被害者
ガシャン、ガシャンッ!
懺悔室に大きな音が響いていた。
「実名出すこと無いじゃない!」
声を荒げた女が、両拳で黒テーブルを叩いている。
「犯人なんか捕まらなくても良いから、私を見付けて欲しくなかったっ」
大きな音が響くたびに小さく肩を跳ね上げながら、
「あなたを殺した人が、罪に問われなくても良いんですか」
と、角無し鬼は聞いた。
女は黒テーブルを見据えたまま、
「あたしはバイトしかしてない、独り身の女よ。死にたかった訳じゃないけど、そんなことより殺されて埋められたことをひけらかされたのが嫌なの!」
そう言ってもう一度、黒テーブルをガシャンと叩いた。
角無し鬼はなにより、黒テーブルを心配していた。気を昂らせたままやって来た女は、癇癪を起したように黒テーブルを叩き続けているのだ。
「もうっ、なんなのよっ!」
ティーポットとソーサーに乗せたカップが、ガシャガシャと割れそうな音を立てている。
振動でズレていくソーサーを、角無し鬼は大袈裟な素振りで女の前に戻してみた。
手も痛くなっただろう。女は深い溜息を吐き出し、ティーカップを手にした。
紅茶をひと口飲み、
「逃げた殺人犯の実名を公表するのは良いわよ。危ないから気を付けろとか、こういう事件があって情報提供してくれとかでしょ? でも、被害者の名前を出す意味がわからないわ」
と、女は話した。
「そうですね。僕も不思議でした」
「ネタが盛り上がればいいの。死んだ者は構わないってことなのよ」
と、女は言う。
「そうなんですか? 訃報を知らせて、お葬式に招くためかと」
と、角無し鬼が言うと、
「ニュース見る人の何割が知り合い? テレビやネットのニュースに流されたのよ。あたし、そんなに有名人じゃないわ」
と、女に睨まれ、角無し鬼は身をすくめた。角無し鬼もティーカップに目をやり、
「えっと、確かに変ですね」
と、カップを手にして紅茶を飲んだ。
女はティーカップを持ったまま、ソーサーに描かれたスズランの花を見詰めている。角無し鬼も少々顔を伏せて、女の視線の先にあるスズランを見ていた。
「あたしのことも事件のことも知らないで、あたしの名前くらいしか知らないような連中に、とやかく言われるのが嫌だったのよ」
暗く低い声で、女は言った。
「そうでしたか」
優しく落ち着きのある声で、角無し鬼は答える。
しかし、女は再び顔を歪め、
「バイト先のやつら、ニュース見て大騒ぎして。『レイプ殺人?』なんて言った女が居るのよ。犯されてないっつうの!」
と、声を荒くして、女は持っていたティーカップを投げ付けた。カップは身を縮める角無し鬼の横を通り、冥界側の壁に当たって砕け散ってしまった。
「あ、あのっ……」
砕けたカップや背後の壁を見てあわあわする角無し鬼に、女は、
「やだ、ごめんなさい」
と、うつむきながら両手を膝に置いた。
「あなたに当たっても仕方ないわね」
小さく息を吐き、深呼吸を繰り返した。はーっと息を吐き出して、
「不思議。大声を出すとスッキリするって、本当なのね」
と、女は初めて薄い笑みを見せた。
疲れたような笑顔だが、落ち着いた女の顔は結構な美人だった。
「誰かに言いたかっただけなのよ。ごめんなさいね」
「いいえ。この部屋は、そのための場所ですから」
「あぁ、そうだったのね。スッキリしたわ。八つ当たりする人が見付からなくて、あたしは成仏出来なかったのね」
「僕の後ろの扉に、進めそうですか?」
と、角無し鬼は聞いてみた。
女は角無し鬼の頭越しに冥界側の扉を眺め、
「さっきは、扉にも見えないくらい小さかったけど、今はちゃんとした出口に見えるわ」
と、答えた。
「良かったです」
角無し鬼が笑顔を見せると、女は角無し鬼の翡翠色の肌や苔色の髪に目を向けた。
「あなた、他殺被害者担当の人?」
と、女に聞かれ、角無し鬼は小さく首を傾げてから、
「いえ、特別に他殺担当という訳でもなく、未練をもった死者全般の担当です」
と、答えた。
「あぁ、そうなのね。私の死因とか、ちゃんとわかるのよね?」
微かに不安げな笑みを見せる女に、
「はい、ありのままがわかります。報道や噂話がどうあれ、僕たちのような『人の死後』に関わる者はみんな、ありのままの状況がわかりますからご安心下さい」
と、角無し鬼は話した。
「そうよね。良かった」
胸を撫で下ろして見せ、女は立ち上がった。角無し鬼も見送りに立ち上がる。
壁の手前に散らばるティーカップの破片は気にならない様子で、女は角無し鬼に軽く会釈した。
「どうもありがとう。スッキリしたわ」
「お気を付けて」
白い空間へ歩き出した女を見送り、角無し鬼は扉を閉めた。
冥界側の扉を離れ、角無し鬼はすぐにカップの破片が散らばる床に屈み込んだ。
「カップは、直せる」
割れたカップの破片を集めると、角無し鬼の手の中でカップは元の姿に戻っていた。
大切そうにカップを撫でながら自分のソファへ戻る。角無し鬼はカップを置き、黒テーブルを撫でた。
「大丈夫? ひびなんか入ってないよね」
黒テーブルは直りたてのカップを消して見せたが、角無し鬼は安心できない様子だ。身を乗り出して叩かれた場所を見詰めながら、
「黒テーブル壊れたことないから、もし直せなかったら困ってしまうよ」
と、ピカピカの板面を撫でている。
困り顔の角無し鬼の目の前に、懺悔日誌と羽筆が現れた。
角無し鬼はふっと笑みを漏らし、
「わかったよ」
と、日誌を手にしてソファへ座った。
「被害者の名前かぁ……」
懺悔日誌を開き、羽筆を揺らす。
「何歳の女性とか、たまたま通りすがった通行人って言うんじゃだめなのかな。関係のない人たちに実名を見せる理由は……うーん――」
首を傾げる角無し鬼に合わせて、羽筆もふわりと傾げて見せる。
「前に、報道されなかったのを残念がっていた死者がいたね。あの人は被害の主張をしたかったんだ。人間て色々だから……わからないね。僕なんか人間の雑誌を読んでも、どうしてその事件を載せているのかも、わからないくらいだもの」
横壁を見ると、事典ではなく雑誌を並べた書棚が現れていた。しかし角無し鬼は雑誌を見ようとはせず、懺悔日誌に目を戻す。
「彼女は嫌だったんだね。自分を知る人たちに、通り魔に殺されて土に埋められたことを知られてしまったこと。いや、知られたことよりも、事件の真相もわからずに興味本位で盛り上がられてしまったことが嫌だったんだ。彼女にとっては、それこそが被害だった。ここで被害を主張したことで、少し軽くなって逝けたんだ」
角無し鬼が小さく頷くと羽筆はさらさらっと文字を書き終え、懺悔日誌はひとりでに閉じられた。
「僕だったら、どうかなぁ」
と、角無し鬼は考えてみる。
懺悔日誌と羽筆の姿が見えなくなり、直したばかりのスズランのティーセットが現れた。
カップを手に取り、熱い紅茶に唇をつけながら角無し鬼は首を傾げていた。