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保定装置

 夜の静寂が部屋を支配していた。仰向けになったまま、意識は薄れるとも覚めるともつかない曖昧な状態にあったが、次第に足元に奇妙な気配を感じる。目を凝らすと、黒い影がじわじわと這い上がってくるのが見えた。その動きは人間のようでもあり、異形のもののようでもある。慌てて身を起こそうとしたが、体が布団ごと水に浸かっているかのように重く、まるで何かに押さえつけられているようだった。


 その影が目の前で形を成し、私は息を呑んだ。それは母だった。目が合った瞬間、言葉を発しようとしたが、声帯は完全に凍りついてしまったかのようだ。母は無言で人差し指を私の下唇にひっかけ、「静かに」と言わんばかりの仕草をする。その動きには不自然な艶めかしさがあり、私は混乱と嫌悪が入り混じった感情に襲われた。


 やがて母は私に馬乗りになり、その息遣いが異常に荒いことに気づく。枕元に置かれた時計は歪んだまま針が止まっていて、時間が存在しないように感じられた。「学校に遅れたらどうしよう」という的外れな考えが脳裏をよぎるのが、自分でも滑稽だった。そんな無意味な思考をしている間に、下半身に不快な熱が広がり始める。私はその熱が何を意味するのか直視することを避けるように、意識を閉ざしていった。


 次に気づいた時、私は鏡の前に立っていた。手には歯ブラシを握りしめており、歯と舌を執拗に磨いている。下の歯の裏側に通された針金にブラシを押し当て、念入りに何かをこそぎ落とすような動きだった。鏡に映る自分の顔はどこか見慣れない。額に滲む汗がじわりと視界を曇らせるが、それを拭うことすら忘れていた。


 ただ無心に磨き続ける。汚れを掻き出すというより、何か自分の中の深い部分を洗い流そうとでもしているかのようだった。どれほど時間が経ったのか分からないが、鏡の中の自分の顔がいつの間にか他人のように感じられる瞬間が訪れた。その顔がこちらをじっと見つめ返し、問いかけるように口元をわずかに歪めた。


 私はブラシを握りしめる手を強く振るわせたまま、その視線を振り払うように目を閉じた。それ以上、何も見てはいけないという直感だけが頭の中を支配していた。





 由芽は弾かれたようにベッドから飛び起きた。今の夢は何だったのだろう。母と──いや、そんなはずがない。自分でも訳が分からない。ただ、夢の中で感じた異様な感触が、まだ体にまとわりついているようだった。脚のあたりに残る妙な重みと、口の中のねばついた不快感。まるで、ゴーヤを噛み砕いた後にコーヒーで何度もすすいだような気持ち悪さだ。夢から現実に引き戻された今も、それは完全には拭えなかった。


 それにしても──あの夢の中で鏡に映った自分は確かに自分だった。ただ、どこかが違っている。それが何なのか、由芽にはまだ掴みきれない。


 白み始めた窓の外から差し込む微かな光を頼りに、机の引き出しから手鏡を取り出す。カチリと音を立てて鏡を開き、自分の口内を覗き込んだ。歯はきれいに並んでいる。どこも異常はない。下の前歯の裏側を指で触れ、夢の中で見た針金を探してみるが、そんなものはどこにもない。ただツルリとした歯の感触が指先に返ってくるだけだった。


「じゃあ、あれは──」


 由芽は鏡を閉じ、ぼんやりと窓の外を見つめた。夢と現実の境界線があやふやになり、心に奇妙な不安がじわりと広がっていく。それでも、あの針金の違和感は現実のもののように鮮明だった。一体、あれは何を意味しているのだろう。何か一つの答えに辿り着きそうで、着かない。そんなもどかしさとともに、由芽は鏡をそっと机に戻し由芽は布団に潜った。



 早朝、耳に障るような物音に由芽ははっと目を覚ました。どうやら二度寝していたらしい。寝ぼけた頭を振り払いつつ、胸にこびりついた妙な焦燥感が消えないのは夢のせいだろうか。だが今、由芽が気にしているのはそんなことではなかった。リビングから微かに響く音に、急いで布団を抜け出す。


 そこには、出かける準備を進めている父の姿があった。ネクタイを締めながら玄関に向かおうとする背中に向けて、由芽は声を投げかけた。


「お父さん、やっぱり私……感染してるかもしれない」


 父の手が一瞬止まる。だが、振り向いた顔にはさほど動揺の色は見えなかった。眉間に寄る皺は、どちらかといえば心配よりも確認を求めるもののようだった。

「なんだって?……見たのか?」


「覚えのない出来事の夢……」


 父はネクタイを整えながら問いを重ねる。

「悪夢も見たのか?」


 由芽は視線を彷徨わせながら、言葉を選ぶ。

「それが悪夢って言うなら……そうだと思う」


「問題は、覚えのない夢を見たその後だ」

 父は短く吐息をつくように言った。「その後、見たのか?」


「うん……そのまま二度寝して、悪夢は見てない……」


 その瞬間、父の肩がわずかに緩むのが見えた。軽く頭を振り、笑みを含んだ声で言い放つ。

「じゃあ大丈夫だ。どんな内容だったんだ?」


 その穏やかすぎる態度に、由芽はわずかに苛立つ。

「ねえ! 大丈夫じゃないかも! お父さん、私が病気かもって言ってるんだよ! 世界でたった一人のお父さんの娘なんだよ! 少しは心配してよ!」


 父は少し考え込むふりをしてから、悪戯っぽく微笑んだ。

「んー、由芽は昔から僕に対しては構ってちゃんだからなあ」


「茶化さないでよ! もう高校生なんだから」

 由芽の抗議はやや声が裏返り、思った以上に幼く響いた。そんな反応に父はおかしそうに口元を緩めたが、すぐに真剣な表情へと切り替えた。


「あのな、由芽、よく聞け。一般にはまだ公開されていない情報だけど、特別にお前にだけ教える。どのみち遅かれ早かれ世間にも出回るだろうが……絶対に誰にも言うな。約束できるか?」


 父の声は低く、部屋の空気に緊張感が漂う。私は喉を鳴らしながら力強く頷いた。


「実は、うちの研究所で、今回の流行病……通称“流行り夢”の研究をしているんだ」


 父の言葉に、私は内心焦った。封筒を盗み見たときから既に知っていた情報だが、驚いた素振りを見せようとしても、どうにもタイミングを逃してしまう。


「なんだ?」

 父は怪訝そうに眉を上げ、私をじっと見つめた。

「由芽、驚かないのか?」


「だって、お父さんの専門って感染症でしょ?」


 私は冷静を装い、平然とした態度で父の視線に応じた。動揺しては怪しまれると思い、意識的に呼吸を整えながら言葉を選んだ。


「まあ、確かにな」

 父は私の返答に一瞬の疑念を浮かべたものの、すぐに気を取り直して話を続けた。


「今回の流行り夢のウィルスは、ふつうの風邪ウィルス、ライノウィルスがなんらかの原因で変異したものらしい。発生源は中国だといわれているが、彼らは否定していて、日本で生まれたウィルスだと主張している。ただし、それも確証はない」


 父の話を聞きながら、私は表面上は関心を装ったまま、心の中で彼の言葉を整理していた。


「そして、普通の風邪ウィルスと比べると、この新型ウィルスの感染力は極めて低い。意図的に抑えられているかのようにね」


「へえ……」

 私は無表情を保ちながら、相槌を打った。


「一般的な風邪は飛沫感染、つまり感染者の咳やくしゃみを吸い込むことで広がる。しかし、この流行り夢のウィルスは飛沫感染はおそらく確認されていない」


「えっ、じゃあどうやって感染するの?」


 私の問いに、父は少しだけ眉を上げ、満足げな表情を見せた。


「感染者との限定的な接触感染だけだ。つまり、感染者と直接接触しなければ発症することはない」


「ふうん……じゃあ、なんでこんなに大騒ぎになってるの?」


 私が投げかけた疑問に、父は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「それは、ほぼ100%の確率で昏睡してしまう重症化率とそこから移行する致死率の高さだ。一度発症すると、今のところ有効な治療法が見つかっていない。中国では民間療法が囁かれているらしいが、どれもまだ確かな根拠がない」


 父は言葉の端々に苦々しさを滲ませながら、話を続けた。


「ただ、感染さえしなければ心配ない。それだけは間違いないが、一番の問題は潜伏期間だ。いつ発症するかが予測できない。そして、無症状のままウィルスを運んでしまう、キャリアという人がいる可能性が高いんだ」


「なんか……気味が悪いね。わざとじわじわ広がって、人を苦しめるように設計されてるみたい」


 私の言葉に、父は鋭い眼差しをこちらに向けた。


「その感覚、間違っていないかもしれない。だが、とにかく気に病むなよ」


 父は私の頭に手を置き、軽く叩いて立ち上がった。そして式台に腰を下ろし、革靴を履こうとする背中に、私は何も言えずに視線を向けていた。


 その気配に気づいたのか、父が振り返り、小さく微笑む。


「不安になったら、また相談しろ。な?」


 父は革靴のかかとを軽くトントンと叩きながら、私に背を向けていた。まだ薄暗い廊下に、彼の影が長く伸びている。その背中にはいつも感じる安心感と、どこか手の届かない距離感が同居していた。


 私は無言のまま、その後ろ姿を見つめていた。気づいたのか、父が振り返る。


「これ以上、何かあるのか?」

 彼の声は朝の冷えた空気そのもののようだった。凛としていながら、どこか私を包み込む温かさも感じさせる不思議な響きだった。


 私は少し迷った後、意を決して口を開いた。

「この前、ニュースで亡くなった人のこと……あの人に亡くなる前に道端で会ってたの。それでその後の夢がね。警察さんの上司の視点でね。ブルーシートをめくったら、その中に私がいたの」

 言葉が途切れ途切れになりながらも、なんとか伝えた。父はしばらく動きを止め、私の方をじっと見ていた。そして何も言わずに立ち上がると、そっと私の肩を抱き寄せた。


「大丈夫だよ」

 その声はあくまで穏やかで、冷静だった。私の動揺を押さえつけるような、揺るぎない安定感を持っていた。

「由芽、言ったろ?その男の人の目線じゃないのなら、夢は夢なんだ。それに、あの男の死因は今回の感染症とは無関係だよ。ただの薬物中毒だったらしい」

 父の説明は一切の無駄がなく、理路整然としていた。でも、どうしても疑念が消えなかった。


「それは、私も警察官の人から聞いてた」

 私は試すような口調で言った。ほんの少しだけ、父を探るつもりだったのだ。


 父はわずかに苦笑した後、肩に置いていた手を軽く押し下げるように叩いた。

「なんだ、じゃあ感染の可能性はないって頭ではちゃんとわかってるんじゃないか。それに、もし由芽が感染していたら、父さんも母さんもとっくに感染しているだろうよ。家族なんだからな」


「でも、お父さん、この前、悪夢を見るって言ってたじゃん!」

 私は思わず食い下がった。父の言葉には一見納得できる筋が通っているようで、どこか言葉尻が曖昧な気がしたからだ。


「それは、昔見た悪夢の話を例え話にしただけだよ」

 父は小さく笑いながら、私のおでこに人差し指を軽く押し当てた。指先の冷たさが意外にも心地よかった。


「……あ! バカにしてるでしょ!」

 抗議するように声を上げた私に、父は両手を軽く挙げて降参のジェスチャーをしてみせた。


「してない、してない。ただ、由芽は心配性だからな。もうちょっと肩の力を抜いていいんだぞ」


 父が式台に座り直しながらそう言った。私はなんとも言えない気持ちで父の背中のスーツの皺を目で辿る。嘘をつかれているのか、それとも本当に何もないのか。その背中には、どちらの答えも見えなかった。


 ぴっとスーツの皺が伸びると、父の悪ガキのような笑顔がこちらに振り向いてくる。


「それで、今日のはどんな夢だったんだ?」


 由芽は唇をきゅっと結び、顔を背けた。

「……言わない! もう相談しない!」


「おいおい」

 困ったように首を振りつつも、父は軽く肩をすくめて鞄を持ち上げた。

「まあいいさ。不安になったらまた相談しなさい」


「……はいはい、しますしますー」

 冷たいような言い方に、どこか甘えた響きが混じるのを自分でも感じる。

「こんな甘ちゃんが、本当に高校生になったのかなあ」

 父は呆れたように小さく笑い、私はそれに対して頬を大きく膨らませて抗議をする。父は玄関を出る際に振り返って手を振った。

「じゃあ、行ってくる」


 由芽はその後ろ姿を見送りながら、胸にわだかまる感情を振り払えずにいた。自分の中で膨らみ続ける違和感が、父の軽い態度と共にどこか浮遊しているような気がしてならなかった。



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