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交錯

 放課後の体育館には、九月の終わりとは思えないほどの熱気がこもっていた。夏の名残がまだ居座っているかのように、湿った空気が肌にまとわりつく。バスケットボールが弾む音とシューズが床を擦る音が、壁に反響しては消えていく。だが、そこには単なる蒸し暑さとは異なる、もっと質の悪い何かが漂っている気がした。


 優奈によれば、今度の大会──ミニ国体というらしい──に、この学校のバスケ部から十一人が選ばれたという。驚くべきことだったが、周囲の反応は淡白だった。どうやらこの強豪校では、特別な出来事ではないらしい。むしろ、チームメイトに加えて選抜されるはずだった一人の男子が、周囲から励まされていた。顧問の意向では、自チームの選手だけで固める予定だったのかもしれない。その男子は、大柄な体躯をひと回り小さく見せるように肩を落とし、どこか所在なげに佇んでいる。その男子の隣に寄り添うように、顧問が同じようにしょんぼりと肩を落としている。


 お祝いムードと沈痛な空気が入り混じるなか、由芽の視線は名簿へと落ちた。そこに「小鳥遊暁人」の名を見つけた瞬間、さっきまでお通夜モードになりかけていた頭の中が、一気に華やいだ。やっぱりすごい、と胸の内で誇らしく思う。


 だが、浮き足立つ気持ちとは裏腹に、どこかがおかしい。選ばれた選手たちは嬉しさよりも、何か別の感情を抱えているように見えた。緊張しているのだろうか。それとも──。


 体育館に満ちる熱気とは違う、得体の知れない空気の正体を、由芽はまだ言葉にコートに響くバスケットシューズの音に混じって、怒声が飛び交った。


「昨日、お前、俺のバッシュ盗んだよな?」


「は? 何言ってんの? お前、それ履いてんじゃん」


「でも昨日の夜、見たんだよ。俺の紫のバッシュをお前が盗むところを」


「はあ? だから履いてるって。そもそも、お前のバッシュって、そのオレンジのやつだろ」


「うるせぇんだよ! 早く返せ! セレクションに選ばれなかったからって妬みやがって!」


「ああ? 選ばれたのは俺で、お前じゃねえだろうが!」


 激昂する二人の間で、言葉が噛み合う気配はなかった。

 最初は気のない様子で見ていた周囲も、次第に彼らの異様さに気づき始める。まるで夢の続きを現実に持ち込んでいるかのような会話。しかし、どちらも本気だった。


「おい、やめろ!」


 さっきまでしょんぼりしていた顧問が、慌てて二人の間に割って入る。「これから大事な時期なんだから頼むぜ」となだめ、両者を別々の場所へと引き離した。


 だが、奇妙な違和感は残ったままだった。体育館全体が、しんと静まりかえる。緊張感のある空気に包まれるはずの場に、別の何かが入り込んでいる。熱気とは別の、ぬるりとまとわりつくような不快感。


 ふと、視界の端で動くものがあった。


 ギャラリーの手すりに寄りかかり、じっと虚空を見つめる女子マネージャーの姿。いつの間にあそこに移動したのか、誰も気づかなかった。ワープでもしたかのように、彼女はそこにいた。


 ぼんやりと、焦点の合わない瞳。彼女の頬はいつもより青白く、表情からは生気が抜け落ちているようだった。


「……うっわ。サセメンヘラ、またなんかこじらせか?」


 ひそひそと交わされる声。彼女は気が多く、情緒不安定で有名だった。けれど、今の彼女はただの「メンヘラ」と呼ぶには、どこか異様だった。


「……飛んだら、楽になるのかな」


 静かな独り言が、ざわつく体育館に紛れ込んだ。かき消されるほどの小さな声だったが、妙に耳に残る響きだった。


 視線を上げると、ギャラリーの端で女子マネージャーが窓の外を見つめている。誰かが彼女に気づいているのか、それとも全員が見て見ぬふりをしているのか──分からない。ただ、由芽には、彼女の輪郭だけがくっきりと浮かび上がって見えた。


 気づいたときには、彼女の足は手すりの上にあった。


「ちょっと!」


 思わず声を上げると、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。何かを思い出したような、夢の途中で目を覚ましたような表情。


 その直後だった。


 重心がふっと傾き、彼女の体が前へ倒れ込む。バランスを失い、手すりを超えた足が宙を舞った。


 次の瞬間、彼女は手すりを乗り越え、一階の体育館へと落下した。


 鋭い悲鳴が脳内に響く。しかし、それが自分のものか、誰かが上げたものなのか分からなかった。


 ──ドサッ。


 鈍い音とともに、彼女の体は下に積まれたウレタンマットへと沈み込んだ。


 一瞬の静寂。


 周囲のバスケ部員たちが視線を向ける。だが、誰も取り乱す様子はない。


「あいつ、またかよ」


「どうせ下にマットがあることも織り込み済みだろ」


 誰かが呆れたように言った。



 異常なはずの光景が、異常として認識されていない。


 由芽は息を詰めたまま、彼女の元へ走り寄る。病の足音が、もうすぐそばまで迫っている。そんな気がして走り出すほかなかった。




 彼女を保健室に送り届け、体育館へと戻る途中だった。夕方の空気はまだ夏の名残をとどめ、廊下には緩慢な熱が漂っている。ふと、耳に馴染んだ声が聞こえた。


「──ねえ、暁人。なんなの。教えなよ」


 体育館の裏手。通路を少し外れた場所から、優奈の声がする。由芽は足を止め、静かに息を潜めた。音を立てぬよう慎重に足を運ぶ。乾いた落ち葉を避け、柔らかな草の上を選ぶ。扉の影に身を潜め、視線だけをそちらへ向けた。


 優奈は壁にもたれかかり、腕を組んでいる。その口元には余裕を含んだ笑みが浮かんでいたが、目は妙に鋭かった。目の前の暁人をじっと見据えている。軽い調子に装いながら、どこか探るような視線だった。


「いやまあ、由芽には逆らえないことを握られててさ」


「なによ、それ。いいな」


「言えねえよ」


「なんなのよ。自分から持ちかけといて」


「とにかく、ちょっと──なんだ」


「なに? あんなに可愛い幼馴染のことが──って?」


「いや、それが────」


 その瞬間、体育館の方から乾いた音が響いた。バスケットボールがリングに吸い込まれ、バックボードを揺らす音。由芽は反射的に口を開いていた。


「こんなとこで二人して何の話?」


「うわっ」


 暁人は弾かれたように肩を跳ねさせ、言い訳する間もなくそそくさと立ち去った。優奈がわずかに口元を歪め、肩をすくめる。


「えっとね、由芽のことが可愛いって噂してたの」


「そこだけは聞こえたよ!」


「んま! カクテルパーティー効果ね!」


「ちょっとニュアンス違う気もするけど」


「細かいんよ由芽はん。ま、由芽が気にするようなことは何もないよ!」


 優奈はそう言うと、由芽から距離を取るように駆け出した。体育館の入り口の柱に片手をかけると、勢いをそのまま利用し、体を軽やかに回転させながら中へ滑り込む。あっという間に視界から消えたかと思うと、次の瞬間、ヘッドスライディングするような形で体育館の中から地窓越しに顔を覗かせ、呆気に取られている由芽に悪戯っぽく笑いかけた。


 そこへタイミングよく優奈のもとに転がってきたバスケットボールに、彼女は大袈裟に目を丸くしてみせた。すかさず、「わたしはディズニープリセンスの一人です」と言わんばかりに可愛く軽く突く。由芽が笑うまで、何度も何度も。唯一、地窓の格子が由芽たちを別つものだったから、まるで囚われのお姫様みたいでちょっと笑ってしまった。


 ボールを突く彼女の目は、先ほどよりも柔らかくなっていた。だが、それでもまだ何かを探るような色が残っていた。暁人ではなく、由芽の方を。





 ────────────────────



「共通の夢……?」


 研究所では、感染症から回復した人々がある特定の夢を見ていたという報告が再三話題になっていた。


「ええ」


 薄暗い研究室の片隅に掛けられた時計。短針は、まるで何かを刺すかのように、静かに右へと12度の角度を刻んでいた。

 暗がりに包まれ、二人きりの研究室で、腰のあたりまで屈んだ玲子は艶やかに流れるような動作で髪を耳元にかけ直す。


「とんでもなく、気持ち悪いん、だって」


 彼女はゆったりと顔を前後に揺らし、吐息混じりに呟いた。その声は、どこか官能的な影を帯び、闇夜の静寂に溶け込むようであった。


「はあ。俺は、気持ちいい、けどね」


「真面目な、話、してるの。あとは、子供から、老人まで、全員が、経験したことのある、事象なんだって」


「はあ。不真面目なこと、しているのにね。なぞなぞみたいに、なってきたな。スフィンクスが、言ってるのかい、それは」


 玲子は、口に咥えていたものをそっと離し、上唇と下唇の間に張り巡らされた唾液の細い糸を、舌先で静かに舐め取ると、口角を引き上げた。そして、ゆっくりと立ち上がり、そっと胸元に口付けを落とす。彼女は、相槌の代わりに、ゆっくりと瞼を閉じ、そのまま静かに目を開いた。


「しかしな。夢が、他人の記憶の追体験と分かっていても……なぜ誰も、それを取り沙汰さない?騒がない?」


 夢の内容を、人は忘れる。だが、それは本当に「忘れてしまった」のか?その問いが、玲子の体温とともに胸に重くのしかかる。


 ふと、上気する玲子の顔面上に、由芽の照れくさそうな面持ちが、上書きされるように思い起こされていく。


「いつか、父さんみたいな研究者になって、お父さんのこと手伝えたらなって思うよ」


 その真っ直ぐな眼差しが、まるで遠い昔の輝きを放つかのように、脳裏に浮かんだ。




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