その2
部室棟は校庭の外れにある。
偏差値や知名度や生徒数でぶっちぎりの平均を誇る我が校は、当然のように部活動が盛んではなく、それを期待している生徒もいない。ましてや運動部ときたら弱小揃いで、掛け持ちして試合のときだけ参加する部員も少なくない。
三年生の部長と同学年の副部長だけで構成され、平の部員が皆無という卓球部に至っては、追いやられるように宛がわれた一室でしかし、息を切らすほどに気を吐いている。実際いつも息切れするほど動いているはずだ。
その遠因がどうやら私にあるらしいことは、薄っすら気が付いている。年度が明けて新入生を迎えたものの相も変わらず新入部員を確保できなかったが、それより前に幽霊だった副部長が蘇生していたことによって日々の練習に明け暮れるようになり、ことに練習相手に事欠かなくなった部長はその肩書きに恥じない実力を身につけて、地区大会とやらを席巻したという。
彼女の全国大会出場を祝福する垂れ幕を掲げる校舎を横目に、私は部室棟に向かう。
今年度になって、彼女の調子がすこぶる良いということは、このように嫌でも耳目に入っていた。だから今日もいるだろうとは思っていた。とはいえ手ぶらで顔を出すのも気が引けたため、手土産を用意することにした。
卓球部の部室ではピンポン玉の跳ねる音が外からも聞こえていた。リズミカルだがスピーディーで、とても二人だけで演奏しているとは思えないラリー。なかなか止むことのないそれが力強い破裂音に続き、不規則なテンポを残して途絶えたところで、私はおもむろに戸を開け放った。
会心のスマッシュの余韻に浸るでもなく張り詰めたままのあやめちゃんと、床に跳ねるピンポン玉を捕まえるため姿勢を崩していた薊くんが、揃ってこちらを見た。そして各々表情を変える。薊くんは怪訝そうなだけだが、あやめちゃんはそれに加えて迷惑そうであり、早くも私は圧を感じた。
「差し入れよ」
努めて平静を装いながらそう言って、たこ焼き二パックが入った袋を先頭に中に入る。薊くんが受け取ってくれたのを幸いとばかり、そのまま中央の卓球台を横切り奥まったところに陣取った。
薊くんはあやめちゃんに近寄り、ろくに袋の中を見もせずにあやめちゃんが言ってきた。
「オマケの分食べたでしょ」
「人聞き悪いこと言うわね」
憮然とする私を見つめ、あやめちゃんは自分の口元をつついた。
「青のりついてる」
「うそっ」
「うそ」
思わず口を押さえた手を、離すことができなかった。私は赤と青が同時に浮かんできたような顔をきまり悪く反らし、あやめちゃんは鼻を鳴らす。
「あのオジサンがキスツスにオマケしないわけないじゃない」
「そして君が好物を前にして我慢できるはずもない」
「残ってるのが奇跡だわ」
「確かに正規の二人前だ。よく頑張ったね」
「本当はもう一人分あったんじゃないの? もっとかな?」
そこまで侮辱される筋合いはないという気持ちが言葉になり、思わず口をつんざいていた。
「馬鹿にしないでよ」
あやめちゃんの表情がみるみるうちに敵意で染まる。私も似たようなものだ。
「頼んでもないのにいきなりやってきて何のつもり」
「ありがとう」
来なきゃよかったわよと言うところだった私と、掴みかかるはずだったあやめちゃんは、その言葉で我に返る。薊くんは穏やかに続けた。
「たしかに口が過ぎたね。すまない。でも、さっき昼食を済ませたところだから、あとでいただくよ」
あやめちゃんはそっぽを向きつつも小さく頷き、私は詫びるように頭を垂れた。
「しかし、急にどうしたんだい? もう、君とこうして話をすることは、ないとまで思っていたんだけどな」
「どうせ胡蝶くんと喧嘩でもしたんでしょ」
「ああ、去年もあったな。花火大会でせっかく浴衣着てきたのに一言も褒めてくれなかったとかなんとか言って泣きついてきたな」
「ストレスで生理が重くなったとかいうから胡蝶くんのこと問い詰めたけど、あいつは食い物の屋台しか見てなかったって聞いて、匙投げたあれね」
「あのあとの仲裁は大変だったな」
「バカップルと付き合うのも疲れるわ」
それはきっと、私たちが一番楽しかった時期だった。もう戻らない日々。きっと私が投げ捨ててしまった日々。そして私は、今度は胡蝶くんさえ失いかけている。
堪え切れずに泣き出してしまった。立ってもいられなくなってへたり込んだ。さすがの二人も寄ってきた。
「あのときのことは謝る。ごめんなさい。言い過ぎた。だから助けて。胡蝶くんが死んじゃう」
そんな感じのことを繰り返し泣き叫んでいた。言えば言うほど本当にそうなってしまうような気がする。それでも言わずにいられなくてまた叫ぶ。その何巡目かで私の口の中がたこ焼きの味で熱く満たされる。噛み砕く拍子に涙がこぼれてぼやけていた視界が開ける。薊くんが開いたパックを持っており、あやめちゃんが箸でつまんだ次の一つを私の口元に構えているのがはっきりわかった。
「遊ばないでよ!」
飲み下したところでそう言って開いた口の中にまた一つ放り込まれ、私はそれを咀嚼するために再び静まる。
「だったら食ってんじゃないわよ」
「まずは落ち着いてくれ」
二人のほうが私なんかよりよほど私の扱いに慣れている。大人しく餌付けされているうちに泣き止んでいたが、ふと気が付くや慌てて口を押さえた。
「あとで食べるって」
「嘘に決まってんでしょ」
「本当はもうすぐ切り上げて、全国大会の打ち合わせついでに食事をしてから、帰るつもりさ」
結局二パックとおまけの分を一人で食べ切る具合になった。今日はまだ朝しか食べてないし、夕飯を摂らなかったような昨日を経ているから、もう一パックは入りそうだった。でも、大好物のここのたこ焼きも、今日は味気ないものだった。
その後でようやく私は胡蝶くんのことを話すことができた。二人とも胡蝶くんの通院やその背景については知らなかったらしく、多少面食らったようだったが、これまた私に対する応用でうまく受け止めることができたらしい。
「ちゃんと病院に行ってる。言われたとおり薬も飲んでる。落ち込んでる理由もわかってる。人に説明することもできてる。そもそも死にたいってわけじゃないのよね」
「そうらしいな。だとすると、あんまりこっちから突っつくのもよくないだろう」
「8月6日ね。待ってればいいか」
「そんなに先のことじゃないしな」
しかし私にはその温度差が我慢ならない。
「胡蝶くんが死んじゃってもいいわけ? 友達でしょう!」
「私ら何遍も友達助けようとして裏切られてきたからねえ」
ぐうの音も出ずに押し黙った私を置き去りにするように、あやめちゃんは卓球台に戻り、向かいに立つよう薊くんに顎で命じた。腰を上げた薊くんはしかし、それを全く無視して私の隣に移ってきた。
あやめちゃんは聞こえよがしな溜息をつくと、八つ当たりみたいな勢いで卓球台を壁に押し付け、壁打ちを始めた。一定のテンポでピンポン玉が跳ねる音をバックに、薊くんがおもむろに聞いてくる。
「胡蝶って、どんな奴だい?」
「………」
「約束を破るような奴かい?」
「………」
「だったら言われたとおり待ってればいい」
「………」
「大丈夫。胡蝶は君を残して死ぬようなことはしないし、君を連れて行くようなこともしないさ」
私もそう思わないではない。でも、たとえそうだとしても、私は納得できずにいた。
「私、胡蝶くんの助けになりたい。胡蝶くんは私を助けてくれた。だから今度は私が胡蝶くんを助けたい」
「辛いことを避けるために死ぬことばかり選んできたあんたに何ができるのよ」
氷水のような言葉を浴びせられて、私は沈黙する。
「今君がやるべきことは彼を助けることじゃない。君自身を助けることだ。ちぎれた命綱じゃ誰も救えない。まずは綱を編み直せ」
それを拭うような口調で語りかけられ、私は聞いた。
「…どうすればいいの?」
「それがわかりゃあんた生かすのに苦労しなかったわよ」
「………」
「君は彼の家に行ったことがあるかい?」
「ううん…?」
「じゃあ行ってみるといい。そして彼の両親に会ってみるといい」
「まだそこまでの関係になってないのに…」
「誰が結納してこいと言った」
さすがの薊くんも声が強張る。私は赤らめた顔を隠すように首を振った。
「そうでなくても親御さんに会うなんて…嫌われたらどうしよう…」
「あんな激情的な人間の作り手とは思えないくらい温厚な人たちだよ。石もて追われることはないさ」
「会ったことあるの?」
「この間、遊びに行ったときにね」
「ボードゲームでボロ負けしたわ」
切り裂くようなスマッシュの音が炸裂し、思わず見遣ってしまったが、すでに平穏なラリーに戻っている。
「あれは完全にいつかの意趣返しだったな。色々やったけど一つも勝てなかった」
「ダイヤモンドゲームってあんなに早く勝負がつくものなのね」
「ああ、あれには感心したよ」
まったく話についていけない疎外感に耐えかねて思わず呟いていた。
「なんで誘ってくれないの」
「絶交されたのは私たちなんだけど」
「胡蝶くんも言ってくれなかった」
「気ィ遣ったんでしょ」
「兄さんの命日だっていうから、先に手を合わせておいた」
「まあまあかっこよかった。紹介してもらえばよかったな」
「なんでそんな日に行くの」
「招かれたんだからしょうがないでしょ」
「一度は断ったんだけど、一家揃って墓参りなんて行きたくないし、用があるならそっちを断れるからってさ」
「遊んでるうちにお父さんとお母さん帰ってきたわ」
「それから夕飯をご馳走になったよ。注文するから食べたいものを教えてってさ。遠慮するつもりで僕とあやめで別のものを希望したのに、構わず両方を多めに用意してくれた。残りは土産に持たされたよ」
「なんで呼んでくれないの」
「私たちの取り分がなくなるでしょ」
「そのときに兄さんのこととか、遺族のこととかを聞かせてもらったんだ。君より早く会っていたら、君との付き合い方もまた違ったかもしれないなんて、思ったもんだ。もっと頑丈な命綱を作れたかもしれないなって」
「私は無理だったと思うな。どうせズバズバ切り刻まれてたよ。胡蝶くんが来るまで同じだった」
「どんな立場で会ったらいいの」
「なんでもいいじゃない。クラスメートでも、恋人でも、未来の嫁でも」
「認めてもらえるかな…」
「なに真に受けてんのよ」
「………」
「サバイバーでもいいんじゃないか」
「サバイバー?」
「生還者のことだ。大病とか事故から生還した人をそういうんだ」
「あんたくだらない造語ぽこぽこ編み出すくせに一般用語は知らないのね」
「そこまで偉そうなこと言えないさ。僕らもあのとき教えてもらうまで知らなかったろう」
「私がそれなの?」
「君は自殺サバイバーだろう」
「そんな大層なものじゃないわ。ただの一度も死ねなかった、哀れな死に損ないよ」
「胡蝶と出会えた今でも、そう思っているのかい?」
「それは…」
「そういう話をしてみてもいいんじゃないか。君の力になってもらえるどころか、君が力になれるかもしれない」
「私が…?」
それきりしばらく黙った後、私は呟いた。
「どうして私はあの頃、死ねずにいたんだろうね」
ピンポン玉の音が絶えた。
「あんなにも死にたくて、毎日を必死で死のうとして、色んな方法を試したのにね。二人の前でも、何度かやったよね」
「軽トラ、十トントラック、屋上」
「女子トイレのときは事後だったな」
「どうしてだと思う…?」
「不死身だからでしょ」
「…真面目に」
「じゃあとっくに死んでるのに気づいてないだけよ。鈍感すぎて」
「あやめちゃん…私が生きてて良かったって、今でも思ってくれてる…?」
「あんたじゃなくても死んでて欲しいなんて思うほど誰かを嫌ったことはないわよ」
「ちゃんと答えてくれてない…」
「イエスと捉えていいよ」
「でも…胡蝶くんの家なんて知らないし…今の胡蝶くんじゃあ…聞いたって教えてくれないよ…だいいち…いつ行けばいいのかもわからないし…」
「あーもしもし、胡蝶くん?」
首が飛んでいく勢いで私は顔を上げていた。卓球台によりかかって手持無沙汰にラケットの上でピンポン玉を跳ねさせているあやめちゃんが、もう片方の手に握ったスマホを耳に当てているのだった。
「今度遊び行こうよ。私とあざみんと胡蝶くんで――練習? 別にいいよそんなの。息抜き息抜き。地区予選始まる前にーって胡蝶くん家行ってからこっち全然遊んでなかったじゃん。友達付き合いのほうがずっと大事――そうね、早いほうがいいね。明日とか明後日とか――いやいや今度は外行こうよ外。もうあんたとボードゲームやりたくない。それにお父さんやお母さんがいるといろいろ気ィ遣わせちゃうでしょ? また寿司とピザ繰り出されてもこっちも悪いもん。だからお父さんとお母さんがお家にいる日がいいね。となるとお父さんのお仕事がお休みのときがいいか。そうねそうしよう。あと胡蝶くん家の住所ってどこだっけ? 迎えに行くからあとで送ってよ」
「なんで私の電話には出ないのにあやめちゃんの電話には出るのよ…」
「そりゃあ友達だからね」
私のぼやきに薊くんが答える。
「恋人には話せないこともあるものさ」
「知ったみたいなこと言うのね」
「彼がどれだけ僕たちに君の惚気話をしてると思ってるんだ」
私の顔が一瞬で紅潮する。
「君も、前はそうだったろう」
そしてそれが同じ速さで元に戻る。そうかもしれない。去年の10月30日までは、そうだったかもしれない。
程なくして、三人が遊びに行く日と私が片喰家を訪ねる日が、私の意向を全く無視して決定した。
「いなかったらどうするのよ…」
「また別の日に行けばいい。また誘っておくよ」
「はいはーい、それじゃあねー」
あやめちゃんは明るい口調で軽い別辞を述べてからスマホをしまい、ピンポン玉をこちらに軽く弾く。私は思わず身構えた体を避けていたが、薊くんは事もなげにそれを掴んでいた。
「部長が相手をしろってさ。最近は僕なんかじゃ歯が立たなくなってきたんだけどね」
そう言って薊くんが腰を上げた。すでに卓球台は元の位置に戻り、微調整をされている。もう帰るべきだろうし、これ以上の収穫もないだろう。私も遅れて立ち上がった。
「忘れないでね、キスツス」
部室を出ようとしたところで、あやめちゃんの声が届いた。
「私たちは今あなたが胡蝶くんに感じてる思いを、ずっとあなたにしてきたのよ」
「………」
「ううん、今でもそうね」
「…いつまで続くの?」
「あなたが自殺以外の方法で一生を終えるまで」
「………」
「嫌ならとっくにやめてる。だから気にすることはない。僕もあやめも、君たちのことが大切なんだ」
その後で、久しぶりにあやめちゃんから送られてきたメッセージには、見知らぬ住所だけが無機質に記されていた。
気の利いた返事はもちろん条件反射のようなそれもできず、私は来たる日のシミュレーションの続きに励むのだった。
一方的な約束の日の昼下がり。私は失礼に当たらないことを第一にしつつ、おしゃれともう一つの目的も両立することを心掛けた精一杯の恰好で、初めて足を踏み入れた住宅街の一角にいた。
屋根だけのガレージに覆われて地味な大衆車が一台停まっている、真白き瀟洒な二階建ての一軒家。こういうときは、もとより肌を出さない服はちょうどいい。
家人である胡蝶くんは、今頃あやめちゃんと薊くんと一緒に、どこかに行っているはずだ。でもほかに誰もいなかったら、私はどうしたらいいだろう。そんな報告をしなければならないことのほうが気鬱だった。それを避けるための最初の一歩を、私は指先で踏み出す。
こちらにも聞こえるインターホンの音からしばらくして、ドアが開錠される。ほっとするより早く電流のような緊張が走って背筋が伸びた。
現れたのは、胡蝶くんを丸く柔らかくしたような男の人だった。お父さまだということは言われなくてもわかった。五択ぐらいだったら迷わず選べる気がする。その驚いたような反応は、予定外の来客のためであることを後に知るが、今の私にはそこまで思いを馳せる余裕はなかった。
「初めまして。胡蝶くんとお付き合いしている、クラスメートの葵キスツスです」
私は自己紹介とともにお辞儀する。お父さまはひとたび表情を緩めたが、本当に申し訳なさそうにそれを変え、口でも言った。
「そうなんですか。本当に申し訳ないけど、胡蝶は今、出かけてるんです。また来てもらえませんか」
「いいんです。今日はご家族とお話ししたかったんです」
私はこうしようと決めていたとおり、胡蝶くんとの約束を破った。このために、袖をまくりやすい服にしていたのだ。傷だらけの両腕を立て続けに見せつけられたお父さまは、おののくように息を呑んだ。
「お兄さんのことも知ってます。今の胡蝶くんのことも知ってます。でもご家族のことは…いいえ、ご遺族のことは何も知りません。だから知りたいんです。教えてほしいんです」
お父さまは押し黙っていた。その胸に去来する思いがどのようなものなのか、私にはわからない。だから知りたい。教えてほしい。胡蝶くんを助けるヒントが欲しい。
「上がってもらいましょうよ」
家の中から優しい声がした。お父さまの後ろに女の人が佇んでおり、私と目が合うと微笑んでくれた。胡蝶くんとはあまり似ていないが、口角の上がった口元はそっくりだった。私はすかさず一礼する。
「先生もじきにいらっしゃるぞ」
「構わないわ」
お母さまはまだ躊躇しているお父さまを尻目に私の手を取り、優しく引き入れてくれた。それから肘のところで重なり弛んだ袖を丁寧に直してくれる。小さいけれど、温かい手。
「かわいい彼女がいるって聞いてたけど、想像してたよりもずっとかわいいわね」
「そんな風に言ってるんですか?」
思わずにやけてしまってから、悄然とする。
「私にはそうでもないんですけど…」
「胡蝶から聞いたわけじゃないわよ」
私は目を瞬かせ、それから首を傾げた。
「学校のことはほとんど話してくれないのよ。転校した日に、友達ができたって言ってくれたぐらい。でもこの間、初めてその友達を連れてきたわ。鈴懸さんって女の子と、擬宝珠くんって男の子。胡蝶が席を外してるときに、鈴懸さんがこっそり教えてくれたのよ。かわいい彼女がいるんですよって」
胸が痛み、それから温もってきた。
「あの子たちとも仲いいの?」
「ええ…」
言い淀んだけれど、私は意を決して答えた。
「友達です…」
そしてそれは言霊のように温かく私を包んできた。胡蝶くんとは違う、けれども大切な存在。
「私が何度自殺に失敗しても…ずっとそばにいてくれました…私がひどいこと言ってしまっても…見捨てないでいてくれました…」
「そう…いいお友達を持ったわね」
二人がいなかったら、私は胡蝶くんと出会うこともなく、もうこの世にいなかったのかもしれない。でも、二人がいても、私は死に損なっていたものだ。二人がいたから、私は此岸に繋ぎ止められていたのだろうか。いやそれならば、もっと多くの人が死なずにいるはずだ。死ななくてもよかった多くの人が、今も生きていたはずだ。
そして苦しんでいたのだろうか。
さらに中に促された私は、まずはお兄さんとお会いすることを申し出る。仏間というほどのものではないけれど、小さな一室がそのための部屋として設えられていた。
壁にかけられたサイン入りのユニフォームが最初に目についた。私でも知っているプロ野球チームのものだが、サインは胡蝶くんの字より崩れていてとても読めないし、ローマ字の選手の名前を見ても誰のことだかわからない。透明のケースに納められた何の変哲もないボールはホームランボールだという。ホームランになったボールを捕った人がもらえるというものだと把握しているが、特に確認はしなかった。胡蝶くんの話ではお棺に入れたものも多かったようだから、故人そのものを偲ばせるものは、リトルリーグの大会で準優勝を遂げたことを示す表彰状とトロフィーぐらいだろう。準優勝ってすごいな。でリトルリーグってなに。それらを背中に従えた詰襟の制服姿の遺影をしばらく見つめていてから手を合わせる。どちらかといえばお母さま似で整っている。あやめちゃんはああ言っていたけど、私には弟のほうが好もしい。恋人であるという欲目だろうか。
ダイニングに場を移し、冷たいお茶をご馳走になる。やはり気が張っていたのか、一息に大半を飲み干してしまったが、待ち構えていたように減った分が気持ち多く注がれた。それからお菓子を差し出された。深い皿の底が見えないほど盛られた個包装の大群に面食らっていると、同じぐらいの量だが別の種類の大群がひしめく深皿が並べられて生唾を飲んだ。来る前に昼食を済ませたばかりで、さすがに食欲を刺激されたわけではない。
「足りない?」
「いえ、足りますけど」
「鈴懸さんが言ってたのを思い出したのよ。すごくよく食べるんですよって」
あやめちゃんのしたり顔と使い慣れてなどいないし実際やれるはずもないのにしばくという単語が頭に浮かんだ。
遠慮するのがいいのか好意に甘えるのがいいのか迷いながらも、固辞するという選択肢はないため手を伸ばした。度が過ぎると我に返ったのは、延べにして皿一つ分を一人で平らげた頃だ。
もっともお二人にとっては息子の恋人の健啖など意に介さなかったらしく、それまでの間もその後も、そのことについて言及されることもなかった。あるいは私と同様に、それを気に留めないほど話に没頭していたのだろう。
口火を切ったのはお父さまだった。
「4月に昇進したばかりだったんです。それまでもグループの長としてマネジメントもしてましたが、部署全体を任されるようになりましてね。そのときに入ってきた新人の指導や、前から手を焼いていた部下の面倒も見なくてはいけなくて、遅い時間に帰ることも多かったんです。精神的にも余裕がなくて、あの子にも胡蝶にも、気を回すことができませんでした。こっちに移ったときに前の地位に戻りましたから、今は家族と向き合うゆとりがありますが、本当だったら昇進も断って、もっと早くにそうするべきだったんです」
「お仕事は何をされているんですか?」
「ハウスメーカーのファイナンシャルプランナーです」
「そうなんですか」
「住宅購入を検討されているお客様に、住宅ローンについてご説明したり、生活設計をお聞きしたりして、アドバイスをするんです」
「大変そうですね」
「職業柄、不動産や税金や相続については弁えていますが、正直なところ、社会保険についてはあまり得意ではないんです。特に年金なんて制度がしょっちゅう変わるもので…え、なに?」
お母さまが肘でつついているのだった。
「多分わかってもらえてないわよ」
「そうかな」
「私だってわからないもの。わかってないでしょ」
「すいません」
私は小さく頷いた。実際、半分も理解できていない。
「要はサラリーマンよ。私も今は専業主婦だけど、ここに越してくる前、もっと正確に言えばあの子が死ぬまでは、近くのスーパーでパートをしていたの」
「扶養の範囲内ですけどね」
「わかる?」
「それはわかります」
「僕はもう少し時間や日数を増やしたほうがいいと言っていたんですがね。社会保険料がかかるとはいえ将来的には国民年金だけより厚生年金ももらえるほうがいいし、それなら傷病手当金ももらえただろうし」
「すいませんそれはわかりません」
私は遠慮せずに首を振った。お父さまは目に見えてしょんぼりする。
「とにかくどこにでもあるような家庭だったの。こう見えてこの人も結構仕事はできるみたいで、生活に困ることもなかった。子供二人も健康で、問題らしい問題は何もなかった。少なくてもそう思ってた。そう信じて疑わなかった」
そこから先は言葉を要しなかった。私がどこまで聞いているかを明かすのは野暮なことだし、お二人にそれを求められることもなかった。短い沈黙の中、私たちは追憶と想像でその日を迎える。そしてまた、時計の針を進めていき、程なく今日この瞬間に至っていくのだ。
再びお父さまが口を開く。
「忌引に加えて、溜まっていた有給休暇を消化して、諸々のことを片付けてようやく仕事に戻った折に、上司が気を遣ってくれて、勤務時間中にもかかわらず時間を取ってくれましたが、あまり話す気にはなれませんでした。誰かに話しても仕方ないと思ったんです。その人が悪いわけじゃないんですがね」
「遺族ってね、事務的な葛藤が残るものなのよ」
「事務的?」
「家族が自殺したことを言うべきだろうか、言わないほうがいいだろうか。言うとしても、知り合い全員に言うべきだとは思えない。それじゃあ誰に言うべきだろうか、誰には言わないほうがいいだろうか、みたいなことね。あの人だったらどう受け止めるだろう。この人だったらどんな反応するだろう。気が付けば序列をつけていたり、品定めをしたりしてる。それだって正確とは限らない。かといって試すということもできない。言ってしまって、嫌な思いをさせたくないなあとか、言わないと決めた人が後で知って、何で言ってくれなかったなんて言ってきても面倒だなあとか…それでも私たちはましなほうね。毎年顔を合わせるような親族はいないし、家族ぐるみの付き合いをしている人たちがいたわけでもない。言ったら言ったでいろいろあるの。『あんな風に家族を失って、よくそんなに平気ね』なんて言われたって、『じゃあ道端でのた打ち回ってたらいいのか』って思うし、『あなたは長生きしなさいよ』なんて言われれば、『息子が死んだのになんで私が長生きしないといけないの』って思うの。『元気出して』とか、『生きていればまたいいことがある』って言われても、付き合いの浅い人からならあんまり気にならないけど、昔からの付き合いの人だと、『もうちょっとわかっててほしいな』って、勝手にがっかりしちゃうの。アドレス帳から何人も連絡先が消えたわ」
「配慮のない人って多いんですね…」
「どうしたらいいのかわからないのよ。家族が自殺した人にかけるべき言葉なんて、誰も知らないもの」
私が投げ捨てたものを拾い上げるようにお母さまが言い、お父さまが続けた。
「自分の身に自殺というものが降りかかるとは、あのときまで思いもしませんでした。あの子が自殺して、世の中にはこんなにも自殺というものがあるのかと知ったぐらいです。年間に何万人も自殺で死んでいる。ということは、きっとその数以上の遺族がいる。なぜ、それを知ろうとしなかったのだろうと、後悔しました。でもそれを知っていても、どうだったでしょう。あの子のことを助けられたでしょうか。あの後の僕でさえ、家内に随分ひどいことを言ってしまったものです」
「男親と女親の違いはあっても、同じあの子の親だし、夫婦なんだからわかってくれるだろうって思って、いろいろ言っちゃったのよね。どうすれば死なないでいてくれたかな。どうすれば生きていてくれたかな。昔あんなことあったわよね、それが悪かったのかしら。あの子たちが大きくなったからって、働きに出るんじゃなかったのかしら。そんなことを取りとめもなく終わりもなく、延々とね…退院してから少しして、二人きりのときにそんな話をしたのよね。そうしたら言われちゃった」
「『そんな話を聞かせて楽しいか』」
「ひどい」
私は思わず呟いていた。お父さまは肯う。
「本当にひどい夫です。ましてや退院してきたばかりの妻に言うようなことじゃない。そのせいでまた落ち込ませて入院させてしまった。こんなひどい男が父親だから、あの子は死んだんでしょうか」
お父さまは目元をしきりに拭っていた。そのもう片方の手をお母さまが両手で握ってあげている。納得はできないけれど、私が口出しする資格もない。
「でも、本当に反省したのはその後でした。僕たち遺族はそれでも進まなきゃならない。周囲はその進んでいる遺族を見て解決したのだと勘違いする。その後で件の上司から言われたんですよ。『元気になったみたいでよかったな』って。思わず掴みかかってましたよ。『泣きながら仕事できるか!』ってね。後にそのことが社内で問題になって、僕は今の支社に追い遣られました。まあ、悪くはなかった。あの瞬間に、自分の認識と他人の認識の間にズレがあることに気が付きました。妻もそうだったんだとわかりました。それを突っぱねるようなことをしてしまった。びっくりしている上司と仕事を放り出してすぐに病院に行きましたよ」
「連絡もなくやってきたこの人にその話をされて、許してくれって頭を下げられたけど、私のほうこそ謝ったわ。子供を自殺で失っても、残された家族のために働きに出なければいけない夫の気持ちには、寄り添えていなかったことに気が付いたの。その日のうちに病院を出たわ」
私はほっと息をつく。
「もうお体は大丈夫なんですね」
「大丈夫じゃないわ。その後も短いけれど二回入院したし、薬も手放せなかった。今だって死んでしまいたいぐらい辛い」
そして己の浅慮に愕然とした。私は何を聞いていたのだ。解決なんて、するはずがないと、なぜわかっていないのだ。いや、わからなくて当然なのだ。でも、それが情けなくて、申し訳なかった。
「ごめんなさい、変なこと聞いてしまって」
「このあたりにね」
お母さまがご自身の眼前右上に手をかざし、円を描くように動かした。
「あの子が倒れているところが浮かんでるの」
この世の果てまで突き飛ばされるような一撃とともに、にわかに息が詰まった。お母さまは続ける。
「目を閉じていても、開けていても、はっきり見える。すぐそこにいるの。思い出すなんてことがないの」
呼吸が途絶えそうなほどの苦しさを感じていた。その光景と状況を想像するしかない私でこれなのだ。お母さまのそれはどれほどなのだろう。私の心の奥を覗いたように、お父さまが後を継ぐ。
「僕と胡蝶はそれを見ていない。その辛さはどれだけだったろう。同じ人を失い同じ遺族になった僕たちの間でさえ、こんなに距離があるものなんです」
ややあってから、私は頷いた。この孤独は、お母さまだけのものではない。お父さまも、胡蝶くんも同じなのだろう。それぞれが同じように、けれどもそれぞれが違う形や濃さや大きさで、その人だけの苦しみを抱えている。だから寄り添い合って、孤独を持ち寄り合って、互いを支え合って、どうにか日々を過ごしている。これが片喰家の人々なのだ。
「もっと早くに見つけていればって、今でも思うわ」
お母さまは懐かしむみたいにお兄さんを眺めている。
「助けられたかもしれませんものね…」
「もちろんそれもあるけど、巻き添えで一緒に死ねたかもしれないでしょう? それはそれで良かったのよ」
「良くないですよ…」
「うん。そう言ったときはこの人からも胡蝶からもすごく怒られたわ」
「そりゃ怒りますよ…」
「でも正直な気持ちよ」
「今でもそうですか…?」
「どっちもよ」
「………」
「どっちもそれで辛かったろうし、それで良かったろうと思う。親の立場ってそういうものよ」
ふとお父さまを見遣ってみる。お父さまは私と目が合うと、その目を細めて頷くのだった。自分もそうだと言うように。これが親の立場なのだろうか。正しいと形容される、親の立場なのだろうか。私にはよくわからない。いや全くわからない。
「でも、もうお医者さんには行かずに済んでいるわ。こっちに来てから…そうね、去年の命日の後ぐらいからかしらね。胡蝶が新しい学校に通えるようになって、友達ができたって言ってくれて、それでどれだけ救われたかわからない。私ももう、胡蝶に心配かけないようにしようって、頑張ることができてる。それに恋人までいるって知って、その人ともこうして会えた。今だって辛いけど、これからもずっと辛いだろうけれど、きっともう、大丈夫。それにもし私が自殺なんてしてしまったら、『片喰さんは息子が自殺したから後を追ったんだ』なんて思われてしまうでしょう。私が死ぬことまで、あの子のせいにさせたくない」
私は一言一言を噛み締めるように聴いていた。きょうだいとしてではなく、親の立場でしか語れないものは、胡蝶くんから聞く話とは異なっている分だけ、濃く深く広く、私に染み入ってきた。そしてありえないIFをありえないと知ってなお思い描くのだった。もしも胡蝶くんが兄という立場だったら、また違ったのだろうか。少なくても、その齢を超えることへの不安を抱くことはなかっただろう。それでもまた違う障壁が作り上げられていたのだろうか。
「キスツスさんこそ、通院とかはしていないの?」
急に話を振られて戸惑った。
「この間久々に行きましたけど…」
そこで胡蝶くんと鉢合わせしましたけど…。
「…もうそれぐらいですね」
「ご両親も安心してるでしょうね」
正しい親の立場。
私は返事に窮し、顔を反らした。
「…どうですかね」
「何かあったの?」
しばらくの沈黙ののち、意を決して口を開いた私だが、声はおろか吐息さえ出てこなかった。震える唇を結び、残っていたお茶を一息に飲み干し、落着したと思ってもう一度試したがやはりうまくいかなかったところで、お母さまが留めてくる。
「無理には聞かないわ。ごめんなさいね」
それで私は声の出し方を思い出したように答えた。
「いえ…いつかは胡蝶くんにも話さなきゃいけないことです。でも、胡蝶くんにはまだ、秘密にしておいてください」
「なおさら聞けないわ」
「………」
仕切り直すようにお母さまがお茶を注いでくれて、私は会釈してそれに口をつける。
「あなたは今も、死んでしまいたいって思ってる?」
「いいえ…生きていきたいです…でも…できることなら…胡蝶くんと一緒に…生きていきたいです…」
「そんなに胡蝶のことを想ってくれてるのね」
「胡蝶くんが私にそう言ってくれたんです…だから私は今日まで生きてこれたんです…だから私は胡蝶くんを助けたいんです…」
私は身を乗り出して尋ねた。
「どうしたら胡蝶くんを助けられますか?」
「この世界にいてあげて」
「胡蝶くんとおんなじこと言うんですね…」
そして同じ軌道を、力なく遡った。
「だって、それだけでいいもの。いいえ、それだけしかできないもの」
本当に同じことを言うものだと思った。
「あの子が死んでしまってから、胡蝶には寂しい思いをさせているわ。残された家族のほうが大事だとはわかっていても、あの子のことも置き去りにはできない。私たちは親だから、いつまでだってあの子に縛られているつもり。いくら引き戻されてもいい。生涯そこから動けなくても構わない。でも胡蝶には先に進んでほしい。自分の人生を生きてほしい。そのためにあなたができることはただひとつ。ただいてくれるだけでいい。それだけで胡蝶は今いるところに留まれる。そしていずれはそこから進んでいける」
「それでだめだったら、どうすればいいんですか?」
「そのときに考えましょう」
「それじゃあ遅いでしょう…」
「急いでどうにかなるなら誰も死なない」
「………」
「8月5日を越えるまでは待つしかない。その後だっていつまた同じ思いを抱くかわからない。私たち遺族は終わりのないすごろくをしているようなもの。何度だってふりだしに戻るのよ」
「………」
「どうしても罪悪感を持ってしまうのよね。あの子を助けられなかったことも、今をこうして生きていることも、いけないことのような気がしてしまう」
「そんなのおかしいですよ」
思わず声が大きくなった。
「お兄さんが亡くなったのはお辛いでしょうけど、どうしてそんなにご自分を責めるんですか? 自殺者なんて自分の意思で自分勝手に死んでいくだけなんです。色んなものに追い詰められるけど、そのくせ自分で自分を追い込んでもいるんです。そこに至るまではいろいろ考えて、悩んで苦しんで、死んでしまおうと決めてからだって、迷うものだしためらいもするし、死ぬのは嫌だなって思うこともあるし、それでも最後は自分で死ぬことを選ぶんです。私だってそうです。好きで死のうとしただけです。それでどうして残された人が、そんな辛い思いをする必要があるんですか? ましてやお兄さんは、いじめられてたって聞きました。だったらなおさらその人たちが悪い。お兄さんは何も悪くない。胡蝶くんもご家族もそうです」
お二人は何も答えず、時折相槌程度に頷くだけで、穏やかな表情で私を見据えていた。咎めるでもなく、さりとて肯うでもないその姿に私は業を煮やし、勢いを増して続けた。
「いじめって、殺人なんですよ。それだけで人を殺すことなんですよ。学校に通っている子にとって、学校は世界そのものなんです。いじめによってそこから弾き出されるということは、世界から『お前はいらない』と言われるのと同じなんです。世界に見捨てられるということなんです。世界に見捨てられた生き物は生きていくことができないんです。でもいじめられた子はすぐには死にません。いじめられた子はそれでも生きています。傍目にはそう見えます。普段どおりに呼吸をして、食べて、眠ります。でもその子はすでに死んでるんです。世界から爪弾きにされたために死んでるんです。肉体だけが、精神の死に気づかずに、茫漠と生を営んでいるに過ぎないんです。でもすぐに肉体も、『自分はすでに死んでいるんだ』ということに気がついて、死に向かうんです。でもその子はすでに死んでいるんです。殺されたために死んでいるんです。自殺という形によって、肉体的に、法律的に、死が認められるに過ぎないんです。これを『いじめは殺人ロジック』っていうんです」
「誰の言葉?」
「誰…だったかな…」
私ですとは言えなかった。なぜだか凄く恥ずかしい。
「調べてみよう」
「とにかく」
スマホを取り出すのを制するように言った。
「人を殺すなんて、逆に殺される覚悟がなければ、しちゃいけないんです。だから誰かに殺される覚悟がなければ、いじめなんて、しちゃいけないんです」
「キスツスさんも、経験があるの?」
「はい…」
私は思わず利き手でもう片方の腕を押さえていた。それからその腕をねじって利き手も押さえた。
「よく乗り越えたわね」
慰撫するようにかけられた声を振り払うように首を振った。私にはそれを受け入れる資格などない。
「両方あります…」
そう言ってそれぞれの手に力を込めた。さながら被害者をかばい、加害者をなじるように。
「でも…あのときの私は…そんな風には考えていませんでした…胡蝶くんを殺すつもりはもちろん…胡蝶くんに殺される覚悟なんかも…していませんでした…勝手ですよね…? やられるときは死んじゃいたいぐらい辛いくせして…やるときはそんなつもりはちっともなくて…いっそ殺されちゃえばよかったのに…」
私は胡蝶くんの机に花瓶を置いたときのことを思い出していた。殺す覚悟も殺される覚悟もなく、ただただ嫌がらせのためだけに取った姑息な手段。それともどこかでそうなることを期待していたのだろうか。人の手を借りれば、私の自殺は成功したかもしれない。でも胡蝶くんは…。
「でも胡蝶くんは…そんな私と一緒に…生きようって言ってくれたんです…死んでもいいとまで言ってくれたんです…だから私は今日まで生きてこれたんです…」
「なんだか複雑ね、あなたたちの馴れ初め」
「胡蝶は気にしていないでしょう。あなたも気にしないでください」
半ば呆れたようにお母さまが言い、お父さまは優しく諭してくれた。私は利き手のほうだけ手を離した。
「もう片方はどんなだったの?」
「想像してもらえるようなことです。きっと、お兄さんとそう変わらないです」
「でもあなたは、そこから生き延びることができたのよね。それはどうしてかしら」
私は未だに離すことのできない手をむしろ強めた。
「あんなところに行かなくていいって、言ってもらえたからです。実際にそうしてみて、『学校という世界はただそこだけで成立しているちっぽけな世界に過ぎない』ということを知ったからです。でも逃げ延びた学校の外の世界で私は、そこにも居場所がないことを知りました。そこからも逃れるためには、自殺するしかなかったんです」
「そこに胡蝶が現れたのかしら」
「いいえ…胡蝶くんと会うよりも…ずっと前の話です…」
「鈴懸さんや擬宝珠くんと会った頃?」
「それよりももっと前です…」
私はようやく、手を離した。
「いじめは殺人。そうかもしれないわね。あの子もその被害者だったのかもしれない。でもね、キスツスさん。いじめを受けた人がみんな、みんな死んでしまうわけではないでしょう? あの子にとって私たち家族は、助けてもらえる存在でも、守ってもらえる存在でもなかった…そう思わせていたんだろうって、そう思ってしまうのよ。いじめがあっても生きていけなかったのは、私たちのせいだったんじゃないかって、そう思ってしまうのよ」
「………」
「思えば危ういところのある子だったわ」
お母さまは遠い目を虚空に向けた。いや、お兄さんが倒れているという、その場所を向いていた。
「あの子には夢があってね、小さいときからプロ野球選手になるって言ってたの。でも難しかったみたいね。思いどおりのことができないとひどく癇癪を起こしてね、レギュラーを奪われたときも凄く荒れたものよ。たしなめたことはもちろんあったわ。でもうちの家系はあの子以外はみんな運動音痴でね、キャッチボールもできないのに口出しするななんて言われてしまうと、何も言えなかった。他の人に対してもそうだった。小学生の最後の地区大会で準優勝したけど、本当は優勝できるはずだった、お前のせいで全国大会に行けなかったって、エラーしたチームメイトを随分くさしたものね。中学校のときにベンチ入りもできなかったのは、そのせいだったっていう話もあった。高校は野球部のない学校で、練習はおろか試合だってしてなかったけど、絶対プロになるって言ってたわ。どこまで本気だったのか、今となってはわからない」
「………」
「あのときのいじめを乗り越えることができていたとしても、そもそもそんなことがなかったとしても、あの子はいつか同じことをしていたんじゃないかって思うの。そしていずれ自殺を完遂させていたんじゃないかって、そんな風にも思うの」
「………」
「何が自殺の原因だったとしても、僕たちが彼の人生を生きるほうに向けてやれなかったことは事実なんです。僕たちはずっとそれを後悔するでしょうし、そのことで自分たちを責め続けるでしょう」
「そんなの悲しいです…」
「悲しいんです。苦しいんです。それでもそれらを抱えて生きていくしかないんです。その覚悟と決意はできています」
お父さまが力強く言い切り、お母さまも頷いていた。私だけが取り残されて、釈然とせずにいた。
これから先も自殺者がいなくなることはない。自殺した人が蘇ってくることもない。だから残された誰にもそんな風に過ごしてほしくない。あなたたちは何も悪くない。それでもそのために自殺志願者がその願望を捨てられるはずもない。私たちだって何も悪くない。
やっぱり私には、胡蝶くんを助けることなど、できないのだろうか。私は私自身を助けることだって、できそうにないのだ。
「だから、あなたがいてくれて、本当に良かった」
にわかにお父さまが居住まいを正した。こちらが戸惑う間もなくテーブルに顔がつくほど頭を下げてくる。
「胡蝶のこと、どうか末永く、よろしくお願いします」
「あ…はい」
「胡蝶を受け入れてくれて、ありがとう」
「………」
私は曖昧な気持ちを抱えたまま、とりあえず首を前屈させた。
不意にインターホンが響き、お父さまが席を立った。
「いらっしゃったかな」
私は誰か別の人が来る予定になっているらしいことを思い出していた。まだ何もまとまってはいないが、聞きたいことはあらかた聞けた気がするし、潮時だろう。
しかし、早足で去っていったお父さまとは対照的に、枷を嵌められたように私の腰は重かった。
「気を悪くしたらごめんなさいね。後で言っておくわ」
お母さまがそう言って立ち上がるついでにご自分の分とお父さまの分のコップ、それに空になったお菓子の皿を流しに運んでいった。
「胡蝶もあなたも、そんなつもりで付き合ってるわけではないでしょう」
翼を得たみたいになって、私は自分の分のコップを持ってお母さまの隣に侍った。
「それを証明するために胡蝶くんと離れることも、できそうにないです。胡蝶くんもそうだと思います」
「男親と女親の違いだとは思いたくないけど、ちょっとだけ寂しいわね」
お母さまは私の手からコップを取り、困ったように笑った。お母さまはわかってくれているのだと、私も苦い微笑を返す。
「あれじゃまるで結婚の挨拶に来たみたいじゃないの」
それはそれでいいんですけどねとは、思ったものの言えなかった。喉まで出かけたところで、よもや牽制されているのではないかと思い至ったためだ。嫁姑問題なんて遠い絵空事だけど、それだけに悪い先入観が脳裏をよぎる。しかしすぐにそれが思い違いであると知る。
「胡蝶があなたを選んで、あなたも胡蝶を選ぶのなら、もちろん反対なんてしないけど、あの言い方じゃあちょっとね。まるであなたが自殺未遂者で、胡蝶が遺族だからみたいじゃない。釣り合うだとか、どっちのほうが立場が上だとか、そんな風にも聞こえるわ。あの人のことだから、そんなつもりはないんだけれど、ごめんなさいね」
私は途中で何度も頷き、最後に首を振った。お父さまはすこぶる善意の人だし、お母さまも思慮深い人だ。将来胡蝶くんの伴侶となる空想がより具体的になる。この人たちとならやっていけそうだと気持ちが高まってもくる。そのためにはやはり、私も胡蝶くんも、生き延びなければ。
「自殺って、そんなにいけないことかしらね」
お母さまがため息のように呟いた。
「私の父親はまだ小さかった姉と一緒に災害に遭って命を落としたし、母親は胡蝶が生まれた頃に病気で死んだけど、誰に憚ることなく話すことができる。でも、自殺はそうもいかない。いつか、自分の家族が自殺で死んだということを、当たり前のように話せる世の中になってほしい」
「でも、そういうものなのかもしれません。私たちにはまともな恋愛や結婚なんて、許されないのかもしれません。ほかでもない私でさえ、どこかでそう感じているのかもしれません。だから私は胡蝶くんと会う前に、失恋していたのかもしれません」
ややあってから、失言に気が付いてはっとした。目を丸くしていたお母さまは、私の弁解や撤回を制するように、柔和な微笑の口元に人差し指を立てた。
「大丈夫。胡蝶には内緒にしておくわ」
弱みを握られたような気がしたがしかし、それに託けて嫁入りできるような気もした。黙っていてやるから嫁に来いとか、暴かれたくなければ嫁に迎えろとか。
母親という存在は、こういうものなのだろうかと、ふと思った。同性同士で秘密を共有したり、ちょっと異性の悪口を言ってみたり。
それでは男親という存在は、どういうものなのだろうな。
「あの人と同じこと言っちゃうけど」
お母さまが私を見据えてきた。
「あなたがいてくれて良かった」
「私もです」
私もお母さまの目を見つめ、それから軽く伏せた。
「お父さまとお母さまにお会いすることができて、本当に良かった」
お母さまの口元が、胡蝶くんのそれと同じように緩むのが、よく見えた。それからこちらに近づいてきたかと思ったら、私はお母さまに軽く抱き締められていた。
母親という存在は、こういうものなのだろうか。私は記憶にないお母さんを探るように、その温かい匂いを吸い込んでいた。
忙しない足音が聞こえてきて、お母さまが私から離れる。
「いいところなのに」
お母さまの口振りに私は軽く笑う。
程なくしてお父さまが現れ、お母さまに告げた。
「お見えだよ」
それから私に伝えてくる。
「それじゃあキスツスさん、また胡蝶がいるときにいらしてください」
「キスツス?」
私が返事をするより早く、別の男の声が私の名をなぞるのが聞こえた。その刹那、私は全身の毛が逆立つようなおぞましさに襲われ、次の瞬間にはそれを覆い尽くすほどの怒りを覚えた。
お父さまは不可思議そうに玄関のほうを見遣り、お母さまも似たような視線を同じ方角に向けていた。私はお母さまだけに聞かせるために呟いていた。
「いいえお母さま。男親と女親の違いって、あるのかもしれませんよ」
それはそっくりそのまま私と胡蝶くんにも当てはまりうる。差異の根拠として安易に性別を当てはめるのは危険だが、今だけはその性質を信用したかった。あの男と性を違えてよかったと力強く思った。
この家の構造を詳しく知っているわけではないが、お兄さんの部屋と玄関を行き来するために廊下を辿り、このダイニングキッチンを横切らなければならないことは、すでに知っていた。だから私たちの邂逅は不可避なのだ。
そして耳でその存在を確信させられていた私と異なり、言葉による予感しか得ていなかった男のほうは、目的の方向でもあるために歩を進めて、ようやく私を認めるのだった。そして驚きを隠さず口にした。
「なぜお前がここにいるんだ」
「恋人の家だからよ。あなたこそ何しに来たの」
「教え子の弔いだ」
それきり私たちは二の句が継げなくなる。かたや睨むように、かたや眺めるように見つめ合いながらも、それぞれに互いの言葉を反芻しているのだった。
教え子? 弔い? お兄さんが教え子?
そのあたりで、胡蝶くんの話の記憶が曖昧ながらも蘇って、男との符合を見出していく。高校生だったということもそうだし、担任が段持ちの体育教師だったと聞いた気もする。しかしまさか、そんな近くだったなんて。場所を聞くことがあったならば、もしやと確度は高まっていただろうし、校名を聞くことがあったならば、その瞬間に確信していただろう。互いにそれを聞くことも言うこともなかったのは、興味や関心が微塵もなかったからだ。私と胡蝶くんが見ているのは、いつだって未来だけだった。
やがて、私たちを見回していたお父さまが、探るように口を開く。
「お知り合いですか」
「娘です」
「血縁上の父親です」
男の回答を追い払う勢いで私は答えた。お父さまはしかめっ面で私を見つめた後で、同じ顔を男に向けた。
「え…? でも先生のお名前は」
「葵というのは旧姓です。再婚した際に、後妻の籍に入りました」
「私はそうして父親に捨てられたんです」
思わぬ言葉が口を衝いていた。どんなにそうだと心得ていても、これまで面と向かって言ったことはなかった。それなのに今ここでそうさせたのは、お父さまとお母さまが抱いているであろうこの男に対する聖人のごとき印象を地の底深くに突き落とす腹積もりがあったからに違いない。しかし、私は長らく離れていたせいでこの男の性質を忘れていたことを、程なくして思い出すのだった。
「そのとおりです」
男はにべもなく答えた。虚勢などではない。他者からの評価にてんで無関心で無頓着。そういう人間だったということを思い出しただけの私と異なり、至近距離でその一面を見聞きさせられたお父さまはうまく処理できない様子で、またも私たちを見回している。
「後で家に寄る」
男はそう言い残し、お兄さんの部屋のほうへ歩を進めた。お父さまが慌てて追うようにそれに続く。
何かが抜け出ていくような長い息をついて、私は項垂れた。それでも残った、あるいはそれだからこそ現れた何かが、私の体内を占有しているのが感じ取れた。やはり私は捨てられたのだ。それなのにどこか安堵さえしている。もっと早く確かめておけば、あんなにも長い間、辛い思いをしなくてよかったのかもしれない。でもそう思えるのは、それを乗り越えた今だからなのだろうか。もっと早くにそう知らされていたら、私は死ねていたのだろうか。今となっては、もう確かめようもないことだ。
不意に片手がきつく温もった。見ると私の手が両手で握られている。それを辿って顔を上げていくと、気遣わしげなお母さまの視線と目が合った。こんな修羅場を目の当たりにすれば、それはそうなるだろうなと内心苦笑した。
「いつか必ずお話しします」
私は癒すように微笑んだ。傍で見るほど落胆などしていない私の本心がどれだけ伝わったかはわからないが、お母さまは私の言葉を信じようとするように、頷くように目を伏せてから、そっと手を離してくれた。