その4
父が去ってしばらくしてから、私は二人分の食器を片付けた。おかわりを求めていたはずの空腹は不思議と満ちてきていたが、ふと思いついて父が残した分を含んでみたところ、一口で吐き出したくなるほど食欲が落ちた。溶けない氷のように冷え切っていたからでも、ましてや父の食べ残しだからでもない。知るはずのない母の味付けを知り、そこに忌まわしいものを感じ取ってしまったからだ。
父が最後に残した疑問は私の表面近いところにも蟠っていた。なんでお母さんは死んでしまったのだろう。どうして私みたいに死なないでいられなかったんだろう。私のほうこそ知りたいぐらいだ。自殺の原因はもちろんのこと、これまで全て失敗してきた私と異なり、一回きりとはいえ成功した理由を知りたい。
でもそれ以上に知りたいことは、私のことだった。私に似ているお母さんにできて、お母さんに似ている私にできないのは、なぜなのだろうか。家事を済ませ日課をこなし余暇を過ごしながらも、私の思考はいささかも踏み外すことなくその軌道を周回していた。どうして私は死ねずにいたんだろう。あんなにも死にたかった未来を、どうして私は今も生きているのだろう。どうして私は胡蝶くんのお兄さんや、私のお母さんみたいに、死ぬことができなかったのだろう。
呪われた名前だから? 真面目にそんなこと思ってるわけじゃない。お母さんの齢を越えていなかったから? 胡蝶くんじゃあるまいしああ言ったお父さんだって本気でそう思ってるわけじゃないだろう。
私とて、死ぬことができたお母さんを羨むわけじゃない。胡蝶くんと一緒に生きると決めた後では、死ねなくてよかったとさえ思っている。ただ不思議なだけ。
お母さん、あなたはどうして死ぬことができたの?
胡蝶くんのお兄さん、あなたはどうして死ぬことができたの?
ねえみんな、あなたたちはどうして死ぬことができたの?
虚空に問いかけたり、そこに生前の姿を浮かべたりしたところで、先達からの答えはない。遺影や墓前、ましてや亡骸に尋ねたとて、同じことだろう。
だから私は私に問うことにした。
折しものぼせるほど浸かった湯船から出た後で、体ごと浮かび上がっていくような頭が冷めやらぬときだった。洗面台の鏡面に映る私が、私と同じように全身を拭いながら、私に問いかけてくる。
「ねえキスツス、あなたはどうして死ぬことができなかったの?」
おとぎ話に出てくる魔法の鏡でもあるまいに、答えてなどくれるわけもないだろうと自嘲気味に笑ったときに、ふと違和感を覚えた。程なくその正体に気が付くと、私はにわかに戦慄し、それから怒髪天を衝いた。
鏡の中の私と同じ顔をした女は、私を嘲るように笑んだままだ。その手足には傷一つない。そしてその代わりとでもいうように、見慣れた模様が首筋に浮き上がっている。首を吊って未遂に終わった回数だけ、私の首にしばらくの間巻き付いていたあの瘢痕。
幾度となく母親という存在を夢見た。母親がいれば私は幼少時から学齢期を経て今に至るまでの間を孤独で苦しむことなく過ごせたはずだ。だから私やお父さんを遺して死んだお母さんのことを恨んだものだ。そしてその度に筋違いだと思い直したものだ。もちろん産後の肥立ちが悪かったからだと聞いていたためだ。そうではなかったと知ったつい先ほどを経てなお敵意はなかった。むしろ死を願い死に向かう感情を共有していた親近感さえ湧いた。しかしそれこそが勘違いなのだと今はっきりと悟った。
なぜ、自殺者がのうのうと、そんなにも笑っていられるのだ。遺された人をこれだけ苦しめておきながら、何が可笑しい!
私は剥ぎ取る勢いで鏡の両端を握り締め、その向こうに挑みかかっていた。全部この女のせいだ。この女が私に遺伝したんだ。だから私は自殺をやめられないんだ。だから私はこんな思いをしているんだ。全部あんたが自殺したせいだ!
「それじゃあ私たちの先祖で最初に自殺した人は誰が遺伝したのよ」
頭の中で叫んだ私の声を追うように、私の声が頭の中に響いてくる。私は思わず身を離し、その場にへたり込んだ。元から気が触れている自覚はあるが、より一層おかしくなってしまったのかと、悲嘆よりも強い恐怖に襲われる。
「自殺が遺伝なんてするわけないじゃない」
鏡の中の女がそう言いながら、鏡の中から這い出てくる。そんな気配がする。
「それともそうやって自分の自殺を正当化したいの?」
鏡の外の女がそう言いながら、私の頭上に留まってくる。そんな気配がする。
「それならそれでいいわよ。私が自殺したからあなたは自殺する。私の自殺があなたに遺伝した。あなたは自分の自殺を母親の私のせいにする。あなたがそうと決めたならそれでいい」
私は胸元に俯かせた頭を抱え込み声にならない声で叫んでいた。発したはずのうるさいという言葉が腕や手をすり抜け辛うじて聞こえた気がした。私ではない私の声は途絶えたが、まだその女は私の背後にいる。そんな気配がする。その気配に向かって私は問いただした。
「だったらこの名前は何よ。なんでこんな名前を付けたのよ」
「とても素敵な花言葉でしょう?」
きっとお父さんにもそう言ったのだろう。なるほど自殺なんて完遂するような人間なら、そういう感性も抱くものなのだろう。
「そんなにも明日死んでほしかったのね。そこまで憎むぐらいなら、いっそ私のことなんて、産まなきゃよかったじゃない!」
それは、長い間の胸のつかえそのものであったのだと、思わず飛び出した言葉を耳にして、私は悟った。私はずっと、これを言ってやりたかったのだろう。
奇妙な達成感のためか、私は微笑んでいた。しかしそこから零れ落ちた涙の理由が、やはりそのためなのか、あるいは生まれながらにして死を望まれた運命を嘆くものなのかは、わからなかった。
「なあにそれ?」
見たことも聞いたこともない何かを示されたような反応だった。きょとんとした表情さえ見える気がした。それまでとは違う冷感が、真顔に戻った私の背筋を滑り落ちていく。床の水滴が目の奥に戻っていくようだった。
「どういうつもりで付けたの…?」
女が明かした内容は、お父さんが私に話したそれと、ほとんど異同がなかった。いつまでだって生きていくことを願い、いつまでも訪れないその日を願った名。
私はいったいこれまでの間、何と戦い何を憎み何に怯えていたのだろうか。聞き終えるかなり前から私は頭を抱えていたが、言い終えたところで彼女は納得したらしい。
「明日死んでほしい。そんな解釈もあるのね」
「誰だってそう思うでしょう…」
「あなたもそう思ったの?」
「お父さんだってそうよ…だから私に嘘をついたんじゃない…」
「それが当たってたってわけね。さすが私の選んだ人。さすがあの人を選んだ私」
「答え合わせしてくれなけりゃしょうがないじゃない」
「それを信じられないならもっとしょうがないじゃない」
私はしばし言葉に窮したが、沈黙を吹き飛ばすほどの勢いで言った。
「そんな素敵な名前を付けられた私はどうなった? 毎日のように死のうとしては失敗して、今じゃこんなに傷だらけ。彼氏に見せるのにも躊躇してる」
それは私の内側をも切り刻む諸刃の剣だった。胡蝶くんが頓着しないとしてもなお、綺麗な肌でいてあげたかった。この名の含意をそうだと信じて疑わなかったならば、きっとそれも叶っただろう。いや、でもそのときは、そもそも胡蝶くんと会うこともなかっただろう。しかしそれはそれで、私にとって望ましいことだったのかもしれない。私は今も生家で暮らし、お父さんのいる高校に進んでいて、ううん留年する理由はないから、もう卒業していたはず。それじゃあ今頃何してたかな。行きたいところに行ってたり、やりたいことをしてたりしてたのかな。それじゃあ胡蝶くんはどうしてたかな。胡蝶くんは一人苦しんでたのかな。私がいない胡蝶くんはどうなっていたのかな。もうこの世からいなかったのかな。でも私はそのことを知ることもなくて、のうのうと暮らしていたのかな。そんなの嫌だな。胡蝶くんに会いたいな。胡蝶くんを一人にしたくないな。いや待てよ胡蝶くんも同じ学校に来てたんだよな。私の一個下の後輩として。そうだ胡蝶くんのお兄さんも同じ学校にいたはずだ。私の一個上の先輩として。じゃあ二人とも面識があったかもしれないな。それなら私が胡蝶くんのお兄さんの力になれたかもしれないな。胡蝶くんを苦しめることもなかったかもしれないな。私が父母を信じ抜くことができていたら、誰も失わせずにいたのかな。全部私のせいなのかな。あちこち飛散していく想像にこちらが先に耐えられなくなり、最後の一閃のように吐き捨てた。
「さぞかしがっかりしてるでしょうね」
「そうでもないわよ?」
その頓狂な口調に、痛みはおろか薙がれる感触さえ与えられなかったことを知る。ああ、この人はもう、とうの昔に死んでるんだったと、ブン投げた槍が図らずも的のど真ん中に命中したように腑に落ちた。
「そりゃあなたには私と違うように生きていってほしいけど、私と同じように死ぬのであればそれはそれでいい。あなたが選んでそうと決めたことだもの。私はそれが一番嬉しい」
彼女の手が私の傷跡に触れてくる。癒したり、ましてや傷を深めたりするのではなく、ただその存在を確かめるためだけに。
私は、尋ねるために開いたものの、一瞬でからからに乾いた口を閉じ、時間をかけて湿らせてから、絞り出すように言った。
「お母さんは」
再び枯渇した口の中が潤うまでには、さらに長い時間を要した。自ら発したその呼称のむず痒さもあったが、それ以上に返ってくる内容を先走って恐れた。
私が幼少時よりお父さんから聞かされていた母の実像の、どこからがまやかしでどこまでがでまかせだったのかは杳として知れなくて、そもそもお父さんさえどこまで胸襟を開いてもらえていたのかもわからない。
確かなのは自殺したという結末だけであり、そこに至った経緯は依然として闇の中。学力のこととか自分の将来のような、少女や女子高生の普遍的な悩みなのか、友人知人や親きょうだいとの軋轢といった固有の人間関係上の問題なのか。
あるいはお父さんのことが、本当は嫌いだったのか。
それとも、私を産んだからなのか。
やがて私は意を決するように唾を飲み込み、光を当てるために適度に湿った口を開いた。
「何が嫌で自殺したの?」
「何も嫌じゃないわよ?」
どんな答えであっても受け止めてやると構えていたにもかかわらず、その覚悟が何一つ役に立たなかった。取りこぼした私に追い打ちをかけるように、彼女は言う。
「生涯にこの人しかいないと思える最愛の人と出会い、その人との間に素敵な子供を作った。嫌なことなんてあるはずないじゃない」
「だったらどうしてそれを終わらせたの。私に付けた名前みたいに、いつまでも続けていけばいいじゃない」
「それはできないわ。だって私は自殺がしたかったんだから。それこそが生きる目的だったんだから」
「やっぱり遺伝だわ…」
「あなたも自殺が目的なの?」
「変な奴は変な奴からしか生まれないって言ってんのよ。私にとって自殺は嫌なことから自分を解放するための手段よ。その必要がなくなったから生きることにしたのよ。それなのに自殺がしたいってなによ。意味わかんない。それが生きる目的だったらもっと早くに死んでりゃいいじゃない」
「無茶言うわね。その機会がなかったからあのときになったんじゃない」
「そんなのいつだってできたでしょう。私みたいにいくらでもやれたでしょう」
「そしたらあなたみたいにその数だけ失敗してたのよ」
「………」
「自殺がしたい。いつからそう思ってたかは覚えてない。気づいたときにはそう思ってたわ。あとはいつどこでどうやるか。それを決めて実行するだけだった。あのときやっておけば良かったって思ったことはなかったな。逆にこのときにしようって考えることもなかった。そのときは自然にやってくるってわかってたから。場所は実際に探してみたけどどこもしっくりこなかった。自殺の名所も好きなところも慣れてるあたりもなんか違ってた。そのうちに今と決めたその場所でいいんだって思うようになった。方法も同じね。今と決めたその場所でできる方法なら何でもよかった」
「それが私を産んだその日に寝付いてる私のすぐそばでこれ見よがしに首を吊ることだったわけ」
「岩田帯使ったの」
「知らないわよ…」
「あの人が贈ってくれたのよ」
「………」
「聞いてない?」
「マトモな神経してたら黙ってるわよ。俺がお前とお前の母親を守るために贈ったものでお前の母親は死んだんだなんて、いくら無神経なお父さんでも言うわけないわ」
「そう聞くと本当に最高の選択をしたんだって思えるわ」
恍惚とした表情さえ見える気がした。対する私は苦々しくそれを曇らせる。
「サケかカゲロウだったらよかったのにね。そうすりゃお望みどおり私産んですぐ死ねたでしょ」
「サケやカゲロウじゃ自殺できないじゃない」
「皮肉で言ってんのよ」
「わかってるわよ」
軋ませた歯の隙間から絞り出すように漏れてきた私の唸り声を耳にしたのか、彼女は嬉しそうに私に抱き着いてくる。
「やっぱり私の子ね。いい性格してる。生まれてきてくれたのがあなたでよかった」
「随分な皮肉だわね」
「まあひどい子。本当のこと言ってるのに疑うなんて。お母さん悲しい」
言葉とは裏腹に愛玩するように顔をこすりつけてきて、私は苛立たせた全身を激しく揺すった。こちらからでは触れられない感覚の理不尽さに臨界点を突破しかけたが、わずかにだが気配が離れたことで事無きを得た。
「私にはいつまでも生きろと望んでおきながら、自分は私たちを遺してさっさと死んでいくなんて、おかしいじゃない」
「心中したほうがよかった?」
「そうは言わないけど…」
「考えなかったわけではないのよ? あなたがお腹にいるときはいつもそうしようかと思ってた」
「ああ、こりゃ遺伝じゃないわね。胎教の賜物だわ」
「私とあの人の初体験の話って聞いてる?」
「天賦の才だとかなんだとか…」
「そうそう。あの後で何度もね、今からでも習え、俺が教えるって随分言われたけど、あんなのあの人が相手だからできたのよ。大好きなあの人と結ばれるためだから力が出たの。興味のない相手と試合なんかやったところで勝てるわけないし、練習だってやりたくないわよ。そりゃあの人が相手のときは負けなしだったけど。でも全部あの人に任せちゃうってのもすっごく良くて」
「初体験の話はよ」
「そうそう。ごはん作って持っていってあげてね、しっかり油断させておいてから、転ばせて組み伏せて覆い被さったの。有段者だなんて知らなかったわ。抵抗されたけどやめたげなかった。だんだん弱っていくところが最高だった。このまま二人で死にたいぐらい最高すぎた。いっそあの人を絞め殺して私も死のうかと思ったぐらい」
「それなら私はこの世に生まれることもなく、こんな不愉快な思いもせずに済んだわけね」
「だからやろうと思えばいつでもできたのよ? 私があなたを産んで、あの人が出生届を出しに行くまでの、ほんのわずかな時間だって、あの人、あなた、私の順番でやれば、難しいことじゃなかった」
「だったらそうすりゃよかったじゃない」
「嫌よそんなストーカー殺人の加害者みたいな最低最悪の生き方や死に方」
「目糞鼻糞でしょ」
「どっちがどっち?」
「好きなほう選べば?」
「もう選んだじゃない」
「………」
「誰より大好きなあの人や何より大切なあなたを手にかけるぐらいなら、ずっと生きていくほうがまだましね。あなたたちに望まれたって断ったわよ? 誰かに手伝ってもらわなきゃ死ぬこともできない弱虫となんて話したくもない。そんなに死ぬのが怖いなら生きていればいいんだもの。一人で死ぬのが怖いなら誰かと二人で生きていけばいい。誰かとじゃなくても二人じゃなくてもいい。みんなとだって構わない。その誰かを探すために生きるのだって悪くない」
「お父さんのことが大好きで私のことが何より大切で、それでどうして自殺なんてできるのよ。私たちのことなんて何も考えてないってことじゃない。いっそ失敗すればよかったのに」
思わず呟いた言葉が、嫌味とは違う真意を包含していることに気が付き、心の中で呟いた。そうすれば、私やお父さんと一緒に、今も生きててくれたのに。
「失敗なんてするわけないじゃない」
そしてそんな情緒は一蹴される。
「こっちはそのつもりでやってるんだから」
「じゃあ私は何なのよ。こっちだってそのつもりでやってるのに、何で成功しなかったのよ」
「そりゃ死ぬのが嫌だったんでしょ」
「死ぬのが嫌で生き延びられるなら殺人事件も死亡事故も起きないでしょうが」
「自殺は例外よ。だからあなたは死ねなかったんじゃない」
「死ぬことに例外なんてあるものですか…」
「だったらなんであなたは生きてるの?」
「それがわかんないから悩んでるのよ」
「わかんないわけないでしょう。あなたにとって死ぬことは目的じゃなくて手段なんでしょう? 目的が果たせるなら死ななくたっていいわけじゃない。だからあなたは生きてるんでしょう。もしかしてキスツス。あなた、私が死ぬ前にあなたになんて言ったか、覚えてないの?」
「生まれた直後のことなんて覚えてるわけないでしょう。母親が目の前で自殺したことだって忘れてるわよ」
「道理でさっきから噛み合ってないわけね。じゃあもう一回言ってあげる」
彼女が私を抱き締めてくる。私の頭を赤ん坊に見立てるように、私の首に腕を巻き付け、耳元に口を寄せて、ゆっくりと諭すように囁く。
「幸せになりなさい」
覚えているはずなどないのに、その声と言葉は聞いたことがある気がした。そして私は悟った。だから私は死ねなかったんだ。だからお母さんは、お母さんたちは、死ねたんだ。
私は思わず落涙していた。ただただ悔しかった。そんなことなどあっていいものか。お母さんの言うところの最愛の夫の存在は生きるよすがにならず、最愛の子の誕生はかねてからの本願を成就させる引き金となった。それならお母さんは自殺ではなく、私たちが、いや、私が殺したようなものではないか。そしてそれをこの人は、諸手を上げて喜んでいる。私は両腕の傷口を抉るように、両手で爪を立てた。
「私が生まれたからお母さんは死んだのね。私なんて生まれてこなければよかった。そうすればお母さんはずっと、お父さんと一緒に、生きててくれたのにね」
「ひどい子ね。自殺したいって思いながら、ずっと私に生きていけっていうの? あなたあの人と私のどっちが大切なのよ」
「どっちもよ。私なんかよりもずっと大切。そのためならいついなくなってもいいし、最初からいなくてもよかった。お父さんも同じに決まってる。お母さんこそ、私たちと自分の、どっちが大切なのよ」
「そりゃ自分よ」
「聞くんじゃなかったわ」
「だめ。ちゃんと聞きなさい。あなたが生まれてくれたから私は死ねたの。あの人と出会えただけでは足りなかったし、あの人と結ばれてもまだ満たされなかった。あなたを身籠ってようやく死ねる気がしたし、あなたを産んだときにそう確信した。ああ、私はこんなにも幸せなんだって。絶対に失いたくないって思った。だから手放すことにしたの。それができるのはこの永遠に続く世界でただひとり私だけ。誰にも渡さない。誰にも奪わせない。最初で最後の最高に幸せな経験だったわ。全部あなたのおかげ。本当に感謝してる。ありがとうキスツス――
気配が消えてもなお、私は長い間その場所に蹲り、声も出せずに泣いていた。夢幻か空想か、あるいは亡霊の類か知れないが、お父さんが言うところの私によく似たお母さんは、きっとあんな感じなのだろう。
――キスツス、あなたの人生はあなたのものよ。とっとと捨てるのも、誰かに捧げるのも、すべて自由。私があなたにあげたのはその名前だけ。それだって好きなように使えばいい」
私が言ったのか、お母さんが言ったのか、よくわからなかった。口を開いたような気もするし、閉じていた気もする。確かに耳に触れたはずだが、頭の中で響いただけかもしれない。ああ、きっとハモったんだなと、冗談めかしてみる。正誤を判断するものは何もない。
ようやく立ち上がった私は、鏡の中の私と目が合った。ともに両手足に無数の傷跡を持つ私たちは、泣き腫らした顔を互いに嘲笑い、なおも微笑がそこに残った。
8月5日の午後、私は密かに学校を訪れた。
長袖のジャージに着替えて女子更衣室を後にして、髪を後ろで一つにまとめながら卓球部の戸を開け放つ。
こちらに顔を向けたあやめちゃんはその表情をしかめつつ、腕を振る速度を緩めず際どいところにスマッシュを叩き込むと、捕捉しそびれたピンポン玉を拾いにいく薊くんに冷めた視線を注ぐのだった。
「副部長から誘われるなんて、おかしいとは思ったのよね」
「僕も頼まれたんだ。もう一度胡蝶に連絡してくれってさ」
「してあげりゃいいじゃない」
「折角だから交換条件を出したんだ。もう僕が相手じゃ練習にならないだろう?」
薊くんからラケットとピンポン玉を借り受けて、私はあやめちゃんと対峙する。前は素人の私より弱くて、薊くんよりもさらに弱かったけど、今はどうかな。きっと私のことなんて少しも考えなくてよくなって、随分上達したんだろうな。
「最初から私に言えば、こんな回りくどいことにならないのに」
「遠回りが必要なこともあるんだよ」
薊くんの言葉に頷いた私を一瞥し、あやめちゃんは言い放った。
「留年とか?」
私は予備動作なしに勢いのついたサーブを送る。到底返球できないほどの角度と速度だったが、あやめちゃんは俊敏に打ち返してきた。臨戦態勢が整っていないと思ったのは間違いだった。精神攻撃まで身に着けているのだ。おかげで私の闘志に火が付いた。
なかなか途絶えないラリーと、留まってもすぐに再開されるその連続の最中、初めてここに来たときのことを思い出していた。
焼身、服毒、餓死をはじめとしたいずれの自殺にも失敗し、留年して迎えた二度目の高校一年生。
惰性で登校こそしたものの、何も期待などせず机に突っ伏していた私に、一人の女子生徒が快活に話しかけてきた。自己紹介とともに同じ中学校の出身だという男子生徒を引き合わせ、中学で始めた卓球を高校でもやりたいから一緒に見学に行こうとせがんできた。
私は彼女に手を引かれながら、もう片方の手を取られている彼に彼女の性向を尋ねたが、同じクラスになったことはおろかそんなに話をしたこともないのだと、彼も首を傾げるばかりだった。
部室には部員の総数だという三人の生徒がいたが、体操服を着ているのは部長だという一人だけで、残りは制服のまま駄弁っているところだった。聞けばみな青春を賭けるほどの意欲はなく、来年の進学のほうが重要だという趣旨で、入部志望者が現れたところで色めくこともなかった。とはいえ冷遇されることもなく、部室の一角と道具を快く貸してくれた。
私は早速彼女と対峙しながら、初めて触る道具の使い方とルールを簡単に教えられた。彼女が私の飲み込みの良さを称賛して笑っていたのは序盤だけで、そのすぐ後から本気を出すだのなんか調子が出ないだのと表情が引きつってきたが、こちらは来た球を素早く返したり回転方向を変えたりそれらを織り交ぜたりしているだけのこと。それでも文字どおり打ちのめす結果になった。
半ば涙目で彼女は次の相手に彼を指名し、私と同じく未経験者だという彼はろくに何も教えられないまましかし、嘲るような打球の連発で彼女を翻弄した末に圧勝した。
部屋の隅に膝を抱えて蹲っている彼女を残し、試しに私と彼で対戦したところ、彼は彼女よりは善戦するも私に敗北した。
一連を経て彼はスカウトされたが、ただの付き添いだからと色好い返事をしない。来れるときだけ来ればいいと重ねて求められた彼が答えるより早く彼女がしがみつくように入部をせがみ、毎日出るし何なら毎日連れてくると、彼を抱き込むことを交換条件にまでした。
そこまでしなくてもいいと圧倒されている部員たちに、なぜ私のことを誘わないのかと彼が問うた。彼らは言い淀むか、ばつの悪い顔を反らすかだった。
私には彼らとの面識やその記憶はないが、素性ぐらい知られているのだろうと悟り、他にやることがあるからと一人部室を後にした。その日の方法が何だったかは覚えていない。とりあえず失敗したことだけは確かだ。
それからも彼女は懐っこく私に接してきて、なし崩し的に仲良くなった。その保護者みたいな彼とも、距離が近づいた。正式に二人で入部できたと飛び跳ねて喜んだり、あれでは先輩たちの進学に障って気の毒だったからとこぼしたりする姿に、こちらの表情も思わず緩んでいた。二人が仲立ちになったことで、ほかにも親しくできそうな級友はいた。
私と接してくれることは、とても嬉しいことだった。けれど私なんかと接してくれることは、とても申し訳ないことでもあった。いつかまた失うのではないかという不安を、常に抱かせるものでもあった。そのせいで私は死のうとした。何度となく死のうとした。あるいは一年前の同級生やその一つ上の上級生から聞いたのだろう、私が留年した事実やその経緯が知られて、いつしか距離を取られるようになった。あれ、どっちが先だったかな。死のうとしたから離れたのかな。離れていったから死のうとしたのかな。まあ、どっちも同じようなものだ。けれどもその二人だけは、なぜだかそばにいてくれた。
知らず知らずのうちにそこに甘えていたのだということは、その年の修学旅行のときに知る。二日目の夜、海岸沿いのホテルに宿泊した際、馬鹿騒ぎする同級生たちから離れ、鬱々とした物思いに耽るべく、人気のないところを探し当てた私は、その声から先客の存在とその素性を悟ったのだ。すぐそばに私がいることを知らない二人は、だからこそ私のことを話し続けたのだ。
「キスツスがあんなにも死にたいなら、死なせてあげるべきだよね。それが友達として、してあげられることだよね」
「鈴懸さん、それは間違ってる。友達なら、諦めるものじゃない」
「でも、どうしたらいいのかわからないよ。このままだと私、キスツスのこと、嫌いになっちゃう。そんなの嫌だよ」
「まずは一人で抱え込まないことだ。僕もいるんだ。僕も彼女の友達だし、君の友達だ」
「擬宝珠くん…ありがとう」
おおよその趣旨と展開はこのようなものだったが、あやめちゃんの声は鬼気迫るほど沈鬱で、それが八つ当たりのように尖った瞬間もあった。受け止める薊くんは穏便だったが、負の感情に引きずられないように懸命に自制しているだけで、同じ苦悩を抱いていることが伝わってきた。それはあやめちゃんも同様に感じ取れたのだろう。だからあやめちゃんは落ち着きを取り戻し、私はいつもの鬱屈をさらに膨張させたのだ。
例えばこれが、私の陰口であったならば、私はかえって安堵したかもしれない。どれだけ悲嘆に暮れたとしても、大切な人が欠けた日常にすぐ慣れたことだろう。そうしてようやく死ぬことができたかもしれない。
しかし私のせいで大切な人をいたずらに苦しめているのは、それを失うよりも耐えがたいことだった。その私がいなくなれば、こんな思いをさせなくていいと考えて、目の前に広がる大海原に歩を進めたのは、私にとって至極当然の選択であった。図らずも未遂に終えたのも、遠く離れた学校近くの川に流れ着くという不可解な現象に目をつむれば、やはりありふれた日常のワンシーンだった。
そのすぐ後で花瓶を置くようになったある日の放課後、私はあやめちゃんと薊くんに連れていかれ、ちょうどこの場所だったという川岸の地点を指し示されながら、躊躇なく人工呼吸に踏み切ったあやめちゃんの救命と、薊くんの迅速な救急要請の様子を改めて聞かされた後、二人から怒られまたたしなめられた。
「私の知る限り誰もあなたのことを責めてない。無事で良かったってみんな言ってる。なのにあんなことされたら、どうしたらいいかわからなくなるでしょう」
「嫌がらせの続きみたいに思われてしまうよ。本当に死ぬつもりだったのか、修学旅行を中止させるのが目的だったんじゃないか、そんな誤解さえ招くよ」
私は襟を広げた。昨夜も吊ったばかりだったのだ。
「私はいつ成功してもいいように、いつ教室に来れなくなってもいいように、ああしているだけよ」
あやめちゃんは今にも飛び掛からんばかりにその瞳に怒気を宿し、薊くんは目に見えて落胆した顔を伏せた。納得も共感も理解も得られないことを承知で、私は続ける。
「多分、元々の性質なのよ。何かのきっかけで本当に自殺をしてしまったら、自殺癖がつくの。何か嫌なことがあったらすぐ自殺に向かう。頭がそういう風になっちゃってる。自殺の原因と行為が乖離してる。昨日もそう。あの日もそう。いつだってそう」
「嫌なことって何よ」
「ファーストキスの相手のこと思い出した」
「お互い様でしょ!」
「昨日のことはいいから、あの日はどうだったんだい?」
本当のことは言えなかった。本人の前じゃなくても言いたくなかった。友達だと言い切られたことがその理由だったなんて、自分にだって言ってやれなかった。だから私はもっともらしい嘘をつく。
「なんで私、留年してんだろうって。去年ここに来てるはずだったのになあ、って」
「そのおかげで僕らは同級生として出会えて、こうして友達になれた。それじゃ足りないのかい?」
淡く仄かな気持ちはそれだけに、存在の事実すら消し去ったように消え失せていて、私の胸がそれ以上の痛みを感じることはなかった。むしろかえってよかったかもしれないと思いさえした。もしもこの人と結ばれても、私はいずれ同じことをしていただろう。そのときこの人は、どれだけの苦しみを味わうだろうか。友達を失うこととは比べ物になるまい。だから私は誰とも親しい関係になってはいけないのだ。誰かに対して友情も愛情も抱いてはいけないし抱かせてもいけないのだ。ひっそりと生きて死んでいくべきだ。そしてそれもできるだけ早くだ。
「ごめんね」
曖昧な言葉を残してその場を去った私は、次の日もルールを守り、教室の自席の机上に花を供えていた。二人に話したように、一番の目的は誰かの手を煩わせないようにすることだったが、これをすることでいつか成功できるような気もしていた。そして何よりこの奇行は、二人への配慮でもあった。こんな奇怪な私のことなんて、すぐにでも見限ってほしいという願いだった。それでも二人は私のそばにいてくれた。
やがて私たちは進級し、少し経って胡蝶くんがやってきて、すったもんだの挙句に胡蝶くんと付き合うようになって、それでも二人との仲は変わらなかった。むしろようやく対等な立場として、友達付き合いができるようになった気がする。
亀裂が走ったのは去年の10月30日。胡蝶くんの誕生日ということで、家に三人を招いたのだ。もちろん胡蝶くんの17歳を祝うことが目的だったわけだが、私にはもうひとつの目論見があった。それは二人にもあらかじめ伝えていたし、遅くならないうちに私たちを残して退散するという了解も得ていた。
三人が揃って訪ねてきたときには、料理の準備は整っていた。胡蝶くんはパーティ用だというボードゲームを幾つか、薊くんはどうせ君が食べ切るだろうとホールケーキを二種類用意し、あやめちゃんは複数の飲み物とともに、家からくすねてきたと念入りにしまわれた一升瓶を取り出した。
呆気にとられた私だが、最近この銘柄が気に入っているのだという耳を疑うような発言に正気を取り戻し、未成年だろうと注意したものの、固いこと言うなとか、無理に飲むことはないとか、昔の中国ならザラなどという無茶苦茶な言い分が返ってくるばかりである。
昔の中国では男子は20歳で冠礼、女子は15歳で笄礼、それで成人とみなされた。男子の場合はそれより早く冠礼が行われることもあったらしい。だからといって今の私たちに飲酒が許容されるわけではないだろうという旨の反駁を早口で敢行するが、誰も聞いちゃいない。直後に料理の見た目を褒められて気を良くしたり、品数と分量からあと何人来るんだとからかわれて口を尖らせたり、味に言及されたところでつまみ食いを叱責することになったりしたため、おざなりにもなってしまった。
思い出したようにあやめちゃんが再びそれを手にしたのは、宴もたけなわといった頃。さんざん飲み食いし、幾つかのゲームを楽しみ、そのうちの一つで早々に脱落して手持ち無沙汰だったという事情もあったろう。料理に合うと言われても複雑だ。もう冷めてるじゃない。
程なくして得意ではないと事前に申告していたように胡蝶くんが戦いの場から離れ、私と薊くんでしばらく白熱していたが、私のコップどこ? というあやめちゃんの頓狂な声で勝負が中断する。
見ると、テーブルの上下を覗き込むあやめちゃんのそばに、青白い顔をした胡蝶くんが、焦点の外れた視線で立膝になっているのだった。声をかける間もなく横倒しになり、手からこぼれ落ちた紙コップから、透明の液体が流れ出た。
私が胡蝶くんの名を叫んだときにはすでに薊くんがそのそばに駆け寄り、弛緩している胡蝶くんを持ち上げてトイレに連れ込んでいた。さらに便器にしがみつかせるようにしてその内側に嘔吐させながら見立てたところによると、「アルコールそのものを体が受け付けなかったのだろうが体内に回る前にできるだけ吐き出させたほうがいい」というものであり、正否の判断はできなかったがもっともらしく感じた。また「中和させるから水を用意してくれ」という指示に盲従したが、あやめちゃんが差し出してきた紙コップは中身の透明の液体ごと払い除けた。
途中でなお戻しながらも紙コップ十杯ほども水を飲んだ胡蝶くんは、やがて足取り覚束ないながら一人で部屋に戻ると、開口一番コップを間違えたことをあやめちゃんに詫びた。それから折角の料理を台無しにしてしまったことを私に謝った。
そんなのどうでもいいと私が声を張ったのは、むしろあやめちゃんに先んじられたことのほうにだ。続けて体調を気遣うと、大丈夫だと力強く言われ、大丈夫だけど今日は帰るわとよろめきながらほとんど手ぶらで外に向かった。押し留めることなどできず、抱き着くようにして支えるだけしかできなかった。
通りまで出ると、来たばかりのタクシーを拾うことができ、一緒に乗り込もうとしたが、大丈夫だからと弱々しい力で押し出されてしまった。
タクシーごと胡蝶くんが走り去ると、私が寄せ付けようとしなかったとはいえ、おずおず後ろを着いてくるだけだった二人が、突如その存在を示し始める。あざみん手慣れてたねというあやめちゃんの言葉に、よく上の姉をああして処理していると薊くんが答えたところで、私は駆け出していた。
家に戻るなり二人の手荷物を片っ端から掻き集めて外に放り出し、壊れるほどの勢いでドアを閉めて鍵をかけた。そのまま脱力するように戸の内側にへばりつき、程なくその向こうに現れた気配に立て続けに伝える。
「席替えして。私たちから離れて。もう顔も見たくない」
「この時期にか」
薊くんの呆れたような口調が下のほうから聞こえたのは、屈んで拾い上げていたからだろう。
「それで三学期が終わるまで持たせればいい。だいたい二学期が長すぎるのよ」
「来年はどうする」
「そのままでいい。あなたたちが離れていればそれでいい」
「あんまりじゃないかな」
普段の背丈よりも高いぐらいのところから声が響いてきて、私は思わず身を離していた。
「悪いのは調子に乗ったあやめと、それを止められなかった僕だ。それについてはいくらでも謝るよ。だが罪と罰があまりに開きすぎてる。こんなことを持ち出すのはアンフェアかもしれないが、僕らがどれだけ君たちのために骨を折ってきたと思ってる。感謝しろなんて言う気はない。僕たちは友達だ。当然のことをしてきたまでだ。だけどこのことで絶交を言い渡されるのはひどすぎる」
「いいよ、帰ろうあざみん」
それははっきりとした、けれどもとても悲愴な声だった。
私は薊くんの返答を聞くために耳を澄ませていたが、いつまでもそれを得ることはできず、やがてすでに二人がそこにいないことを、ようやく知るのだった。
後片付けという無心の時間を終え、一人ぼっちになってしまうと、さすがに言い過ぎてしまったかと思ったものだったが、「俺いつ帰ったんだ?」という胡蝶くんからのメッセージに新鮮な怒りが蘇り、言い足りなかったとさえ思った。
その後ですぐの、文化祭を機にした席替えにより、私と胡蝶くんの場所は変わらず、あやめちゃんと薊くんはそれまでどおりの横並びだけど私の席からは見えにくい位置に移った。私たちの前の席になったのは話もした覚えのない男の子と挨拶程度の交流しかない女の子だったけど、結構うまくやれた。特に女の子のほうとは封神演義の話ができる仲となり、進級時に席が離れてしまってからも緩い繋がりが保たれた。その後釜の二人とも隣人としての良好な関係は築けている。
それからこの間まで、本当に口も聞かずにいたわけだ。胡蝶くんがいるから平気だと思っていたけど、やっぱり辛かったんだと今は思う。二人では胡蝶くんみたいに愛を囁き合うことができないように、胡蝶くんでは二人みたいに気が置けない友人としての付き合いはできなかったのだ。
何十回目かの熱のこもったラリーの最中、あやめちゃんが聞いてきた。
「胡蝶くんのご両親とは会えたの?」
「ええ」
お母さまから聞いた私の評判と、こんな私を見捨てずにいてくれたのだという感慨。そのことを思い出して、込み上げてくるものがあった。私はあんなにも、大切にしてもらえていたんだ。この人たちにも甘えていいし、頼っていいんだ。
「よく食べるって何よ」
「本当のことじゃない。かわいい彼女がいるってのも本当のことでしょ」
「いい友達を持ったわねって言われたわ。とっくに絶交してるっつの」
「言えなかったくせに」
滲んだ視界の向こうに、目元を拭いながらもいい球を弾き返してくるあやめちゃんの姿が見えていた。その位置や体勢からどのあたりにどのぐらいの加減でラケットを振れば良いのかはおおよそ掴むことができるものであるが、あやめちゃんも似たようなものらしい。
どちらかがしくじるとそれを追うより早く審判が替えを放り投げて寄越すので息つく暇がない。次の出番までには十分に間があるので替えを拾い上げるのにも事欠かない。この男はこの男でいい位置を占めているものだという感慨を、その自覚ありげに目を細めている薊くんを瞥見するたび私は思うのだった。また思っていることをうっかり口にしたりしないでよかったとも思うのだった。どんな人がこういう人と将来付き合ったりするんだろうと思ったりもするのだった。
替えのピンポン玉を使う必要がなくなったところで、私は両手と膝をつく。私の背後で弾むその音を覆うように、あやめちゃんが背中から倒れ込んだ。薊くんがかなりの点差で一方の勝利を宣言し、続けてその勝者に伝えた。
「これなら全国大会もいいとこいけそうだね」
「どうかな。厚着してるキスツスじゃ、ハンデもらってるようなもんだもん」
「前はそれでも勝てなかったろう」
「ろくに点も取れなかったわよ」
落ち着いてから、あやめちゃんが胡蝶くんに連絡を入れてくれた。
「あー胡蝶くん? おめでとう。何がって、キスツスから聞いてるよ。今日は大事な日なんでしょ? セカンド誕生日。去年の分まで祝ってあげるからキスツスん家おいで。あ、セカンド誕生日は明日になるのかな? じゃあ今日はイブか。セカンド誕生日イブ。みんなでカウントダウンしようよ。ちゃんと生き延びられたねおめでとうって。バカになんてしてないわよ。だいたい、そんなに悩んでたんなら言いなさいよ。キスツスのことあんなに追い込んでどうすんの。だから私たちのところに逃げ込んできたんたじゃないの。私たちいなかったらあの子また死んじゃってたよ? 何でもいいけど待ってるからよろしく。心配しなくてもお酒はありません。欲しけりゃ自分で用意して。ボードゲーム? イラネ。身一つで来い。なんでよ。なんでそんな遅くなるの。あー、そりゃまあしょうがないか。うん、孝行してらっしゃい。よろしく伝えておいてね」
スマホをしまいつつあやめちゃんが言った。
「お父さんお母さんと外ごはんだって。それからになるから夜になるって」
私は俯くように頷く。お二人だって心配しているに違いないし、あるいはともにこの日を乗り越えたいことだろう。でも胡蝶くんは私たちを選んでくれた。何としてでもそれに応えないといけない。そう決意を新たにした私に、あやめちゃんが告げてくる。
「じゃ、ごゆっくり。胡蝶くんによろしく」
「来てくれないの?」
私はあやめちゃんを見て、それから最初に話を通した薊くんにも目を向けた。あやめちゃんはのけ反り、薊くんはこっちが驚いたみたいな顔をしていた。
「君たちが乳繰り合うところを見物しろと言うのか?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ後で行くわ。最近洋酒に目覚めてね」
「いいですわかりましたやめてください」
二人が練習を再開し、私は控えめに手を振ってから部屋の外に出た。それぞれが球を打ち返しながらも空いているほうの手で私に応えてくれているのを見て、閉めようとした戸から手を離す。
「あやめちゃん、薊くん」
急に呼びかけられて面食らったように二人が私を見てくる。ラケットを止められなかった薊くんの返球を、あやめちゃんは一顧だにせず素手で掴んだ。
「二人がいたから私はここまで来れた。連れてきてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします」
私はそう言って頭を下げた。少し照れ臭いけど、本当にそう思っていた。もっと早くに言うべきだったぐらいだ。
「ちょっと待って、ちょっと分けたげる。ね、あざみん」
「余ったら返してくれよ。あやめがすぐなくすんだ」
「なんかそれ私のせいみたいじゃない?」
「はっきり言って君のせいだよ。使わなくてもいいところで使うからだ」
よくわからないやり取りをしながら、薊くんが自分の荷物から取り出したものをあやめちゃんに渡し、受け取ったあやめちゃんがこちらにやってきてそれを私に手渡してきた。避妊具が複数枚。理解と同時に仰天したときには、すでに戸は閉められていた。
「なんで? いつから?」
「また最初から説明するのめんどいから胡蝶くんに聞いて」
それ以上の質問を拒絶するように、力強いラリーの音が響いてくる。私は好奇心をぐっと堪え、お礼とともに伝えた。
「ありがとう…でもいいよ。うちにあるから」
ラリーの音が止んだと思う間もなかった。
薊くんの両手で勢いよく戸が開き、手のひらの上に載せられたままだった剥き出しのそれらがあやめちゃんに引っ手繰られ、再び戸が閉まった。表情も窺えないほどほんの一瞬で息の合った連携だった。
夕飯を済ませると、俄然時間を持て余した。
準備万端だった。室内は念入りに掃除したし、寝具も洗い立てのものに替えた。下着は新調し、着替えも済ませた。去年から用意していたアレは取り出しやすいように開封しており、幾つかはバラした状態で去年と同じところに納められている。頭の中で描いたシミュレーションを繰り返し試行して完璧なものに仕上げ、もういつ来てくれても大丈夫。幾度となくそう思ったけれど、まだ胡蝶くんは来ない。数え切れないぐらいスマホを確認したが、メッセージひとつなく、さりとてこちらから送るのは憚られた。
不安と期待と、もしかしたらあの二人に担がれているのではないかという疑惑を、そんなことあるわけないと打ち消す間にも、時の流れは平等に進んでいき、夜はだんだんと更けていく。こうして今日を終えてしまうのだろうか。
いっそ来てくれなくてもいい。もう二度と会えなくても我慢する。だから今も明日もそれから先も、ずっとどこかにいてほしい。そんな悲恋に酔ってみて、その酔いも冷めてきて、それでもそれがせめてもの本音なのだと心から思うようになった頃、前触れもなくインターホンが鳴らされた。
いじらしい空想もそれに基づく祈りも一切合切消え失せて、私の体はシミュレーションどおりに動いていた。ユニットバスに身を隠し、念のために誰何して、待ち人であることを確かめてから、開いているよと声を張る。程なくドアの開閉する音がした。
戸板一枚隔てた先に横切る気配を感じたところで、私は静かに外に出る。音を立てないように後ろ手に玄関を施錠しつつ、無人の部屋の中で怪訝そうに首を傾ける胡蝶くんの背に呼びかける。
振り返った胡蝶くんは小さく声を上げた。私はこの約1年間、宝物のようにしまいこみ、けれども頻繁に袖を通しては鏡に映していたキャミソールとホットパンツを身に着けていたのだ。
新しい服を着ていても言うまで気が付かず、浴衣やそれに合わせた髪型を褒める語彙はおろか感性もなく、オーバーオールとサロペットの違いもわからないほどファッションに疎い胡蝶くんでも、私が傷だらけの手足を露出させていることもあってか、さすがに思い出したらしい。
「まんまとお前らにはめられたわけか」
そう言いながら満更でもないのは、私たちの雪解けを感じているためだろう。私も嬉しくなる。
「本当は、去年の10月30日にしたかったんだけどね。プレゼントは私! って」
「今からでも遅くない。あいつら許すのやめようぜ」
私たちはひとしきり笑ってから、どちらからともなく真剣な表情になった。そして私は間髪入れずに問うた。
「いつからあの二人付き合ってるの」
「そんなこと話すために呼んだのか」
「いきなり本題に入れるわけないでしょ」
呆れたように腰を下ろす胡蝶くんを追うように、私も前のめりの割座になった。
「なんで教えてくれなかったの」
「お前絶交してたろ」
ぐうの音も出ないでいると、胡蝶くんが二人の馴れ初めを話してくれた。
そもそも二人は同じ中学校の出身である。毎年クラス替えがありながら3年間一度も同じクラスにはならなかったため、互いに顔と名前が一致する程度だったものの、二人だけが同じ進学先で、さらには同じクラスになったことから、親密になるのは自然なことだった。ここまでは私もよく知っていることだ。
これに加えて私を触媒にしたことにより、いつしか友達以上の関係性を築き上げていたという。一年生の修学旅行のあとで下の名前を呼び合うようになっていたのはその顕著なところだ。もっともあやめちゃんのほうは愛称で呼んでいたけれど、照れがあったからだというのは、本人の言だという。
去年の夏休み、四人で出かけた日に、私と胡蝶くんが睦む様子にあてられ二人で先に帰った後で、私たちを妬み嫉み羨みつつも、私の自殺願望が霧消したことに心から安堵した。苦闘から生還した戦友は、私という結節点を喪失しても、あるいは喪失したからこそ、お互いの姿がよく見えるようになり、秘めていた自分の気持ちにも気づいていった。
恋仲になったのは去年の10月30日。
私に閉め出されたことについて、薊くんはしばらく憤慨していたというが、あやめちゃんは夏の日のことも踏まえ、むしろ私の変化を喜んでいたという。
私たちがいなくても、胡蝶くんがいるから、もうキスツスのことを心配しなくていい。それが本当に嬉しくて、でも少し寂しいねと、泣き笑いしているあやめちゃんに、薊くんは込み上げてきた思いの丈をぶつけたそうだ。
「なんてなんて?」
「これからも自分がいるからとか、寂しくさせないとか、なんかそんな感じだったらしい。らしいっていっても、実際あやめがそう言ってたんだ。あいつ舞い上がっちまっててよく覚えてないんだとさ。薊はちゃんと教えてくれねえしよ」
今のところハッピーエンドが約束されているからとはいえ、友人のロマンスはどうしてこんなにも楽しくて、嬉しいのだろう。いや、ただの友人ではなく、恩人でもあるからだろう。だからその気持ちもひとしおなのだ。私は目元を拭った。だけどちょっとだけ悔しい。
「いつしたのかな」
「そこまで知らねえよ」
「先越されちゃったな。私のほうが年上なのに。相手が悪いのかな」
「俺帰るね」
「やーんうそうそ」
立ち上がる素振りを見せた胡蝶くんと、しがみついてそれを留める私。いつもならふざけあうだけのワンシーンだけど、密室というシチュエーションと素肌の感触が、後回しにした目的を瞬時に呼び起こす。それでも一足飛びにそこまでたどり着けないのは、お互いがろくにやり方を知らないからだけではなく、今日という日の重みをともに知悉しているからなのだ。
私たちはどちらからともなく静かに離れ、再び膝をついて向かい合う。そしてしばらくの間、軽く目線を外し、黙り込んでいた。
「胡蝶くん」
やがて、それがずっと昔からの決め事だったように、私から呼び掛けた。今度はしっかりと見つめ合い、私はもう一度口を開く。
「私をもらってくれますか?」
この人のことだ。もらえと命じれば、従うだろう。もらってくださいとお願いすれば、叶えてくれるだろう。けれどそれでは駄目なのだ。
今日が去年の10月30日だったなら、私は二人を見送り、胡蝶くんと二人だけになってから、先にお風呂を済ませ、続けてお風呂に入ってもらっている間にこの格好になって、それから機を見計らって、誕生日おめでとうと言いながら、しな垂れかかっているはずだった。プレゼントは私、なんてうまく言えたかどうかわからないし、そんなゆとりがあったかどうかもわからないけど、胡蝶くんは拒むことなく受け取ってくれたはずだ。
しかし今日は今年の8月5日。胡蝶くんが亡きお兄さんの齢に並んだ日。明日からの日々をどう生きていくか。そのために今日をどう生き延びるか。私のためにではなく、自分のために、選ばないといけないのだ。
胡蝶くんは何も答えず膝立ちになり、両手を伸ばして私の肩を掴んできた。そしてしばらくしてから深く息をついて俯いて、垂らした両手とともに姿勢を戻した。
しっかりと触れられたことで軽く早まった私の鼓動が収まる程度の時間を沈黙してから、胡蝶くんがおもむろに口を開いた。
「最近よく、お前が俺の机に花瓶を置いたときのことを思い出すんだ」
古傷をえぐられるような痛みとともに吐き気に似たものが込み上げてきて、私は目を伏せる。なんで今、そんな話をするのだろうと、思わないでもない。でもこれは正当な罰だ。それについてはいつまでだって許しを乞わないといけない。さらに刑が科されるならば甘んじて受けよう。その覚悟はできている。
「ごめんなさい。あのときはどうかしてた」
「責めてるわけじゃない。むしろあれがあったからこそ、俺たちはここまで来れたんだ」
気が晴れるわけではないけれど、その言葉に嘘がないことはわかる。どう汲み取ってもらっても構わないという気持ちで、私は頷いた。
「でも、兄貴はあのとき、どんなこと思ったのかなって、思うんだ。あれがなければ、死ななかったのかもしれないなって」
私が顔を上げたとき、胡蝶くんは受刑を待つ私よりも深く項垂れていた。その頭部に圧し掛かる重力は、胡蝶くんが感じる罪に比例しているのだ。そしてそれは私の比ではない。
「兄貴はさ」
髪をかき上げながら胡蝶くんが顔を起こす。中空に向いたその目はすでに赤く潤み、片方の口角は同じ方向を目指している。
「やっぱり死にたくなかったんだよ」
いみじくもそれは胡蝶くんのお母さまが、あの子と呼び掛け眺めていた方角だった。胡蝶くんにはきっと、生前のお兄さんの姿が見えているのだろう。
「ほんっ…とに自分勝手なむかつく男でなあ、ガキの頃から毎日毎日威張り腐って、言うほど大したことやるわけじゃなし、手前のこと棚に上げて偉そうにしててよ。お袋はちゃんと叱り付けてたが、あんまり効果なかったな。昔の親父は出張も多かったし、家にいないことも多くて、調子に乗りやすかったんだろう。もっとも親父は親父で虫も殺せないどころか返り討ちに遭いそうな奴だから、家に居つくようになってからだって言うことなんて聞きゃしない。多少の才能はあったのかもしれんが、それを鼻にかけて俺たちのことも世の中のこともどっか舐めてたんだろう。そのくせなんかやるときは必ず俺を巻き込むんだ。友達なんかいなかったろうよ。俺のことなんか体のいい手下としか思ってなかったろうさ。俺の好きなもの、やることなすこと、全てにケチつけて、それでようやく自尊心を保ってた卑怯もんだ。今ならわかる。そういう奴だったんだよ。それでもいつも俺の先を歩いてた。俺はいつもその後ろを着いていくだけだった。何もおかしなことじゃない。年長者と年少者の自然な距離だ。一日たりとも縮まることはない。それがきょうだいってもんだ。だから俺が兄貴を越えることなんて、あり得ないことなんだ。その俺が、もうすぐ兄貴を越える。17年9ヶ月7日で止まっちまった兄貴を越える。あり得ないことが起こっちまう。俺は明日から兄貴の知らない時間を生きていかなきゃならない。そんなこと、やっていいはずがない」
私はそっと胡蝶くんの手を取った。拒まれることはなかったけれど、握り返してくれるわけでもなく、胡蝶くんは話し続ける。
「兄貴はしょっちゅう俺の前で穴に落ちてた」
「穴?」
「失敗したってことだ」
思わず聞き直した私に、胡蝶くんは答える。
「大きいものも小さいものもあった。大抵は闇雲な反発とか、くだらねえ意地張った結果だ。後ろからそれを見ていた俺は兄貴の落ちた穴を避けて進むことができた。何も迎合しろって言ってるわけじゃない。何でもかんでも否定から入るんじゃなく、いいところはそう評価してやればいいことだろう。本当はいいと思ってたなんて後になって言ったって、誰が聞く耳持つか。先に言えよ。一事が万事その調子だ。要はひねくれてんだ。そのくせ自分のやったことに責任持たず、思いどおりにならないとわかると、ガキみたいに駄々こねて暴れて喚く。百歩譲って家ン中でそれが通用したからって、外にまで持ち出すな。人間関係もそうだし進路のこともそうだ。多少は顔がいいもんだからよ、中坊んときに付き合ってた奴がクラスにいたみたいだが、手前で冷たくしておきながら別れを切り出されると、そんなつもりじゃなかったとか都合のいい言い訳してな、それでクラス中に総スカン食らったって話だ。だからそこそこの人数が単願推薦で進学する高校も蹴って、誰も行かない高校を選んだんだ。兄貴の失敗を俺がすることは一度たりともなかった。向こうにそんなつもりは微塵もなかったろうが、今にして思えばまるで身代わりになってくれてたみたいだった。それでも兄貴はどうにか穴から這い上がって、また先に進んでいったんだ。そこについてはすごかった。どこに穴があるのかわからないのに、一人で進んでいった。だから何度も気づかないで穴に落ちた。誰にも学ぶことができず、教えてもらうこともできず、そのたびに傷ついて苦しんで、俺にとっての今日と同じように生まれてからこの日までを苦しみ抜いて生きていって、死んだんだ」
胡蝶くんがにわかに私の手を握ってきた。
「怖いんだよ。兄貴のいなくなっちまった世界で、兄貴を越えて生きていくのが、怖いんだよ。どこに穴があるのかわからないのに、いつ落ちるかもしれないのに、進んでいかなきゃならないことが、怖いんだよ。こんな気持ちから逃れられるなら、死んでもいいかなって思うぐらいだ。だがこのうえ俺まで死んでみろ。親父やお袋はどうなる。お前だって苦しむだろう。後なんて追ってこられたらたまったもんじゃない。そんな思いをさせたくないしそんなことさせるわけにもいかない。俺が死んでそうなることは絶対に避けたい。それだけで俺は生きていける。何があっても生き延びてやる。誰に頼まれたって死んでなんてやるものか。自殺なんてまっぴらだ。でもそれは兄貴も同じだったんだよ。本当はもう一度這い上がって進んでいきたかったんだよ。でももうその力もなくて、穴の底でぼろ切れみたいになって、死んじまったんだよ。兄貴はやっぱり死にたくなかったんだよ。あの日の後も生きていきたかったんだよ。でも俺たち家族のせいでそれができなかったんだよ。だからあの日に死んじまったんだよ。俺たちのこと恨んで憎んで怒って嘆いて絶望して死んでったんだよ。俺たちが兄貴を」
私はその先を言わせないように、胡蝶くんを抱き締めていた。
「それは違うよ胡蝶くん。お兄さんはそんなこと思ってない」
「死に損なったお前にゃわかんねえよ」
「それも違う。死に損なった私にしかわからないの。何度も本気で死のうとして、その数だけ死に損なった私にしか、本気で死のうとして、本当に死ぬことができたお兄さんの気持ちは、わからないの」
私を引き離した胡蝶くんの手は、痛いぐらいに強かった。問いただすように睨む双眸は、私を貫き通すほど鋭かった。けれど私は努めることもなく、穏やかに微笑んでいた。
「お兄さんはね、生きたいとか死にたいとか、そんなこと求めてなかったのよ。だって私がそうだったもの。だから私は何度も死のうとしたんだし、今をこうして生きてるの。私もお兄さんも、目的はたったひとつだけ。幸せになろうとしただけよ。胡蝶くんの言うとおり、私たち自殺志願者には、恨みも憎しみも怒りも嘆きも絶望もある。身近な誰かに対しても、広い社会や遠い世界に対しても、それを抱いている。でもそれ以上に抱いているのは、幸せになりたいという気持ちなの。全てに対する恨みも憎しみも怒りも嘆きも絶望も、全て自分に返ってくる。たった一言、苦しみと言い表すことのできるものになって、自分を追い詰めていく。だから苦しみから逃れることのできる死というものに、いくら生きていたって手に入らない幸福を夢見て飛び込むの」
「兄貴がそうだっていうのか」
「そうよ」
「幸せになるために死んだっていうのか」
「そうよ」
「死ぬことが兄貴の幸せだったなら、生きることを不幸にしちまったのは、俺たちだろ。生きることを幸せだと思えなくしちまったのは、俺たちだろ。お前の言うところの、社会とか世界とか、そういうもののせいだろう。この世の全てが兄貴を追い詰めたんだ。俺たち家族が先頭立ってそれをやったんだ。兄貴が俺たちを恨んでいないはずがない。憎んでないはずがない。たとえそうだとしても、俺たちは兄貴に償わないといけない。俺たちは本当は生きていちゃあいけない奴だ。俺も親父もお袋も、兄貴を追い詰めた奴らもみんなそうだ。それでも死ぬことは許されない。俺たちはずっと生きてずっと兄貴に詫び続けなきゃならない。一生幸せになんてなっちゃいけない。死ぬまで不幸であり続けなくちゃならない」
私は胡蝶くんの顔を両手ではたく勢いで挟み、その困惑した表情をじっとりと細めた目で見つめる。
「胡蝶くんは私と付き合ってて不幸なの?」
「何言ってんだお前」
「私のこと嫌い?」
「今する話じゃないだろ」
「私は胡蝶くんのこと好きだよ」
「後にしろ後に!」
「胡蝶くんも私のこと好きでしょ?」
「ああ!」
「じゃあ私は幸せだよ」
そこで私は破顔する。
「胡蝶くんのことが大好きで、大好きな胡蝶くんに好きでいてもらいたいっていう理想が叶ってるから、とても幸せなの。お兄さんもそれと同じ。お兄さんの理想は、いつのときからか、自殺することになってた。だからお兄さんはそれを叶えることができて、今とても幸せなのよ」
胡蝶くんの顔が形容のしようのないかたちに歪む。なかなか理解はされないだろう。これは私たちの間を長きにわたり、ともすれば一生涯、あるいは永遠にだって隔てる広大で深遠な断絶に違いない。けれどもその断絶は溝ではない。暗渠だ。踏み抜かれることのない堅牢な足場で渡されたその上を私たちは行き来し、またその上で連なり重なるのだ。
「そうじゃないなら、私みたいになるの。死んで幸せになることを、自分自身に許してもらえなくて、生きて幸せになれって、自分自身に命じられて、死に損なうの」
私は片腕を胡蝶くんの眼前にかざしてみせた。そしてもう片方の手で胡蝶くんの片方の手を取り素足に触れさせる。その瞳と指先は、初めて会った日のように、私の傷痕に優しかった。しかし胡蝶くんは顔ごと目を反らし、傷ひとつない足の内側に向かわせようとした私の手を、腕に力を入れて留めるのだった。
「生きて幸せになるほうが、死んで幸せになるより、よほどいいことじゃないか」
「どっちも同じよ。死ぬことは生きることに含まれてる。だから死んで幸せになる人もいるの。私だって胡蝶くんと会う前に死ぬことができていたら、それはそれで幸せだったのよ」
胡蝶くんが項垂れる。私はその頭に両手を回し、胸元に抱き寄せた。胡蝶くんは少し抗おうとして、諦めたようにすぐ止まった。私は髪の毛や背中を撫でながら、子守唄のように囁いた。
「胡蝶くんが辛いのは、お兄さんに許されていないからなんだよね。ううん、そう思ってるからなんだよね。大丈夫だよ。もし胡蝶くんが許されていないなら、胡蝶くんはとっくにお兄さんに殺されてる。私が絶対に許さないって思ったお父さんをそれでも殺さなかったんだから間違いない。私のお母さんが私やお父さんを巻き添えにせずに自殺したのだってそういうことよ」
「だからいきなりぶっこむのやめろって…」
「胡蝶くんの前の学校の担任の先生が私のお父さんだったって話する?」
「情報量が多くて整理できそうにない…」
「私もこの間知ったんだけどね。胡蝶くんの家に行って、胡蝶くんのお父さまとお母さまにお会いしてたら、私のお父さんがやってきて、家に帰ってからそのことを聞いたの。ほら、ちょっと前に胡蝶くん、あやめちゃんと薊くんと一緒に遊びに行ったでしょ? あの日」
「お前俺の知らないところで何してくれてんだ…」
「連絡してくれないんだからしょうがないじゃない」
「親父もお袋もなぜ黙ってた…」
「こんな話、おいそれとできるわけないでしょう」
不服を噛み殺すように唸って、だけどようやく胡蝶くんが静まったところで、私は話を戻していく。
「お兄さんは胡蝶くんに生きててほしいって思ってる。でも生きてるだけじゃだめ。生きて幸せになってほしいって思ってる。お兄さんは胡蝶くんが、死んで幸せになれる人じゃないってわかってるの。だから生きて、そのうえで幸せになってほしいの。私があんなに恨んだお父さんにだって、そう思ってたんだから間違いない。お兄さんは胡蝶くんのことが好きなのよ。私もお父さんのことが好きなのよ」
「お前本当にそう思ってんのか」
胡蝶くんがそう言いながら顔だけを上げてくる。
「自殺した奴らが俺たちを恨まず、少しも憎まず、生きて幸せになることを望んでるなんて、本気で言ってるのか」
詰問の度合いは薄れている。どんな答えを聞いてもそれなりに納得するだろう。元より偽るつもりはない。思っていることをただ伝えてあげればいい。
「私が言ってるのは、遺されたほうがそうだと信じることは、いけないことでも悪いことでもないってことよ。そう信じて生きていっていいし、幸せになっていいの。胡蝶くんと会ってからの私もそうだった。この人には幸せになってほしいって、死ぬときはいつもそう思ってた。生きてる今もそれは変わらない。胡蝶くんに幸せになってほしい。できれば笑っててほしいな。私ずっと見てるから。近くからでも遠くからでも、ずっと胡蝶くんのこと見てるから」
見開いていた目がつむられ、半開きの口が閉じられ、ゆっくりとその頭が俯いていく。そのまま私の胸に顔を押し当てて、喘ぐような呼吸を一、二度経た後、胡蝶くんは言葉にならない声で絶叫した。叫び終えるとまた叫び、それを幾度となく繰り返した。
部屋中に響き渡る慟哭と、宝物の服と新品の下着と傷のない素肌が熱く濡れていくのを、私は心地よく味わっていた。付き合いのように熱を帯びてきた鼻を啜りながらふと見上げた遥か遠くに、お母さんの姿が見えた気がした。
私を奈落の底に突き落とし、その反動でどこまでも昇っていくお母さんを、私は眺めている。私のすぐ近くにはお父さんがいるはずだ。胡蝶くんや、胡蝶くんのお父さまやお母さまも、同じ地層に捻じ込まれているだろう。そうして自殺で大切な人を失った全ての人が、同じ光景を目にしている。
その視界が熱く歪むのは当然のことだ。止められない涙を形作るのは、大切な人を失った悲しみや寂しさ、その大切な人への怒りや憎しみ、それほど大切な人を手放した己への自責、耐えられないほどの苦しさ。
それでも私たちは、遠く離れた大切な人の姿を、目を細めて見届けてやればいい。大切な人が文字どおり命を懸けたその選択を、私は寿ぐ。
ぼやけてかすんだお母さんの顔が、泣いて微笑む私を見つめて、笑っていた。今にも息が詰まりそうな苦しみを抱えて、それでも幸せになろうとしている私のことを、寿いでくれている。もし私が同じ高さにやってきたとしても、その表情は変わるまい。いつか胡蝶くんにも見てほしい。胡蝶くんのお兄さんも、同じ高度で胡蝶くんを見下ろし、笑っているだろうから。
しばらくして泣き止んだ胡蝶くんは、しがみつくように私を抱き寄せてきた。そして私の体をよじ登るように、自分の体を持ち上げる。さながら深い水の中から、再び息をするために顔を出すように。その呼吸は激しく、いつまでもそのまま続きそうに、しかし次第に落ち着いてくる。やがていつもと変わらない穏やかな息吹を取り戻し、それでも胡蝶くんは私を離そうとしない。
頭ひとつ大きな胡蝶くんに全身を覆われて、私はぼんやりと既視感を覚え、すぐにその正体を悟る。学校でしばらく会えないと言い渡され、跨線橋で胡蝶くんの苦悩に触れ、この家の中で生涯最後に自殺を企図し実行した、あの日の夜。暗闇の中で見た光景と同じように、私は傷だらけの腕を胡蝶くんの背中に回し、胡蝶くんを抱き締め返す。
五感を研ぎ澄ますまでもなく伝わるのは、骨張った体とそこに宿る温もり、半ば乾いた汗のにおい、ゆっくりと脈打つ心音と、それに合わせて動く喉元。随分長いこと接していないのに、口の中には唇の味と感触が鮮明に思い出されていた。そうだ。私はこっち側なんだ。あっち側になんて、行ってやるものか。
「キスツス」
私の頭上で胡蝶くんの声がする。いかにも男臭くて低くてはじめはちっとも趣味じゃなかったのに、いつしか持ち主の全てと同じようにいつまでも聞いていたいほど愛するようになったその声は、静かに、だけど不安そうに続けた。
「これからも俺と一緒に、生きていってくれるか?」
命令されれば従った。お願いされれば叶えていた。だから私はこう答えることにした。
「あなたと一緒なら――」
それでも口に出すのは勇気が必要だった。思わず言い淀んだのは自問したからだった。本当にそれでいいのか。考えるまでもなく答えが出た。愚問だった。だから私は今日まで生きてこれたのではないか。それは彼も同じことだ。私がいたから彼はここまで辿り着いてくれたのだ。そしてそれを彼が望むなら、存分にそれを選んでくれていい。何も怖くなんてない。あなたと一緒ならどこまでだって生きていける。あなたと一緒ならいつまでだって幸せでいられる。だからあなたと一緒なら――
「死んでもいいよ」
数え切れないほどの回数を経た自殺未遂のときと同じように深く長く、しかしそれとは異なる心地良い眠りから目覚めたとき、自分がどこにいるのかもよくわからなくなっていた。
体が触れるほど近いところに胡蝶くんが眠っていて、だから自分の家ではないような気がして、それからどうしてここに胡蝶くんがいるのだろうと思ったところで、昨夜の営みを思い出した。
仔細はぼんやりしているが、痛みとともに訪れた暖かなさざ波が集まってくるような幸福は、その瞬間よりもずっと穏やかだけど遥かに強い。ともに一糸まとわぬ姿であることや、持ち主を再現するように絡み重なる床の衣服に顔が火照り、昨夜までとは違う肉体を意識するようになる。
そういえばと、あの後で少しだけ目を覚ましたことを思い出した。月明かりに薄っすら浮かぶ最愛の人の意外や無邪気な寝顔に癒されるのも程々に、慌てて日にちを確かめて、安心してまた眠りに落ちたのだった。
日差しの中、改めて今が8月6日であることを確認する。私たちは、越えたのだ。
相変わらず愛くるしい寝顔に手を添えてみると、戸惑い怯えるようにその表情が歪み、同じように全身が動揺した。それは突如先を歩く人を失った胡蝶くんの恐懼と逡巡のようだった。
すぐに私はもう片方の手でその体に触れ、はたと目を開いた胡蝶くんに微笑みかける。何も心配しないでいい。あなたのそばには私がいる。胡蝶くんはややあってから顔を反らし、半端な挨拶とともに不器用な笑顔を半分だけ返してくれた。
私はようやくいつも迎える朝のように、水を替えるため枕元の一輪挿しを手に取り、顔の前に持ってきたところで、思わず声を上げていた。飛び起きた胡蝶くんが見たままを口にする。
「枯れちまってるな」
そしてもう一度、今度は怪訝そうに言ってくる。
「嬉しそうだな」
嬉しそうなのではない。嬉しいのだ。私は微笑を深めてその理由を教える。
「キスツスの花って、一日花なのよ。正午に咲いて、その日のうちには枯れてしまう。あんな花言葉になったのは、それが理由だともいわれてる。なのにこの花は、今日までずっと咲いていたの。ずっと死にたくても死ねなかった、私みたいに」
「その理屈だとあなた今日死ぬことになるんですけど…」
「それでもいいわ」
「よくねえよ」
「だいたいそんなもん、いつどこで手に入れた」
「どうでもいいじゃない」
「よくねえっての」
私は力を抜いて胡蝶くんにもたれかかってみる。胡蝶くんは慌てて私を支えてくれた。私は両手で包んだ一輪挿しを、胡蝶くんにもよく見えるように掲げてみた。
「いつの日かその日は来るじゃない。そのときも必ずやってくる。大切なのはその日までをどう過ごすか、そのときをどう迎えるか」
胡蝶くんは諦めたように息をつくと、やおら両手を伸ばしてきて、私の手を包んでくる。少しだけ、私の視界が熱く滲む。
私たちの掌中でキスツスの花は、力なく首を下に曲げて、息絶えていた。
それはまるで、とても幸せだったと笑って死んだ、今より先のいつかを生きた、私のようだった。