71.逆戻り
(あ、そっか)
ここまでしてから、頭だけを下げるよりも、腰も曲げておいたほうがよいのではないかと思い至る。
本来であれば、そこまでの必要はないのかもしれないけれど。私は先ほどの打ち合わせで、相手が宰相閣下だと知っているわけだから。
この場では深い敬意を表しておいたほうが、より印象もいいだろうし。何より、私はまだデビュー前の令嬢。関係性だけで言えば、妥当なはずだ。
(さて、どうかな?)
通り過ぎるまでは、決して顔を上げず。軽く目を伏せて、目線の先に見知った靴が映るのを、じっと見守る。
さすがに人がいる前で、詳細を話すわけにはいかないだろうから。二人とも、無言ではあるけれど。
(……やっぱりちょっとだけ、寂しい、かも)
少し前まで、あんなにも近い距離で接していたから。この状況でそう思ってしまうのも、仕方がないことなのかもしれない。
とはいえ、今の私はエドワルド様たちからすれば、見ず知らずの令嬢。声すらかけられないのも、当然のこと。
それよりも。
(私じゃなくて、今はエドワルド様のこと)
靴の位置から推測して、通り過ぎる直前に、そっと視線だけで見上げたその表情は。一瞬、何でもないように見えたけれど。
(違う)
本当に体調がいい時と、そうでない時の差を、私はよく知っているから。
少なくとも、私が元のこの姿に戻る直前までは、もっとしっかりと血の通った顔色をしていたはず。
(また、ちょっと青白くなってる……)
それに、何より。
(目の下にも、うっすらとだけどクマができてた)
つまり、眠れない日常に逆戻りしてしまっているということ。
先ほどの説明時には、遠かったのもあってよく分からなかったけれど。ここまで近付いてしまえば、しっかりとそれが見て取れる。
それなのに、そんな様子は一切見せずに、大勢の人の前に立って。そして今も、何事もないかのように目の前を通り過ぎていって。
(……ごめんなさい)
エドワルド様が睡眠不足に陥っているのは、私のせいではない。それは、分かっているけれど。
少なくとも私が犬の姿のままでいれば、つらい思いはさせずに済んだのも事実。
結局、根本的な解決法を見つけられないまま。あの日、窓の外の魔女の姿に思わず飛びついてしまったことを、初めて深く後悔した。
同時に私がどんなに後悔したところで、今この現実も人の姿に戻ったという事実も、何一つ変わらないことも分かっていて。
(もしかして、あの瞬間……)
森の魔女は、どちらか片方を選べと言いたかったのだろうか?
そんなことが一瞬、頭を過ったけれど。森の魔女はあの時、ひと言も言葉を発したりはしていなかった。
となれば。
(やっぱり単純に、時間切れだった?)
オットリーニ伯爵邸に戻った時にはすでに用意されていた、私のデビュタント用のドレスたち。そのどれもが、私の好みそのままだったから。
初めから、期限つきの嫌がらせだった可能性も、やはり否定できないのかもしれない。
(それこそ、意味が分からないけど)
ただ、その答え合わせのためだけにもう一度森の魔女に会いに行くことだけは、したくなかった。
それに、魔女の介入がなければ。今のこの状況は、おかしなところなど一つもないのだから。
(そう、だよね)
貧乏子爵家の令嬢にとって、公爵様であり宰相様であるエドワルド様は、雲の上の存在。本来であれば、関わり合いになることなど一切なかった。
そう考えれば、とっても自然なことで。
(少なくとも、大型犬を抱き枕にすれば安眠が得られるかもしれないわけだし)
その可能性を示唆することができただけでも、十分ではないか。
そう思うのと同時に、自分に言い聞かせることで。寂しさと悲しさと申し訳なさを伴って、胸の奥を締め付けてくるようなこの痛みに、しっかりと蓋をして。
(……帰ろう)
私の目の前を通り過ぎて、数歩先に行っている二人に背を向け。元来た道へと、一歩足を踏み出した。
その瞬間。
「待ってくれ!!」
掴まれた腕に、慌てて振り返れば。
今まで見たこともないほど必死な顔をしたエドワルド様が、真っ直ぐにこちらを見ていた。




