーヒー、だそうだ」


 由芽は父の話している意味が一瞬飲み込めなかった。拍子抜けするほど間抜けな話ではないか。


「コーヒー? そんなの前からあるでしょ」


「昔からお前は、口に入れるものに無頓着だからな。変なものを飲まないようにしろ」


 父の声には、叱責の響きはなかった。むしろ、何かを警戒しているような、異様な慎重さがにじんでいた。


「もう子供じゃない!」


「はは。そうだったな、高校生さん」


 父は皮肉めいた笑いを浮かべたが、その目は笑っていなかった。


「もういい?」


「ああ、早く寝なさい」


 由芽は部屋を出ようとしたが、ドアノブに手をかけた瞬間、背後から低い声が追いかけてきた。


「……本当に、何も飲んでないな?」


 心臓がどくんと跳ねる。


 咄嗟に振り返ると、父は書類の束を指で弾きながら、無表情にこちらを見ていた。


 由芽はなぜか喉が詰まりそうになった。自分は何もやましいことをしていない。なのに——。


「……飲んでないよ」


 そう答えた自分の声が、妙に薄っぺらく聞こえた。


 そのままドアを閉めたが、父の視線はなおも背中に突き刺さるようだった。




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