72.引きとめられた理由
メガネの奥の青みがかったグレーの瞳が、やけに印象的で。
犬の姿の時に、何度も見ていたはずなのに。なぜか、この時初めて真正面からその視線を受けたような気がしてしまった。
(……って、そうじゃなくて!)
驚きに固まっている場合ではない。
「あ、の……エ……」
危うく、エドワルド様? と名前を呼びそうになってしまって。
「……どうか、されましたか?」
内心慌てながらも、何とか言葉を絞り出す。
動揺も困惑も、この場面での私の反応としては間違っていなかったからこそ、変に疑われることもなかったけれど。
これが平時だった場合は、おそらく隠しきれていなかっただろう。
「君は……名前は?」
「アウローラ・パドアンと申します」
腕を掴んだまま、一向に離してくれる気配がないので。仕方がなく、そのままの体制で小さくお辞儀だけしてみる。
本来ならば、しっかりとしたご挨拶をしなければいけない場面のはずが。
(これじゃあ、無理です)
宰相閣下から名前を聞かれているというのに、まともな挨拶一つできないままというのは。現実的に考えれば、かなり問題がある。
とはいえ、その原因を作っているのが宰相様ご本人なので、どうしようもない。
(というか、どうして掴まれたままなんですかね)
とは、口に出せない疑問。
そもそも、どうして急にこちらに興味を持ったのかすら、謎なのだから。
先ほど、明らかに私の目の前を通り過ぎていたし。その際には、特に何も声を掛けられなかったのに。
(謎すぎます、エドワルド様……!)
名前を答えた私を、じっと見つめてくるだけの姿に。どこか居心地の悪さを覚えて、身じろぎすると。
「逃げる気か?」
なぜか少し怖い顔をして、低い声でそう問いかけてくるエドワルド様。
腕を掴む力も、心なしか強くなった気がする。
「い、いいえ、まさか。逃げ出す理由がございません」
というかむしろ、引きとめられた理由を私のほうが知りたい。
なぜ今、こんな状況になっているのか。
(ディーノさんだって驚きすぎて、後ろで開いた口が塞がらなくなってますよ?)
エドワルド様の肩越しに、ちらりと目を向ければ。口だけではなく、目も大きく見開いているディーノさんの姿。
両手に持つ書類を落としていないことだけが、唯一の救いだったのかもしれないし。逆に落としていれば、その音で我に返っていたのかもしれない。
(どっちにしても、可哀想に)
主の突然の奇行に、何の対処もできないまま立ち尽くすという事実を、おそらく後に何度も思い出しては。そのたびに、反省するのだろう。
ただ、今はそんなことよりも。
(いい加減、何か喋ってくれませんかね!?)
何となく、目を合わせづらくて。どうすればいいのかと、戸惑う私に。
「なぜ」
ようやく口を開いたエドワルド様は、私に顔を近付けてきて。
「なぜ、君は……」
そのまま肩に頭を乗せたかと思うと。
「……え?」
まるで倒れ込むかのように、こちらにゆっくりと体重をかけてくる。
(って! ちょっと待って!)
おかしいと気付いた時には、すでに遅かった。
どうやら、本当に倒れ込んできてしまっていたらしいエドワルド様は、とっくに意識を失っていて。
その重みで、倒れそうになる寸前。
「たっ、助けてくださいっ……!」
切羽詰まったような私の声と、必死の形相。そして何より、伸ばした手に。ようやく、ディーノさんが異常事態に気付いてくれて。
「エドワルド様!?」
動き出すのと同時に、エドワルド様の肩をしっかりと掴んでくれたから。私も何とか、倒れ込まずに済んだけれど。
あと一歩遅ければ、成人男性の体重を支えきれないまま、エドワルド様の下敷きになっていたことだろう。
考えると恐ろしすぎるので、ディーノさんには感謝しなければと心から思うのだった。
 




