疑心暗鬼がささやいても
ゼビディは、いつも愛想笑いばかりうかべているような男です。
仕事場の仲間や、それなりに話せる友人はいましたが、常に彼らの顔色をうかがっているような感じでした。
それでいて自分では、自分自身を『人の話をよく聞き、周りと合わせられる分別のある人間』だと考えていたのです。
ところがここ最近、ゼビディは他人が自分の事ををどう思っているかがやたらと気になるようになりました。
さっきのあいつのちょっとした仕草は、自分に対してうんざりしているから出たものではないのか。
この前ほめられたような気がしたけど、それには何か含みがあったのではないか。
そんな事ばかり気にするようになりました。
仕事場で失敗を指摘されると、ふだんから自分を良く思っていないからこそ、こんなに強く注意してくるんだろうなと感じてしまいます。
逆にほめられると、無理してほめているんだろうなと考えてしまいます。
一度気になりだすと、なかなかそれが止まりません。
しかし、相手に直接聞く訳にもいきませんし、ゼビディにそんな勇気はありませんでした。
そんなある時、仕事終わりに仲間と雑談をしていると、お調子者のマークがいつものように他愛もない自慢話を始めました。
ゼビディはいつものように愛想笑いをうかべながら話を聞いていましたが、マークがおもむろに彼の方を向いて言いました。
「悪かったな。いつも大人しいお前さんには理解できない話だよな?」
ゼビディはその言葉に自分の事をひどく傷つけられたような気がして、頭が真っ白になりました。
マークも、それ以外の人間も、今までずっと自分の事を『何を考えているか分からない、すっからかんな人間』として扱ってきていたかのように思えてしまったのです。
思い返してみると、今までの他人の自分に対する行動全てがそうであったかのように思われました。
居ても立っても居られなくなったゼビディは、足早にその場を後にしました。
部屋に戻ってから、自分のした行動におののいたゼビディでしたが、もう時間を戻すことは出来ません。
明日から一体どのような顔をして仕事場に行けばいいのでしょうか。
自分の事を分別のある人間だと思っていましたが、そう思っているのは本当に自分だけでした。
きっと今までも他人からは『頭の足りない奴』だと思われていたのだろうし、さっきあのような行動を取った事で、周りの人間はなおさらそのように思った事でしょう。
「おい」
途方に暮れていた所に何者かが話しかけてきたので、ゼビディは思わず誰だ、と声を上げました。
「どこを見ている? ここだよ、ここ。お前の左肩の上だよ」
声に言われるがままに左肩を見ると、小人のようなものが自分の肩の上に乗っているのが分かりました。
正確に言うと、それは小人ではありませんでした。
真っ赤な身体に、頭から生えた2本の角。
口からはするどいキバがはみ出しています。
そんな恐ろしい姿をした、小指ほどの大きさの生き物が立っていました。
「ひいっ!?」
情けない声を上げるゼビディの様子を見て、小鬼は笑いました。
「はっはっ、みっともない声を上げるな。別にお前に害をなすつもりはないぞ?」
「お前は何だ? 悪魔か鬼の類いか!?」
手で払い飛ばそうとしても、なぜか手をすり抜けてしまいます。
小鬼はゼビディを見すえて言います。
「鬼、か。そうだな、ひとまず『疑心暗鬼』とでも名乗っておこうか?」
「疑心暗鬼……? それがお前の名前なのか?」
「名前、というか性質と言った方が正しいだろうな。俺はお前の心から生まれた。いいや、お前の心そのものと言ってもいい」
「何を言っているんだ!? そんな訳がないだろう! 僕の心の中に、お前みたいな不気味な奴がいる訳がない!」
再び自分の事を払いのけようとするゼビディの手をよける仕草をしながら、小鬼は続けます。
「ほら。そうやってお前は俺の事をずっと見て見ぬふりしてきた。しかし、いつまでも自分の心に背き続けることは出来ない。だからお前はさっきみたいな行動を起こしたのだろう?」
「えっ……?」
ゼビディの手が止まります。
「さっきの頭のおかしい行動を、僕自身が望んでいただって!? そんな訳ないだろう! お前が僕に何か悪いことをしたんじゃないのか?」
動きを止めたゼビディを、小鬼はあきれ顔でながめています。
「お前は人に合わせる事に注意を払いすぎた。他人の声に耳を傾け、他人に合わせた表情を作り続けるうちに、自分の心の声すら聞けなくなっていたじゃないか」
「心の、声……?」
「お前はここ最近、ずっと他人の事が気になっていただろう? 本当はこうじゃないかと人を疑う事も多かった。それが全て、お前の心の素直な働きによるものなんだよ」
「そんな事言ったって、自分の心の声なんて聞いたら、ろくな事にならないじゃないか。お前みたいなのの言うとおりにしろって言うのか?」
「全く、強情な奴だな」
大あくびをしてから、小鬼はゼビディをさとしました。
「お前の周りの人間を見てみろ。そいつらはお前に合わせようとしているか? お前に注意を払っているか?」
「それは……」
ゼビディは言いよどみます。
「だろう? 誰もお前のために心を押し殺したりなどはしない。なのにお前だけは周りに合わせるために心の声を押し殺し続けている。おかしいとは思わないか? なぜお前は自分がそんな事をする義務があると頑なに信じているんだ?」
「それは、自分は面白い話も苦手だし、周りをしらけさせる位なら黙って合わせる方がずっといいと思っているし、何よりそういう風にする事こそが分別ある態度だと思っているから……」
「だが、それが今日限界に達した。そういう事だろう?」
小鬼の言葉に、ゼビディは言い返すことが出来ませんでした。
「バカが。何が分別ある態度だ。心の声を無視して、愛想笑いをうかべ続けて何になる。なぜ心のままに生きようとしない?」
「……しかし、心のままに生きろと言われても、何をすればいいのやら……」
声をしぼり出すようにして答えたゼビディに対して、小鬼はこう言いました。
「愛想笑いをやめろ。人に合わせるな。他人はお前の思っている通り、心の中でお前をぞんざいに扱っている。だったらそんな連中の事などどうでもいいだろうが」
「そんな事を……?」
「お前をののしる奴はののしり返せ。殊更に心配するふりをする奴もののしってやれ。お前が誰からも好かれていないのは自分が一番よく知っているだろう。ならばなぜお前は平身低頭して相手の顔色をうかがう必要がある? 相手に嫌われてこちらも相手を嫌う方が、はるかにお前の心のためだろうが」
そんな具合に、好き勝手を言い終わると、小鬼はたちどころに消えてしまいました。
さっきのは一体何だったのか。
あの小鬼の言葉は真実なのか。
そんな事を考えながら、ゼビディは眠れない夜を過ごしていました。
自分の心の自然な働きとして、他人を疑っているのは確かなのかもしれません。
それなのに他人に合わせようとするのだから、苦しくなるのも当たり前の事なのでしょう。
だから今日、愛想笑いを続けることが出来なくなってしまったのです。
だからといって、小鬼の言葉通りにすることは本当に正しいのか。
あるがままの心で、他人の心の中を勘ぐったり、他人など構うものかという態度で生きてもいいものなのか。
そうする事でしか、自分の心を守る事は出来ないのだろうか。
そんな事を、ゼビディは延々と考えていました。
その時、部屋の壁にしつらえられた棚が急に外れて、上に乗っていたものが床に散乱しました。
ゼビディはベッドから起き上がり、うんざりした様子で床を片付けました。
棚を直すのは今度にして、とりあえず散らかったものを一つ所にまとめます。
そんな風にしている時、一冊の日記に目が留まりました。
棚の上に置きっぱなしにしていた、数年前の日記です。
何となく気になって、適当に日記のページをめくったところ、ある言葉が目に飛びこんできました。
『実際の心のありようとは関係なく、その人の行動によってどのような心の持ち主なのかという評価が下される。どれだけ美しい心の持ち主だとしても、行動に表さなくては無意味である。逆に、ひねくれた心の持ち主だとしても、正しい行動を心がければ善い心の持ち主だと評価される』
何かの本から書き写したものなのか、それとも当時の自分が考えて書いたものなのかは分かりませんでした。
しかし、ゼビディにはなぜかこの言葉が印象に残りました。
急いでメモを取り出し、この言葉を書き写して、仕事場に着ていく服のポケットに忍ばせました。
その作業を終えると、再びベッドの中に潜りこみました。
仕事場に着く前に、ゼビディはもう一度メモを見返しました。
周りの人間と軽くあいさつを交わし、いつも通りに仕事に取りかかります。
午前中は、特に変わったことはありませんでした。
ただ、周りの人間が自分の事をそれとなく避けているという事は、ゼビディにはよく分かりました。
昼休憩の時に、ある男がゼビディに話しかけてきました。
たまに話したりすることがある程度の付き合いの、ロイという男です。
昨日、ゼビディがマーク達の前から立ち去ったのを見ていた人物でもあります。
ゼビディは、少しだけ身構えました。
自分を笑いものにするつもりなのだろうか。
そうでなくても、自分の行動について何らかの意地の悪い指摘をするかもしれない。
ロイも自分の事を『足りない奴』だと思っているのだろうか。
ゼビディの頭の中にそんな考えがよぎりますが、心は平静を保てています。
ロイはそうした想像とは異なる言葉をかけました。
昨日の事があったから、お前の様子を心配していた。
あそこでマークをたしなめなかった自分にも非があった、というような事でした。
「そら、始まったぞ!」
突然、ゼビディの左肩に昨日の小鬼が現れました。
「言ったよな!? この手合いは心配しているふりをしているが、腹の底ではお前の事を笑いものにしているんだ! 分かるよな!?」
「……」
ゼビディは、小鬼には目もくれません。
「お前の心の声に従うんだ! こんな奴のおためごかしを真に受けるんじゃない!」
「……」
ゼビディ自身も、小鬼の言っていることはよく分かりました。
しかし、彼の心のありようは、昨日とは違っていました。
「いいや、あれは僕が悪かった。きちんと言葉で自分の思いを伝える事が出来なくて、あんな行動を取ってしまったことを恥ずかしく思っている」
そう言って、笑顔をうかべました。
小鬼はあきれ果てた顔で見ています。
「お前がどういうつもりであんな事をしたのか、全く理解できないね」
仕事帰りに、小鬼がゼビディの左肩の上でぶつくさと小言をもらしていました。
「お前の心を守ってやれるのはお前しかいないんだぞ? お前が心のありようのままに動かなくてどうするんだ?」
「心に従うだけが、必ずしも正しいとは限らないんだよ。きっと」
さっきよりもすっきりした様子の顔で、ゼビディが答えました。
「確かに僕は、心の底では他人を疑ってばかりだ。心と反する愛想笑いもしょっちゅうしている。だけど、行動は行動、心は心だ。ただ心のままに生きるんじゃ、いつまで経っても何も変わらない」
「ケッ、それが出来なかったから俺が出て来てやったんだろうが」
小鬼はとても不愉快そうな顔をしています。
「確かに僕は間違っていた。自分の心を見て見ぬふりして、ただ人に合わせる事が分別ある態度だと思っていた。行動ありきで心をぞんざいに扱ったから、そのせいで苦しくなった。だけどこれからは違う」
「ほう、何が違うんだ?」
「自分の心のありようは目をそらさずにちゃんと見るようにする。それはそれとして、どんな行動が望ましいかは自分で決めていく。だから自分の心のありようを見て見ぬふりしたり、心の声を無視したりなんてしない」
小鬼はあきれ顔で、ゼビディの横顔を見ていました。
「覚えておけよ。またお前のせいでお前の心がつぶされそうになったら、俺は何度でも出て来てやるからな」
「そうならないように気を付けるよ。でも、君が来てくれたおかげで、僕は自分と向き合う事が出来た。そういう意味では感謝しているよ」
「ケッ、言ってろ」
左肩の小鬼が消えた後、ゼビディは部屋に向かって歩き出しました。
ただ愛想笑いをするのではなく、自分の心と向き合いながらも望ましい行動を選び取る。
それは決して簡単な事ではないですが、今日から自分の行動を変えていけるはずだという確信がゼビディの足取りを軽いものにしていました。




