58.知らないことだらけ
そんな小手先の努力も虚しく、その瞬間は訪れてしまうのだけれど。
「エリザベス。今日は入浴後に、私を癒しておくれ」
「……わふぅ」
直接目を見て言われてしまえば、断れるわけがなく。
そもそも食事中だったならば、まだ聞いていなかったということで乗り切れたというのに。
エドワルド様はしっかりと、食事が終わった状態の私の名前を呼んでから、そうお願いしてくるのだから。
(最初から、断る選択肢が用意されてないんですけど……!)
とはいえ、今回に関しては私も他人事ではなく。むしろデビュタントの一人としては、大変お世話になっていることも事実で。
なのでそのお礼もかねて、ということで自分を納得させて。浴室へと向かうエドワルド様を見送ってから、私もお手入れをしてもらうために部屋を移動する。
普段は入浴と食事の順番が逆なので、この間に公爵家の仕事をしているみたいだけれど。今日ばかりは、それもお休みということで。
(さっき、マッテオさんがそう言ってたから)
私が通常時よりもゆっくりと食事をしている間に、そんな会話が交わされていた。
時間も遅いので、私もその提案には賛成ではあるけれど。
(だったら、早く寝てもらったほうがいいと思うんだけどなぁ)
癒しの時間よりも、睡眠時間のほうが大切じゃないんですかね?
そう、何度聞きたくなったことか。
人間の言葉が喋れないので、伝える術を一切持たないのが、本当に残念で仕方がない。
(癒し、ねぇ)
いったい、どんなことをさせられるというのか。
丹念に足の裏を拭かれ、丁寧にブラッシングをされながら。これから自分を待ち受ける現実に、思考は引っ張られてしまって。
食事の前までは、どうやって早く元の姿に戻ろうかと考えていたのに。そんなことはすっかり忘れて、今は目前に迫った問題しか見えていない。
人間というのは不思議なもので、問題の大きさよりも問題との距離や時間的余裕の有無のほうが、より優先されてしまうらしい。
(なんだかなぁ)
お手入れが完了して、エドワルド様の自室へと向かう道すがら。自分の簡単な思考に、少々呆れながらも。
心のどこかで、先の不安を考えすぎなくて済んでいることに安堵している自分も、確かに存在していることに気付いていた。
「あら?」
扉をノックして、しばらく待ってみたものの。返事がなかったことを不思議に思って、首をかしげている姿を見上げて。
ふと、私が思ったのは。
(そういえば、この人の名前知らないままだなぁ)
私につけてくれた、いつもの女性の使用人。
けれど彼女を紹介された時に、名前を教えてもらえず。ただ、今後は彼女が基本的に私のお世話をしてくれると、そう言われただけだったから。
(思ってた以上に、まだまだ知らないことだらけだ)
今さらすぎることに、ようやく気付いたけれど。ここまでそれで通ってしまっている以上、今後も私が彼女の名前を知る機会は訪れない気がする。
「失礼いたします」
一応もう一度、扉をノックして。それでも返事が返ってこなかった彼女は、そっと扉を開いて中へと踏み込む。
後ろからその姿を眺めていたら、部屋の中を見回して、再び首をかしげて。
「まだ、お戻りになっていなかったのかしら……」
そう、小さく呟いたあと。
「ごめんなさい。エドワルド様はまだもう少しかかるみたいだから、お部屋の中で待っていてくれるかしら?」
こちらを振り向いて、そう問いかけてくるから。
「わふん!」
元気に返事をしてみせれば、安心したような顔で笑ってくれた。
「ありがとう。本当に、賢い子ね」
「ふふんっ」
胸を張るようにしてみせれば、ふふっと小さく笑ってくれる姿に。やっぱりいつか、名前だけでも知りたいなと思ったけれど。
持ち場に戻るからと、部屋を出ていってしまった彼女の後ろ姿に。
(犬にわざわざ自己紹介なんてしないのが、普通だよねぇ)
そう結論づけた私は、同時にエドワルド様が名乗ってくれたことのほうが珍しいのだと、改めて気付いてしまって。
どこまでも真面目な人だなと、何だか一人おかしくなってしまって、小さく笑いが零れた。
相変わらず人の声ではなく、犬のため息のような声でしかなかったけれど。