記憶の断片
玲子に促され、リビングに戻った由芽の目に飛び込んできたのは、どこか様子のおかしい暁人の姿だった。ソファに座り込み、両肘を太ももに突き、俯きながら貧乏ゆすりをしている。まるで試合前のプレッシャーに押し潰されそうになっているバスケ部のルーキーのようだ。
(そんなにショックだったんだ。私に玲子との関係を指摘されたことが……)
由芽の胸に微かな罪悪感と、それを打ち消すほどの愛おしさが込み上げる。
「じゃあ、由芽ちゃんが悪さをしてないことも分かって、無事も確認できたわ。私たちはそろそろお家に戻るわね。ついてきちゃダメよ?」
玲子は小悪魔的な笑みを浮かべ、片目をウィンクさせる。その軽薄さに由芽は胸がざわつく。玲子の顔を直視することはできず、視線は伏し目がちな暁人ばかりを追ってしまう。
玄関に向かう玲子は、ふと自分がこの家は自分のものではないことをやっと思い出したかのように、「失礼しました」「お邪魔しました」などとわざとらしい礼を繰り返しながらドアを開けた。その間、暁人は一言も口を開かなかった。
「由芽ちゃん、今日の続きはまた小鳥遊家でね。おやすみなさい」
玲子の言葉が静まり返った家に響く。カチリと戸の閉まる音と、リンクするように由芽の中で何かが扉と同じ音を立てて切れた。
(あの女……なんのつもり? 私と暁人の仲に釘を刺しにきたわけ? 暁人のお父さんが早くに死んだから、暁人を彼氏とでも思ってるの? 許せない。自分の子供をまるで慰みもののように扱うなんて……)
由芽の拳が食いしばった歯とともに震え始めた。爪が掌に食い込み、痛みがじんわりと広がる。それでも彼女はその感覚を放そうとしなかった。
「暁人は、私が助け出す」
怒りと決意が彼女の胸を突き上げる。由芽は視線を遠くに投げ、思い描く。学校生活なんてどうでもいい。優先順位ははっきりしている。暁人をあの女から取り戻す。それだけだ。
その夜、由芽の夢には父親が出てきた。場所は、どこか見覚えがあるが自宅にはないはずの広々とした中庭。そこには新しいバスケットゴールが立っており、二人の笑い声が響き渡っていた。肩車をしてもらいながらのダンクシュート。何度も名前を呼ばれ、褒められる。温かさに包まれた、何よりも幸せなひとときだった。
目を覚ました後も、夢の中で感じた陽だまりのような心地よさは消えなかった。まるで一晩中、父親の腕の中にいたかのようだ。その感覚に突き動かされ、由芽はスマホを取り出して夢日記をつけることにした。それは彼女が初めて書き留めた夢だった。
翌日の昼休み、由芽は隣のクラスにいる暁人を呼び出した。優奈も何かを察して一緒についてくる。だが、昨日のことがある手前、優奈に会話を聞かれるのは気まずいと思い、暁人を屋上前の踊り場へ連れて行き、優奈には下で待ってもらうことにした。
「ねえ、暁人」
「……なんだよ」
暁人は腕を組み、仏頂面でこちらを見つめている。その表情に、少し苛立ちの色が混じっているようにも見えた。
「玲子さんって、まだ子離れできてない感じだよね」
「まあ、そうだな。それがどうかした?」
「普段どんな感じなのかなって、気になってさ」
「普段? それを聞いてどうするんだよ」
暁人の指が腕をトントンと叩く。焦っているのか、それとも話題を避けたいのか、曖昧な仕草が続く。
「いいから答えてよ」
「普段もあんな感じだよ。仕方ないだろ。父さんがいないんだから、俺が母さんを支えないと」
「分かるよ、暁人」
由芽はそう言いながら一歩距離を詰める。
「暁人のそういうところが好き。お母さんのことを大切にしてるところとか、亡くなったお父さんのことを誇りに思ってるところとか」
上目遣いで真剣に語る由芽に、暁人は顔を赤らめながら黙って俯いている。
「それに、バスケへの真剣な態度も好き。私、暁人の影響でバスケが好きになったんだよ。毎日欠かさず家で練習してることとか、全部知ってるんだから」
「え、なんで知ってるんだよ」
「だって隣だもん。音、聞こえるよ」
「そっか……それもそうか」
暁人がはにかんで笑う。その笑顔に、由芽は胸が締め付けられるような思いを抱く。
階下から優奈の声が響いた。
「ねえ、終わった? まだ? お腹減ったんですけどー!」
「はいはい、もう終わるって」
「もー、早くして! 購買のパンなくなるぞ!」
由芽は苦笑しながら声を張り上げ、暁人は私たちのやり取りに微笑んでくれたようにみえた。
「玲子さんって偉いよね。女手一つで暁人をこんなに立派に育てたんだから」
由芽は、後ろで両手を組み、身体をあざとく揺らして綾人の周囲を歩き始める。
「まあな。母さんには感謝してるよ」
綾人は、体は動かさずに目線だけで由芽を追ってきた。
「玲子さん、製薬会社に勤めてるんだってね」
ちょうど、暁人の視界から由芽が消えるくらいだ。
暁人はまだ顔を動かさない。
「ああ、去年から。結構いいポジションらしい」
さっきまで由芽がいた空間を見つめて話している。暁人は側から見たら壁と話している変人だ。
すっかり由芽は暁人の後ろをとった。弓を引き絞るように大きく溜めて、渾身の言葉を投げかけた。
「うちのお父さんと玲子さんが仕事で連携してる上にプライベートでも会ってるって、知ってた?」
暁人のうなじに向かって弓矢を射るように放ったはずの言葉。それは彼の野生動物のような俊敏な反応によってうなじから頬にずらされた。致命傷をさけたような、そんな速度でこちらに振り向いてきた。
暁人は息を吸い込んだ後、小さく由芽に言う。
「なにそれ、初耳なんだけど」
暁人の反応に作戦の成功を確信する。
「でしょ? 私もこの前知ったばっかり」
由芽は一瞬言葉を切り、暁人の表情を探るように見る。暁人には申し訳ないけど、判断する時間を与えない。ここで畳み掛けよう。
「それでね、ちょっと気になったの。玲子さんの職場、今度教えてよ」
「……どうして?」
まるで合点があってないようなフリをするが暁人の下唇だけは僅かに震えていた。
「疑いを晴らすためだよ。暁人だって、何もないって分かったほうが安心するでしょ?」
暁人は戸惑った表情を浮かべながら口を開こうとするが、その瞬間、階下から優奈の再びの叫び声が聞こえた。
「早くしないと怒るよー! お昼なくなるよー!」
「分かったよ!」
由芽ため息交じりに返事をする。そんな由芽を暁人は黙って見据える。
「絶対DMしてね!」
そう言い残し、由芽は軽やかな足取りで階段を降りていった。その背中には、暁人の救出作戦が一歩進んだという確信に満ちた勢いが宿っていた。
放課後を待たずとも、InstagramのDMを知らせる通知のバイブがくる。授業中であったが、由芽の中の優先順位は暁人と決めている。由芽の心はすでに暁人のことに集中していた。
先生に見つからないよう、机の物入れの中にiPhoneをこっそりと忍ばせ、頬杖をつく。教科書を落ちないように少しだけ机の天板から手前にはみ出すように置いてまるで教科書の上に目線が落ちているようにした。ここまできたら、あとはわざと髪を垂らし即席の隔壁をつくる。前からは絶対バレないはずだ。
画面にはtakitotto124のIDとバスケのユニフォーム姿でドリブルをしているアイコンが表示されている。暁人だ。DMを開くと、簡素な文字が並んでいた。
「たぶんアンプバイオだと思う」
由芽は、少し大袈裟に暁人を褒める言葉を返して、Instagramを親指で上に飛ばし、タスクキルする。
次に、すぐさまブラウザを呼び出し、検索窓の部分に「教えてもらった会社名」と、「日本支店」を入力した。
すると、600件以上の検索結果がヒットする。玲子が勤めている製薬会社は、思った以上に大企業のようだ。焦ることはない。少しずつ、玲子に近づいている実感が湧いてきた。
検索の方法を変え、「父の研究所の名前」と、「アンプバイオ」、「小鳥遊 玲子」と検索してみる。
すると、15件の結果がヒットした。由芽は自分の直感力に少し満足し、ニヤリと笑みを浮かべた。
五個目のサイトを開いた時に、ようやく求めていた情報が見つかる 。Webニュースサイトには、アンプバイオジャパンの小鳥遊玲子という名前が記され、声明文が添えられていた。さらに、その下には連絡先と支店名までがしっかりと記載されている。暁人を救うための道筋が、確実に形成されていることに気づいた由芽は、隔壁の中で音を立てずに笑った。凍るような胸の静かさの中で、玲子の嘲笑の影がひとひらだけ浮かび、全身に行き渡るように溶けていった。




