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鏡の裏側

 

 学校には「体調不良」という無難な理由を告げておいた。由芽が普段から模範的な生徒であることは、教師たちにも周知の事実だ。多少の疑念を抱かれたとしても、それが追及に発展することはないだろう。母には「朝練と夜練があるから遅くなる」と嘘をつき、バックパックを背負い、バスケットボールの練習着をまとって家を出た。


 玲子が家を出る早朝の時間を狙い、こっそり後をつける。これは既に日課となっていた。動きを悟られぬよう、今日は新調したばかりのセットアップに身を包み、キャップ、マスク、そして眼鏡を着用する。顔を隠すための変装は完璧だ。暁人や父であっても、これでは正体に気づくことはできないはずだった。


 玲子と父の関係。玲子と暁人のつながり。そして、流行り夢の正体──。この尾行が成功すれば、それらすべての答えに辿り着けるかもしれない。そう考えると、由芽の心には静かな興奮が湧き上がった。こうした冷静で周到な計画を練れるのは、医師である父親譲りの聡明さゆえだろう、と彼女はひそかに自負していた。


 電車を乗り継ぎ、玲子の行き先を追い続けた。いつの間にか隣の車両に移動し、慎重に距離を保つ。だが、久しぶりに乗った電車の車内はどこか異様だった。通勤ラッシュの時間帯にもかかわらず、車内は思った以上に空いている。乗客の全員がマスクをしている光景も異様に映った。


『流行り夢が、どうやら日本でも感染が広がってきてるみたいだよ』


 若い警官の声が呼び起こされ、由芽は無意識に自分のマスクの鼻部分を押さえ直していた。


 玲子の足取りを見失わぬよう目を凝らしていると、やがて目的地に到着する。事前に調べておいた住所と一致する場所だ。尾行せずとも辿り着けたはずだったが、玲子の寄り道を確認しておきたかったのだ。それに、朝の彼女の服装や振る舞いを観察しておくことも必要だった。


 その時、玲子の肩掛けバッグから振動音が響いた。

 スマートフォンだろう。

 バッグから取り出した彼女は、その画面を確認し、ゆっくりと電話に応じた。


「はい、もしもし」


 玲子はスマートフォンを取り出し、普段の軽やかな声とは打って変わって、低く鋭いトーンで電話に応じた。その変化はまるで、全く別の人間がその身体を借りたかのようだった。


「は? それ、あんたに任せるって言ったでしょ? 何やってんのよ、ほんと。遅すぎる。あり得ないわ。さっさとやって」


 由芽は玲子に少しずつ近づいた。声を拾おうと神経を尖らせるが、路上を行き交う車や人々の雑音が邪魔をする。男の怯えたような声が一瞬聞こえるも、会話の詳細を捉えるには至らなかった。


「こっちがどれだけ研究費を突っ込んでると思ってんの? 『できませんでした』なんて通ると思う? 来週までにサンプルを仕上げなさいよ。それじゃあね」


 玲子は相手の返答も途中に切り上げ、一方的に電話を終えた。スマートフォンをカバンに戻すとき、ふと背後に視線を投げる。


 ──気づかれたか?


 由芽は即座に顔を伏せ、帽子を深くかぶり直した。心臓が喉元で跳ね上がるのを感じる。


「あ!」


 玲子の声が一変した。先ほどの冷徹さが消え、明るさを装った挨拶が響く。数段階高くなったその声に、由芽の動悸はさらに激しくなる。


 ──まずい。近づきすぎたか。


 由芽は失敗を悟り、瞬時に適切な言い訳を考えようとしたが、思考が追いつかない。その時、背後から男の声が聞こえた。


「ああ、玲子。おはよう。どうだ、進捗の方は?」


 どこかで聞き覚えのある声だ。だが、すぐに確信へとは至らない。


「おはよう! それがさ、聞いてよ。アイツ、ほんとに使えなくてさ」


 玲子が親しげに応じる。その声の軽さに、由芽の中で嫌悪感が湧き上がる。二人の歩みに合わせて少し距離を取る。だが、男がふと前に出たとき、俯いている由芽のキャップの縁から、見覚えのある靴が目に飛び込んできた。それは父が履き古した皮靴だった。


 由芽は弾かれるように顔を上げた。そして目の前の光景に凍りついた。


 玲子が父の腕に手をかけている。人目を憚る様子もなく、親密そうに歩いているのだ。


(この女、暁人だけじゃない。お父さんまで私から奪うつもりなの?)


 怒りが胸を焼く。由芽は思わず拳を握りしめ、その場で玲子に殴りかかりそうになった。だが、次の瞬間、必死にイメージを切り替えた。何度も玲子を殴りつける想像で、込み上げる感情を抑え込む。


 立ち止まり、肩で息をしている由芽に、通行人が不思議そうな視線を送る。それを感じながらも、彼女の視界には玲子と父しか映らなかった。


「忘れちゃダメだ。本来の目的」


 自分に言い聞かせるように呟く。冷静を取り戻した由芽は、玲子が父に向ける笑顔に目を奪われた。それは、母にも自分にも見せたことのない表情だ。そこには妖しいまでの魅力が宿っていた。


 二人がオフィスビルに吸い込まれていく姿を、由芽はもどかしい気持ちで睨みつけた。暁人が階段で見せた悲しそうな顔が浮かび、その姿が彼女の理性をつなぎ止めた。


(暁人のために。この怒りも悲しみも、すべて彼に報いるための糧にする)


 由芽は固く決意を抱いたまま、その場を立ち去った。



 夕方、太陽の熱がようやく地面から引いていく頃、玲子が建物から姿を現した。その周りには同僚と思しき人々が集まり、皆一様に笑顔を浮かべている。玲子に手を振り、口々に挨拶を送りながら、その場を後にしていく。


 玲子の表情もまた、柔らかな笑みを浮かべていた。その笑顔には人を惹きつける不思議な力があるようで、由芽もつい見入ってしまった。しかし同時に、玲子がやたらと笑顔を振りまく様子に違和感を覚える。八方美人。そんな言葉が頭をよぎる。


(あの女の本性を知っているのは私だけ──)


 そう思うと、胸の奥に不快な熱が湧き上がる。しかし、彼らが玲子の本当の顔を知ったとき、どんな表情をするのか。そんな想像をするうちに、少しだけ気が晴れる自分がいるのを感じた。


 玲子は人の少ない電車に乗り、やがて最寄駅に降り立った。由芽も同じ電車であとを追う。帰路は特に目を引く情報はなかったが、それでも見逃せないという思いが足を止めさせなかった。


 やがて玲子が自宅の中に入るのを確認し、由芽は一息つく。その後、近くのコンビニに立ち寄り、トイレで着替えを済ませると、あえて遠回の道を全力で走って家へと戻った。


「おかえり。由芽、汗びっしょりじゃない。頑張ったね」


 帰宅すると、母が労いの言葉をかけてくれる。それは部活のことを指しているのだが、由芽にはまるで今日の尾行を褒められたように思えた。思わず、心の中で小さく笑みを浮かべる。


 その夜、夢を見た。けれど、目が覚めると、内容は霧のように消え去っていた。


「風邪ってことにしておけば、連日休んでも問題ないよね」


 そう自分に言い聞かせるようにして、由芽は学校を早退した。今日の目的は、暁人の家への侵入だった。


 由芽にとって、それはさして難しいことではなかった。暁人は鍵っ子で、スペアキーの隠し場所を彼女は知っていたからだ。それは玄関先の砂利の中に埋め込まれた小さなケースの中にある。


「確か、この辺だよね……」


 しゃがみ込み、手で砂利を探ると、すぐに硬い感触が指に触れた。ケースを開けると、中から鍵が顔を覗かせる。


「ビンゴ」


 由芽は小さく呟くと、念のためインターホンを鳴らし、数分間待った。それでも反応がないのを確認すると、手慣れた様子で手袋をはめ、静かに鍵を回した。


「お邪魔しまーす」


 誰に聞かせるでもなく、由芽は小声で挨拶を口にする。靴はそのまま持ち上がり、足音を立てないよう慎重に家の中に進んだ。


 家の構造は把握している。玄関をまっすぐ進むと、草が生い茂る中庭に面した廊下に出る。そこからすぐ右手の階段を上がると、目の前にあるのが玲子の部屋だ。


 ──まずはここからだな。


 由芽は小さく息を整え、足音を殺して階段を上がり始めた。


 部屋の中を見渡しながら、由芽は慎重に物色を始めた。目につくのは机の上に転がる眠剤の空き殻。どうやら玲子は不眠症らしい。けれど、それ以上の興味は湧かなかった。


(もっと重要なものがあるはず──)


 そんな思いを抱えながら、痕跡を残さないよう細心の注意を払いながらも、宝探しに没頭していく。時間の感覚はすでに失われていた。


 やがて、衣装ダンスの横に置かれた本棚の上部に違和感を覚える。整然と並んでいるはずの本の列に、微妙な乱れがあるのだ。由芽は手を伸ばし、奥に隠されている埃をかぶったアルバムを引き出した。


 アルバム自体は古びているが、中に挟まれている写真の一枚だけが妙に新しい。由芽はその写真を取り出し、慎重に目を向けた。


「また写真……?」


 胸の奥に、嫌な予感が走る。震える手で写真を眺めると、そこには父にそっくりな二人の男に挟まれた若い頃の玲子が写っていた。三人は肩を寄せ合い、親密そうに微笑んでいる。まるで恋人同士のような距離感だ。


「これって、どういうこと……?」


 由芽は思考の迷路に迷い込む。手の中の写真が妙に重く感じられ、胸の中に押し寄せる混乱が言葉を奪った。


(玲子と父だけじゃなく、またあの男……これは一体何?)


 考えを巡らせている最中、玄関のほうから戸が開く音がした。


「ただいまぁ」


 暁人の疲れた声が、静寂を切り裂く。瞬間、由芽の体はデジャブのような感覚に陥り、本能的に緊張で固まった。


「母さん? いるの?」


 足音が徐々に近づいてくる。由芽は身を縮めながら、冷静に考えを巡らせた。


(いや、大丈夫。いつもの暁人なら、この後は──)


「はぁ、疲れた……」


 暁人の足音が遠のき、代わりにシャワーの音が家中に響き渡った。その瞬間、由芽は一気に安堵の息を吐いた。


(今しかない──)


 音を立てないよう細心の注意を払いながら、由芽は玄関に向かう。足元を確認しつつ慎重に歩を進め、ついに玄関を抜け出すことに成功した。


 外の冷たい空気を吸い込むと、張り詰めていた神経がようやく緩むのを感じた。写真を持ち帰るか迷ったが、今はその場を離れることを優先した。


(十分な収穫があった。それだけで今日は上出来)


 帰り道、由芽はそう自分に言い聞かせながら、胸の中に渦巻く疑問をかき消そうとした。





 夜、二人きりのテーブルに母が乱雑に皿を並べ終え、椅子で床を軋ませた。


「お父さん、今日も仕事で帰ってこないみたい」


 母のため息がトッピングされたとんかつを箸でつつきながら、由芽は先ほどから心に浮かんでいた疑問を口にした。


「ねぇ、お父さんとお母さんって、どこで出会ったの?」


 言葉の端々に特別な意図を感じさせないよう、あくまで食事中のふとした思いつきであるかのように装った。


「お見合いよ。あら、話してなかったかしら?」


 母は味噌汁を一口すすり、目線を一瞬だけ由芽に向けた。


「お見合いなんだ。いつ頃?」


 由芽も真似をして味噌汁をすする。こうすれば母の話を引き出しやすくなるだろうという直感だった。


「そうね……お見合いしてからはとんとん拍子で結婚して、すぐに由芽が生まれたから……由芽が生まれる一年前くらいかしら。」


 母の声にはどこか懐かしむような響きがあった。普段よりもわずかに饒舌になっているようにも思えた。


「へぇ。じゃあ、お母さんってお父さんの大学の頃の話とか、全然知らないの?」


 あくまで世間話の延長線上にある無邪気な質問として投げかける。


「え?」


 母は一瞬箸を止め、少し考え込むような仕草を見せた。


「私はお見合いの場からしかお父さんのことを知らないのよね。それ以前のことはあんまり話したがらなかったし……私も深く聞くのは野暮だと思って、それ以上突っ込まなかったの。」


(やっぱり……)


 母の何気ない言葉の裏に、由芽は喜びつつも嫉妬の炎を燃やしていた。父と玲子の関係を裏付ける材料が揃いつつある感覚が、心の奥で膨らむ。


 だが、母の次の一言が由芽にまた一つ新たな疑念を抱かせた。


「私が知ってるとしたら……そうね、お父さんの家族は熱心なバスケ一家だったことくらいかしら」


 その言葉が由芽の胸に静かに、けれど深く突き刺さった。

(バスケ一家……?)


 思わず顔に出そうになるのを抑えながら、由芽は箸を動かし続けた。玲子、暁人、そして父の関係を結びつける糸がまた一つ見つかった気がした。



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