100.手の甲に
「エドワルド様。お気持ちは理解できますが、ご令嬢相手にそのような行為は、さすがに度が過ぎているかと」
「……あ」
そんな中、冷静に言葉を発したのはマッテオさん。
エドワルド様も、言われてこの状況に初めて気付いたのか。珍しく、抜けたような声でひと言だけ小さく呟いていた。
その様子に、仕事のできる家令はやっぱり一味違うなと感心する一方で。
「すまない、その……。あぁ、いや、違うな。申し訳ありません。つい、取り乱してしまいました」
色々と混乱してしまっているらしいエドワルド様が、私から離れていきながら、かける言葉も言い直していて。
それを、寂しいと思ってしまった私は、つい。
「普段通りで、構いませんから」
何も考えずに、そう口にしてしまっていた。
けれど実際、私にどう接すればいいのか分からなくなっているような気もするので、それならばいっそ慣れ親しんだほうでいいと思うし。
(そもそも、私はそのほうが嬉しい)
犬の姿の時と、全てが同じであってほしいなどとは思わない。それはそうだろう。私はちゃんとした、人間なのだから。
でもエドワルド様が無理をする必要も、やっぱりないほうがいいと思うから。
私自身もそれを望んでいるからこそ、楽な喋り方でいいと。そんなことを考えながら、真っ直ぐに見上げた先で。
「それは……エリザベスに対する時のように?」
少しだけ驚いたような表情でこちらを見下ろしている、青みがかったグレーの瞳と視線が絡む。
その視線を断ち切らないように、小さく頭を縦に振って頷けば。今度は泣きそうな顔で、エドワルド様が笑った。
「ありがとう……」
そのまま、そっと手を握られて。
そこでようやく、私は気付く。離れていこうとしていたはずのエドワルド様の服の裾を、無意識に掴んでしまっていたことに。
(あれ!? いつの間に!?)
自分の行動に驚いていると、目の前でゆっくりと持ち上げられる私の手。
そのことに対して何も考えず、警戒すらせず、ただ動きだけを目で追っていた私は、完全に気付くのが遅れてしまった。
「お帰り。私の愛しいエリザベス」
言葉通り、それはそれは愛おしそうな声で呟いたエドワルド様が、私の手の甲にキスをして。そのまま、その手に頬ずりするような仕草をしながら、こちらに微笑みかけてきたところで。
「……ッ!?」
ようやく、何が起きたのかを理解するのと同時に。顔どころか体中が熱くなるのを感じていた。
(なっ……なっ……!?)
今までにないほどの混乱に、私の頭は一切機能してくれなくて。
言葉すら発することもできないまま、いったい何事かと空気を求める魚のように、口を開いては閉じるを繰り返しているだけ。
「正体が貴族令嬢だったのならば、あれだけ賢かったのも頷ける」
それなのに、そんな私の様子に一切気付いていないのか、それとも気付いていて触れてこないのかは分からないけれど。
「これでようやく、捜索は終了だな。マッテオ」
「かしこまりました」
完全に一人置き去りにされたまま、会話は進められていく。
そしてなぜか、名前を呼ばれただけで全てを理解するという謎の能力のようなものを持っているマッテオさんは、そのまま部屋の外にいる誰かに声を掛けに行って、またすぐに戻ってきた。
「夜までには、屋敷の者たち全員への伝達が完了いたします」
「そうか。ご苦労」
もはや何が起こっているのか、あっちもこっちも理解できないまま。
ただ首をかしげるだけになってしまった私の手を、エドワルド様はまだ掴んだまま、今度はこちらに向き直って。
「さて、色々と聞きたいことはあるが……。その前に、まずは場所を移動しよう」
ニッコリと笑いかけてきたかと思えば、私の腰に手を添えて、どこかへ歩き出してしまうから。
「……え? えっ?」
何一つ理解が追いついていない私は、そのままエドワルド様の自室を連れ出されてしまうのだった。




