63.どっちが、夢?
ゆっくりと瞼を持ち上げて、状況を理解するよりも前に、まず思ったことは。
(……夢か)
考えてみれば、森の魔女がわざわざ私に会いに来るなんて、あり得ないことだから。
つまりあれは私の願望が作り出した、ただの夢。
そう結論づけて、ため息をつきながら起き上がって。
ふと、気付く。
(あれ? 今日はエドワルド様、もう出掛けちゃった?)
普段であれば、朝までしっかりと抱き枕にされているから。
夢に夢中になりすぎて、寝過ごしてしまったのかと振り返った、その瞬間。
目の端に映ったのは、プラチナブロンドの髪。
「…………え?」
そして口から出てきた言葉は、犬の鳴き声ではなく。人間の、戸惑いを含んだ声。
思わず体を見下ろせば、そこにあったのは白い夜着を纏った、女性の体で。
「っ……! うそっ……」
持ち上げた両手は、毛むくじゃらな犬の前足ではなく。ちゃんと、人間の手と腕。
口から漏れ出る言葉たちは、聞きなれた自分の声で、しっかりと意味を持った形をしていた。
「え、待って。じゃあ、もしかして……」
ようやく、元に戻ることができたのかと。喜びが溢れ出してしまいそうな口元を、必死に押さえて。
けれど次の瞬間、別の疑問が湧く。
「あれ? 待って。これって……どっちが、夢?」
今、この瞬間が夢なのか。それとも今までの、魔女に犬の姿に変えられてしまってからの出来事が夢なのか。
どちらが本当の現実なのか、分からなくなってしまって。完全に頭が混乱してしまう。
「そもそも、今日は何日?」
まずは、そこからだった。
私が覚えている範囲だけで話をするのであれば、社交界デビューまであと半年を切っている。
ただし、この場合は犬であったことが現実だったとするならば、であって。そうでなければ、まだ半年にすらなっていないかもしれない。
「でも、エドワルド様たちが私の夢の中の登場人物だとしたら……」
随分と、私の頭の中はしっかりとした設定を作ってくれたなと思うし。はたして、本当にそれが自分に可能なのかと、疑問が残る。
顔も声もハッキリと覚えているくらい、今までに一度も見たことのない人たちを作り出すなんて。そんな芸当、本当に可能なのだろうか?
それに、ソファーやベッドの感触に、美味しいごはんも。経験すらしたことのないものを、想像できるのか。
「……魔女に犬の姿にされることだって、私の頭じゃ想像できないんだけど」
そんな発想、どこから湧いてくるというのか。確実に、私には無理だ。
ただ、その場合。
「何も言わずに、置いてきちゃったってことに、なる?」
もちろん犬の姿で、何かを伝えることなど容易ではないのだけれど。
それでも、さよならすら告げずに飛び出してしまったような状況では。
「また、迷子犬認定されちゃうかも」
そう、苦笑してみるものの。
自分の中では、すでに結論が出ていた。
(だって、あり得ないから)
そう、あり得ない。
魔女に犬の姿にされるなんていうことも、都合よく公爵様に拾っていただくなんていうことも。
ましてや、その相手が宰相閣下だなんて。
そんな、都合のよすぎることが。
「私に、起きるはずがないよね」
きっと森に息抜きに行くことが楽しみすぎて、夢に見ただけ。
その先の出来事はきっと、今までしたことのない経験に気付かぬうちに疲れていた私の頭が勝手に見せた、不思議な夢。
だから。
「……存在、してないんだよね」
エドワルド様も、マッテオさんも、ディーノさんも。
フォルトゥナート公爵家は、もしかしたらどこかで名前だけ見たことがあるかもしれないけれど。
今まで会ってきたはずの人たちは全員、私の妄想が作り出しただけの人物たち。
実在なんて、していない。
「っ……」
それなのに、今も鮮明に思い出すのは。私の頭を優しく撫でてくれた、大きな手の感触。
自分の手を頭の上に置いたところで、同じではないし。そもそも、あの手が撫でてくれていたのは、人間のアウローラ・パドアンですらない。
どこから来たのかも分からない、迷子の大型犬。エリザベスと名付けられた、エドワルド様の飼い犬。
「それも、存在してないから……」
全てが、幻。
その現実に、胸が苦しくなって。
泣きたくなるのを必死にこらえて、しばらくの間ベッドの上で、膝を抱え込んでいた。




