60.私ではない
「おいで、エリザベス」
そう言って、部屋の中に置かれているソファーへと移動するエドワルド様。
私は言われた通り、そのあとを追って。ポンポンと示された隣に、素直に座る。
犬の姿なので、完全にソファーに乗り上げてしまっているけれど。こればっかりは許してほしい。
とはいえエドワルド様の指示だったので、咎める人もいないのだけれど。
「いい子だ」
嬉しそうなエドワルド様の髪は、入浴後だからかサラサラと動くたびに揺れて。首筋にかかる長めの襟足が、とても色っぽい。
最近は入浴後すぐに夕食だったので、この状態でメガネをかけたままのエドワルド様と対峙するのは、かなり久しぶりで。
(なんか、ちょっと新鮮な気分)
以前はそうでもなかったはずなのに、久々すぎて感覚が変わってしまっている。
「エリザベス、約束は覚えているか?」
「わふぅ?」
少しだけソワソワしている私の心情を、知ってか知らずか。エドワルド様が、唐突にそう問いかけてくるけれど。
いったい何の話をし始めたのか分からなくて、思わず首をかしげてしまう私に。
「入浴後に、私を癒してほしいと頼んだだろう?」
「わ、わふぅ……」
優しい笑顔でそう告げてくる姿が、初めて悪魔のようにも見えた。
ここで確認を取ってくるのが、ズルいとも思う。
「無茶な願いを言うつもりはない。ただ少しの間、お前を抱かせてくれ」
「わっ……!?」
久々に、人間の言葉を発したつもりになってしまったけれど。当然口から出てくるのは、犬の声でしかなくて。
(だ、抱かせてくれって……! そんな真っ直ぐに言う言葉だっけ!?)
もはや混乱の極みにある私になど、構うことなく。というよりも、私の状態になど気付くこともなく。
返事をするよりも先に、エドワルド様の手が伸びてきて。その腕の中に、しっかりと閉じ込められてしまった。
(なぁっ……!?)
眠る時は、先に自分に暗示をかけて覚悟もしているから、まだいいけれど。こんなにも急に抱きしめられるとは思っていなくて、思わず固まってしまう。
思考も完全に停止してしまって、もし今人間の姿だったら、きっと顔どころか体中全て真っ赤になっていただろう。
「これだけで、いい。しばらく、このままで」
その「これだけ」が、私にとっては大事なのだけれど。
エドワルド様からしてみれば、相手は犬。しかも、自分の飼い犬。
となれば、問題などないわけで。
(わ、わっ……私にとっては、問題しかないんですけどっ……!?)
これでも、嫁入り前の令嬢。いくらまだ相手がいないとはいえ、今後のことを考えるとあまりよろしくはない状況。
普段の添い寝もそうだけれど、これだってかなりの大問題だ。
そう、思う一方で。
「あぁ、エリザベス……。お前は本当に、あたたかい……」
エリザベスという名前が、私ではないことを明らかに示していて。
そのことが、私を冷静にさせる。
(……そうだ。今の私は、犬のエリザベス。貧乏子爵令嬢の、アウローラ・パドアンじゃあ、ない)
だから、問題ないのだと。いつものように、自分に言い聞かせる。
これは、恩返し。犬の姿の、エリザベスと名付けられた、別の存在。
冷静になった頭で、だから大丈夫なのだと。今後に影響することはないのだと、しっかりと結論付けて。
そうして……。
(これが、エドワルド様にとっての癒しになるのなら)
受け入れるのが、恩返しになるのだと。そう、信じて。
私はそっと、目を閉じた。
ほんの少しだけ、痛みと悲しみを覚えた胸の内に、気付かなかったフリをして。




