19.仮の名前
「お前を保護して三日目になるが、飼い主だという人物は一向に名乗り出てこないな」
ほんのり甘い香りのする犬用ビスケットをもらって、上機嫌で撫でられていた私に。エドワルド様が、ふと思い出したかのようにそう口にした。
(まぁ、最初から飼い主なんて存在してないんで)
とは、口に出せないけれど。そもそも人の言葉を喋ることができないし。
ただ怪訝そうに眉をひそめる、その表情を見上げながら。その状態でも麗しいお顔をしているなと、どうでもいいことを考える。
パドアン子爵領にいる男性は、農作業をする人が多いから割と筋肉質だったけれど。エドワルド様はどちらかというと、線の細い中性的なお顔立ち。
青みがかったグレーの瞳も、この国では割と珍しい部類だろうから。見た目に地位も合わさって、実はものすごくおモテになるんじゃないだろうか?
(年齢は分からないけど、まだ結婚はしてないみたいだし……)
となると、宰相と公爵としての仕事が忙しくて、婚約者とまともに会えていない、とか?
(だとしたら、お相手の女性が可哀想だなぁ。エドワルド様もだけど)
貴族の女性にとって、結婚というのはとても大切なことだから。
将来を共にするはずのお相手に、長い間会えないというのは。田舎領地の婚約者同士でない限りは、下手すれば噂の的になってしまう。
そうじゃなくても、心変わりに怯えて過ごすことになるだろうし。
(まぁ、エドワルド様はそんなことなさそうだけど)
これだけ仕事に真面目に取り組む人が、婚約者に対しても真面目でないはずがない。
そもそも犬に対しても、こんなにも紳士的な態度なのだから。相手が婚約者ともなれば、きっとこれ以上の対応なのだろう。
(……ちょっと、見てみたいかも)
エドワルド様が、どんな風に婚約者に対して接するのか。
普段通りなのか、それとも常に笑顔なのか。
(好きすぎてデレデレになってたら、それはそれで面白いし)
なんて、目の前の人物の恋愛事情を勝手に想像して楽しんでいた私の耳に。
「さすがに名無しのままでは、不便なことが増えるのではありませんか?」
「そうだな」
ディーノさんとエドワルド様の会話が飛び込んでくる。
「遊びの際もですが、今後は躾に関しても必要になるかもしれません。その場合に名がなければ、我々もどう呼ぶべきか迷ってしまいますから」
「仮の名でも付けるか?」
「それがよろしいかと存じます」
ここで会話ができれば、アウローラですと名乗り出ることができるのだけれど。
残念ながら、今の私にそれは不可能だった。
「名付けなど、今までしたことがないからな」
「仮の名前ですので、そこまで慎重にならずともよろしいかと」
少しだけ苦笑しているディーノさんとは対照的に、エドワルド様は真っ直ぐに私を見て、真剣な眼差しを向けてくる。
その姿だけで、次にエドワルド様がどういう内容の言葉を口にするのか、想像できてしまって。
「仮とはいえ、名は名だろう。そのものを表すための、大切なものだ。軽い気持ちでは付けられない」
予想通りすぎる、その真面目さに。思わずふふっと笑ってしまった私の頭を、エドワルド様がその大きな手でひと撫でしていく。
まだ三日しか一緒にいないけれど、何事にも真っ直ぐなんだろうなということだけは、そんな私でも分かってしまっているから。
(まぁ、ニックネームのようなものだと思って、受け入れておこうかな)
そんな風に考えていた私の、犬としての仮の名が決まったのは。
部屋を移動して、私も夕食を済ませて、エドワルド様が食後のティータイムを楽しんでいた時だった。
思った以上に長い時間考えてくれていたことを、感謝すべきなのか。それとも考えすぎだと、呆れるべきなのか。
もはや私自身、よく分からなくなってしまうくらいの時間を要して、紡がれた名前は。
「エリザベス、でどうだろうか?」
なぜ? と聞き返すこともできない私には、答えようがなかった。




