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その1

 一年前の今日のこの日のこの瞬間に何をしていたのかは覚えていないけれど、その一年後である今日のこの日のこの瞬間にこんなことをしているなどとは想像もしていなかったことは違いない。

 そもそも今の今まで生き永らえていることが不思議で、まだ長い夢を見ているような気分。けれどもとても幸せな夢。たとえ覚めてしまったとしても、この思い出だけで過酷な現実を生きていける。

 そんな前のめりな気持ちが、予定の時刻よりもずっと早くに、待ち合わせ場所に私を誘ったのだろう。

 休日に学校を訪れるのは初めてのことだ。今日のような長い休みの只中では尚更。もっとも建物に用があるわけではない。集まりやすいところということでここになっただけで、行けるところならどこにだって行ってやった。

 閉じられている門扉が開錠されていることは、軽く寄りかかったところで流れるようにその方向に開き、転倒こそしなかったものの、盛大に体勢を崩したために知った。その目的が部活動の生徒のためだということは、一部始終を目撃していたらしいスケッチブックを携えた制服姿の女生徒が、私のことをまるで存在しないもののように通り過ぎて学内に入いったことで悟った。この私が思い思いの青春を過ごす同窓生たちと同様の日々を得られることになるとは、わからないものだ。

 やがて、最愛の恋人と大切な友達二人が揃って現れ、私は微笑んだ。一年前には予想も期待もしていなかった、幸せで楽しい日が、こうして始まる。

 特に予定らしい予定は組んでいなかった。そのために行先と目的で紛糾した。

「川原で駄弁る」

「たこ焼き食べる」

「放課後と変わんねえぞ」

「じゃあ卓球部の特訓ということで」

「却下」

「副部長が却下しないでよ」

「部長は自主練に励めと言ったはずだが」

「バイト忙しいんだからしょうがないじゃん」

「僕はそれに加えて予備校があるんだ」

「二人は行きたいところないの?」

「思いつかない…胡蝶くんは?」

「四人でやるなら麻雀だな」

 普通の高校生に最も近いはずのあやめちゃんと薊くんですらこれだから、そこと対極に位置する胡蝶くんや次元の域まで飛び越えた私なんかに望むべくもない。

 適当に繁華街を流しながら、どこかでお昼をとり、気になったところに寄ろうという大枠だけを定め、電車に乗るべく駅に向かった。

「これなら駅で待ち合わせりゃよかったじゃんかよ」

「一つぐらいまともなアイデア出してから言いなさいよ。何が麻雀よ年寄り臭い」

「お前の案はたこ焼きやら卓球やら丸ばっかりじゃねえか。体型に寄せ過ぎだろ」

 あやめちゃんが垂直に跳躍してその手を一閃させたが、胡蝶くんはそれとは逆に全身を縮めて蹲っていた。そのためあやめちゃんの攻撃は胡蝶くんの頭上を空振りし、崩れた姿勢で落下してきたあやめちゃんを私と薊くんで慌てて支えることになった。

「まーたゴム鞠みたいに跳ねやがって」

 言ったそばから胡蝶くんは駆け出しており、あやめちゃんは私たちへの謝辞も残さず後を追っていた。程なく胡蝶くんの上の名を呼び捨てに叫ぶあやめちゃんの声が聞こえてきた。

「悪いね。揃いも揃ってノープランで」

「ううん。すごく楽しいよ」

 苦笑と微笑を浮かべて、ようやく私と薊くんは歩き出した。途中でにやついた胡蝶くんが戻ってきてすぐそばを走り去り、憤懣やるかたないあやめちゃんがそれに続いていった。

「こんな日が来るなんて考えもしなかったし、期待もしてなかった。好きな人たちと一緒に過ごすのって、こんなに楽しいんだね」

「君がそれを知ってくれて良かったよ」

 私は足を止めていた。薊くんも少し先でそれに気づいて立ち止まる。

「昔はそういうこともあったのよ。長い間、思い出すこともなかったけれど」

「それは」

 振り向いた薊くんはしかし、すぐに体勢を戻した。

「いや、やめておこう。いつか話したくなったときが来たら、聞かせてくれ」

 私は頷いた。平然と嘘をついた。もしかしたら、胡蝶くんにさえ、聞かせることはない。それでもいいのだ。私は過去に戻る気はないのだ。振り返ってなどやるものか。

 そう意気込んだ矢先に私は振り返っていた。もちろん形而下の話。胡蝶くんが後ろから私の肩を掴み、私ごと反転したのだ。少し離れたところにいたあやめちゃんがすぐにそばまでやってきて、私に食ってかかる。

「ちょっとキスツス! 何なのよあんたの彼氏! もう付き合いやめなさいよ!」

 私は肩口で舌を出している胡蝶くんを一瞥してから、首を振った。

「そんなことしたら、私きっと死んじゃうよ」

 水を打ったように場が静かになる。音もなく薊くんがあやめちゃんを連れて行ったかと思うと、ひしゃげた打擲音とほぼ同時に「いたっ!」という声がした。

「お前、その冗談笑えないから禁止」

「本当なんだけどな」

 胡蝶くんがやおら帽子のつばをつまんで下に引いてきた。帽子の位置を直しながら私は少し笑った。


 繫華街を一往復半したけれど、電車の中と同様に、やはり意見はまとまらなかった。体を動かしたいあやめちゃんと、どちらかといえばじっとしていたい私や胡蝶くんでは折り合いがつくはずもなく、僕はみんなに合わせるよとまで言ってくれた薊くんでさえ、歌声を披露することだけは断固反対したためだ。

 とりあえず予定どおり昼食にすることにして、チェーン店のファミリーレストランに立ち寄った。四人掛けのテーブルに私と胡蝶くん、あやめちゃんと薊くんで並び、思い思いに注文する。テーブルに置かれていく四者四様の統一性のない料理に、店選びは正解だと思った。

 考えてみればこの四人でちゃんとしたごはん食べるの初めてだねと、麺ハーフの野菜タンメンをすすりながらあやめちゃんが言い、いつもは学食と弁当だもんなと、かつ丼をかっ込みながら胡蝶くんが応じる。

 その後も二人のペースで会話が進む。課題のことやアルバイトのこと。私と薊くんは時折相槌を打つ程度。こういうところもいつもと同じ。けれどもある話題に差し掛かったとき、ちょうど鯖の味噌煮定食を食べ終わったところだった私は、クラブハウスサンドに手を付けながら口を開いた。

「例えば歳を取るのが嫌だとする。誰だって今日より若い日はない。それじゃあその若さを保つためにはどうしたらいい? 今日死ぬしかないでしょう? 最大にして最良のアンチエイジングは、自殺することよ」

「どうせウンコになってケツから出てくるからってウンコ食うのかお前」

「下品な例えしないでよ。食事中よ?」

「飯時にお前が議論吹っ掛けてくるからだろ。ガキの頃食えなかったものの話からなんでそっちに行くんだよ」

「あー気持ちわるーい。食欲なくすー」

「食いながら言うな」

「もー死んじゃおっかなー」

「そういう冗談やめろ」

「手伝おうか?」

 誰の声かわからなかった。男にしては高く、女にしては低い。私たちが揃って互いを見合い、どうやら相手の声ではないらしいことを覚知する頃、同じ声が席の正面から聞こえてきた。

「一人でも二人でも一緒だ」

 見ると、殺意を塗り固めるための満面の笑みで、薊くんが私たちを眺めていた。元々中性的な声だけど、混ざる感情によっては聞こえ方も違うものだと知る。

「あざみん…それ残したら…?」

 あやめちゃんが気遣わしそうに告げる。半分ほどになったカレーライスに差し込まれたスプーンが、薊くんの手に合わせてわなわなと震えていた。

 ようやく言葉の内容を把握できてきた。新手の凶器から逃れるように、私と胡蝶くんは思わず後ろに傾けた体をさらに寄せ合っていた。

「そういう冗談やめようよ」

「本気だが」

 薊くんを諭す私の声は頭のてっぺんから出るほどに上ずり、笑顔を投げ捨ててそれを突っぱねる薊くんの声は地の底から湧き出たみたいに重く低い。

 味のある唾が私の喉元を滑り落ちていった。胡蝶くんが顔を傾けてくる。

「これでこいつに殺されたら、お前の中では自殺にカウントされるのか?」

「そんなわけないでしょ。自殺はいいけど殺されるのは嫌よ」

「何その勝手な理屈」

「当たり前でしょう。殺されるなんて普通、時間も場所も方法も思いどおりにならないものじゃない。理由がわからないこともあるし、そんなものないことだってある。その点自殺はいいわよ。自分の好きなときに自分の好きなところで自分の好きなように死ねるんだから」

「よくはねえよ」

「『希死の分水嶺』って概念、知ってる?」

「聞いたことねえな」

「私が考えたの」

「しまいにゃしばくぞ」

「魚の目ができると死にたくなるの。あの不愉快な痛みに耐えらんない。あとささくれとか、口内炎とか。この間のものもらいのときも、結構まずかった。あのときは胡蝶くんとの約束があったから、我慢できたけど」

「俺は足攣ったときだな。神様助けてって祈っても、あいつ何にもしてくれないからな」

「つまりはそういうこと。死にたいと思う分岐点は人によって違うのよ。そしてその最後の一押し、最後の一滴は、はたから見ればささいなことだったりするの」

「真面目に捉えるな。足攣ったぐらいで死んでたらたまったもんじゃねえ」

「食べ物の恨みで死ぬことはあると教えてあげるよ」

 ゆらありと音を発するように薊くんが立ち上がっていた。白熱し過ぎて存在を忘れていたことを思い出し、身を寄せ合って小さくなっていた私たちはさらに縮まる。追い縋るようにあやめちゃんが飛びついた。

「あざみん! 何でもおごるから、食べたいもの言って?」

 よろめくように薊くんの長身が傾き、あやめちゃんはそれを小さな全身で抱き留める。

「今はむしろ吐き出したい」

「OKOK、背中さすったげる。トイレいこトイレ」

「すまないな」

 支え合うかたちになって二人が離れていき、とりあえず危機を回避できた私たちはほっと息をついた。

「いやー薊こえーな。あいつ細いくせに力あるからあんま怒らせたくないんだよ。取っ組み合ったら俺負けるぜ」

「生まれて初めて死にたくないって思えた。18年かかった。長かった」

「18年?」

「18年」

「なんで?」

「なにが?」

「俺16なんだけど」

「うん」

「10月で17なんだけど」

「うん」

「なんで18なの?」

「4月生まれだからよ?」

「高二だろ?」

「留年してるから」

「………」

「………」

 隅々を確かめようとするような険しい目に見つめられ、私は顔と体を反らした。全身から嫌な汗が噴き出ていた。落ち着くために食事を続けるが、味はわからなくなっている。

「あの…キスツスさん…?」

「17年かかった。長かった」

「おせーよ。あいつらに聞いたら即バレだぞ」

「………」

「もう何言われても驚かないつもりだったけどよ、いきなりぶっこんでくるのやめてくれよ」

「今更年上は嫌って言ったらさすがに怒るよ? ほんとに死んでやるからね」

「別にいいよもう…それで死なれたら諦めもつくわ…」

 私は半ば本気だったし、それを知ったうえでの胡蝶くんも同じぐらい本気だとわかった。

「胡蝶くん…年上は嫌…? 正直に言って…」

 死ぬより辛いことになるかもしれない覚悟で尋ねた私に、胡蝶くんは即答した。

「変えようのないことで好き嫌いを語る気はない」

「そう…」

「それにお前だったら、何万年生きてたとしても構わねえよ」

「バカね…」

 最初の言葉だけで安心させられた私はさらにくすぐられ、思わず胡蝶くんに寄りかかっていた。

「だから食いながらやるな」

 構わず私は腕を抱き込んだ。そして空になった手も巻き付ける。胡蝶くんは聞えよがしな溜息をつく。それでも私の頭を撫でるようにぽんぽんと叩いぽんぽんぽんぽんぽンポンポンポン! ちょっと強いんだけどと軽くしかめた顔が無理やり捻じ曲げられた目と鼻の先にあやめちゃん。

「人の気も知らずにあんたら」

 その声と言葉に相応しく凶悪な表情に、どこからだったんだろうと思いつつ、私は媚びるように笑う。

「早いのね」

「空いてなかった」

 目だけを上に移すと、胸元をさする薊くんが窺えた。

「僕はもういい。君らが睦まじいのはいいことだ。でも今の僕にはあやめを抑えられそうにない。人の気も知らずにイチャついてるバカップルを殴りたいっていうんだ」

「私が女をやるからあざみんは男をお願い」

「だから僕はもういいって」

「そんなことより」

 胡蝶くんが割って入ってくる。

「こいつ留年してるってマジか?」

「え? 知らなかったの?」

「というか言ってなかったのか?」

「誰かが言ったと思ってた」

 驚きと呆れで二人の害意は途絶えたらしい。つつがなく席に戻り、何事もなかったかのように食事を再開する。私は安心してデザートを二つ注文した。

「うちの学校はクラス替えがないから、一年のときのクラスがそのまま3年間続くのよ」

「入学式にはいなかった彼女がクラスメートだったときは不思議だったけど、2回目の一年生だと知って合点がいったよ。やけに先生や先輩に顔が広いと思ってたしね」

「期末の成績、薊の次の次ぐらいだったろ。それでどうして留年するんだ。中間はどうだったか知らねえけど」

「胡蝶くん、私の二つ名忘れちゃった?」

「死に損ないだろ?」

「誰か荒縄持ってない? 久々に吊るわ」

「どうして留年したんですか? 不死身のキスツスさん」

「きっかけはおととしの夏休みなんだけど、つまり最初の一年生のときね。ああ、ちょうど今頃だわ。うちのベランダから花火大会の花火が遠くに見えて、あんな風になれるかなって、焼身自殺を試して、失敗して、入院したのよ。色んな研究してる大学病院で、毎日毎日検査検査。皮膚も内臓も異常なしだってのに、ちっとも退院させてくれないの。仕方ないから夜中に薬品庫に忍び込んで、ドクロマークの瓶の中身を手当たり次第。次に気が付いたら精神科の個室でベッドに括りつけられてた。今度は解いてもくれないから餓死しようと思って飲まず食わずでいてみたわ。いつもだったら到底耐えられないけど、死ぬ気になればできるものね。何日か経ったら経帷子着て霊安室に寝かされてた。やっと動けるようになったから外に出たら居合わせた職員が大声上げたり腰抜かしてたりしたけど、もう平気だってわかってもらえてようやく家に帰ってきたの。それが去年の春休み。要は出席足りなかったのよ。一学期しか出られなかったわけだから」

「お前らこいつの話どこまで信じてる?」

「去年の秋に修学旅行があってね。海岸沿いのホテルに泊まったんだけど、夜中に服のまま海に入っていくのが目撃されたのを最後に、そのまま行方知れずになった」

「旅行どころじゃないって中止になって、みんなで学校に帰ってくるときに、土手のそばに流れ着いてるの見てからは、ない話じゃないなって思うようになったわよ」

「私それ全然覚えてないのよね。入水しようと思って沖に向かってからの記憶がないの。気が付いたら例の病院。あ、そのときも確かあの病室だったわ」

「別れてえ」

「縄。縄ちょうだい」

「おら。ベルトでよければ貸してやる」

「優しいのね。我ながらいい恋人持ったわ」

「終わったら返せよ。買ったばかりなんだ」

「ごめん…もう千切れた…」

「………」

「触っただけなのに…」

 さすがに私も食欲が落ち、マンゴープリンとティラミスは半分ずつ残した。

「次どこ行く?」

「服屋。ずり落ちてきてかなわん」

「ごめん…弁償するから」

「気にするな。刃物の上に置いた俺が悪い」

 そんな話をしながら手近な量販店に入り、特に誰も何も言わず男女で分かれたわけだが、薊くんが一人でこちらにやってきたのは、私とあやめちゃんが奥にあるレディース売場に達したところでだった。

「胡蝶くんは?」

「会計してる」

「速ッ!」

 あやめちゃんは驚いていたが、私はそうでもない。私の着てきた服をオーバーオールと勘違いする程度にファッションに疎いことは、これまでの付き合いでもよくわかっていた。そのときにもサロペットだと訂正すると、どうでもいいとはっきり言ったものだった。

「薊くんは見ないでいいの?」

「僕は買う店決めてるから。というより、あいつは見なさすぎる。多分、一番安いのを選んだだけだ」

 おそらく一番近いところにあったのを選んだだけだったのだろうと予想がつき、後で聞いたらやっぱりそうだったが、この時点では知る由もない。いずれにしてもやきもきしてきた。彼のセンスをもっと見くびり、私が見立てるべきだった。

 程なくして胡蝶くんは新品のベルトを締めながら現れた。色合いもデザインも前任とどっこいだが、その分だけ外してないからまあ許せた。

「行くか?」

「僕はどっちでもいい」

「折角来たんだからもうちょっと見させて」

「私も少し見たいな」

 私とあやめちゃんでは背丈が違い過ぎるし、そのせいもあって好みも異なるため、どうしても見る棚が違ってしまう。薊くんは私たちに気を使っているのかあやめちゃんに付きっきりで、ちょくちょくアドバイスしているのが見えたり聞こえたりする。おおむね的確だ。

 私も胡蝶くんに助言を乞うてみたが、どれを見せても「いいと思う」としかお言葉を頂けず、手こそかざしていたがあくびを噛み殺そうともしなかったことからそれ以上頼るのをやめることにした。

 半ばうんざりと二人のところに行ったところで、フリルのついた淡いピンクのキャミソールを思わず手に取っていた。さっきどこかで目にした薄手のデニムのホットパンツと合わせてみたくなったのだ。記憶を辿ってそこに着くなりもう片方の手でそれを掴み上げ、近くの姿見に映してみた。軽く体をひねってみたりする私の後ろにあやめちゃんと薊くんが入り込んでくる。

「ちょっとキスツスじゃ子供っぽくない?」

「率直に言って似合わない」

 その指摘に気を悪くするより早く、私が描いたイメージが実際とは決定的に誤っていることに気が付いた。二人は婉曲に伝えてくれただけだということにも。

 これをインナーにして長袖を羽織って…いやそれだと変かな。仏頂面で往生際悪く悩んだけれど、上半身はともかく腰から下については思いつきもしなかったことから、諦めることにした。

「着たいもの着りゃいいだろ」

 胡蝶くんが鏡の外から言った。

 何か言いに行こうとしたあやめちゃんが鏡の中から消え、それを止める薊くんによって鏡の中に引き戻された。

 胡蝶くんは手持ち無沙汰にスマホを眺めていた。だから真意についてはようとして知れない。わかっているのかいないのか。そのうえで言っているのかどうなのか。

 私は帽子をあやめちゃんに託し、心配そうな二人に見送られて試着室に向かった。「ちょっと見ないうちに縮んだな」という軽口と、やや本気の反発が聞こえてきた。

 カーテンを閉じたところで目をつむり、手探りで着替えてからおもむろに目を開いて、鏡に映った全身を鼻で笑った。本当は、着脱の際に触れることでわかっているのだ。もっと本当のことを言えば、触れなくたってわかっていたのだ。

「どうだあ? キスツス」

 外から胡蝶くんの声がして、私は服に手をかける。

「えっ? ああ、うん。ちょっと待って」

「10、9、8」

「待ってってば!」

 カウントダウンが終わらないため、着替えるのをやめにする。こういうところは本当に幼い。5のところでカーテンをわずかに開け、顔だけを覗かせた。

「見せなきゃだめ?」

「まだやってんのかよ」

「しょうがないのよ…考えてるんだから」

「見せてみろって。見立ててやるから」

「いいと思うとしか言わないでしょどうせ」

「ああ」

「でも…うん…お願い…」

 ひとまず顔を引っ込めてから、私はカーテンを開けた。目を伏せていたので胡蝶くんの反応はわからなかったが、私が鏡に見せていたのと同じものを、胡蝶くんが今見ていることはわかっている。子供っぽいか似合わないかはよくわからない。というよりそれ以前だろう。

 私が着ているのはキャミソールとホットパンツ。肩口から先と太ももから下にかけて必然的に露わになる。刃物を沈めなくなって久しいから、生々しく血が滲むところも、今にもそれが流れ出しそうなところもないけれど、その分だけくすんで抉れて、あるいは膨れた大小様々な自傷の跡が、その四肢にこびりついているのだ。

 胡蝶くんに見せるのは初めてではない。転校してきた日にも話の流れで見せたものだ。意識が遠のいていたせいでほとんど覚えていないけれど、花瓶の欠片を使って学校のトイレで切り刻んだ直後も見せたはずだ。でも恋人に見せるのは初めてだ。下着やその中を見られるよりもよほど恥ずかしいと思った。

「死ねるほどじゃないってことだったのかな。全身の火傷も、首を吊った跡も、綺麗に消えちゃったのに、これだけはいつまでも残ってるの」

 私はさりげなく身を縮め、さらに締めるように両手で体を抱いた。その隠そうとする腕も汚れていることに気が付き、唇を噛んで項垂れた。傷跡のすべてが罪の証のように思えた。そしてこれを抱えていくことは罰なのだろう。ならば好きな人を巻き込みたくない。冗談でしていたさっきの別れ話が、現実的な重みを宿していくようだった。

「たまにはこういうのも着てみたいんだけど、やっぱり気持ち悪いよね。周りの人も嫌がるよね。一緒に連れて歩きたくないよね」

 勢いよくカーテンの閉められる音がした。顔を上げたときには胡蝶くんの姿はもちろん見えず、私は次に言おうと思っていた言葉も見失っていた。

「お前の好きにしたらいい。他人の目が気になるなら隠せばいいし、気にしないでいられそうなら出せばいい。俺は一向に構わん」

「………」

「一つ希望を言わせてもらえれば、俺以外の奴に素肌を見せるな」

「………」

「あと、よく似合ってる」

「………」

「それほどガキ臭くもないだろ」

「………」

「迷ってるなら俺が買う」

「………」

「あいつら待たせてるから早くしようぜ」

 私はようやく短い返事をして、元の服に戻るのだった。

 二人は店先に佇んでいた。私はプレゼントの入った紙袋を胸に抱いていたため、あやめちゃんに預けていた帽子は胡蝶くんを介して私の元に戻ってきた。頭を撫でてもらえた気分になって、すでに破顔していた私の表情はさらに緩んだ。

「買ってもらっちゃった。いつか二人でお泊まりするときに着てあげるの」

「予定外だが仕方ない。ほかに欲しいものあったんだけどな」

「やっぱりベルト代出すよ」

「あー…じゃあもらうわ。悪いな」

「んーん、ぜーんぜん。いくら?」

「二千円いかないぐらいだったかな」

「じゃあこれで。おつりはいいよ」

 そうして私たちが財布をしまうと、二人はいなくなっていた。辺りを見回してみても少し進んでみても確認できず、スマホを取り出したところでメッセージが入った。あやめちゃんからだった。

『そろそろ私もあんたらに殺意が芽生えそうだから、あざみん連れて先に帰るわ。お幸せに』

「お前だけに送ってきたところを見ると、相当根が深いな」

 胡蝶くんの感想に私は苦笑して、返信を打ち込んだ。

『ありがとう。薊くんにもごめんねって伝えておいてね』

 それから私たちはカラオケに行くことにした。初めのほうはアガる曲で盛り上がり、試してみたデュエットも3回目には満足のいく仕上がりになった。中盤で胡蝶くんがやおら洋楽をセットし、英語の成績の劣悪さを根拠に訝る間もなく、流れるような発音に聞き惚れたが、聞こえるまま歌っているだけだと平然と言われ、意味もわかっていないくせにと妬ましくなった。アイドルソングを歌詞も見ずに振り付きでやろうと思ってしまったのは、その対抗心のせいだったかのかもしれない。おかげで軽く引かれたことで我に帰り、あやめちゃんに教え込まれたのだと濡れ衣を着せて事無きを得たが、入店の前から持て余すことを懸念し、やっぱりスマホをいじるだけになった残りの時間、私はあやめちゃんへの口裏合わせのお願いと怒りを鎮めるための謝罪に費やし、最終的には披露することを約束させられた。『私が知らなきゃ話にならないでしょ?』そのとおりです。『あざみんも見たいって』なんで薊くんもいるのよ! 『僕はまだ許してないぞ』あっという間に日時まで決められてげんなりした。

「延長するか?」

「帰るわよ」

 こうなると3時間でちょうどよかった。

 繫華街を後にして学校の最寄り駅まで戻ってくる頃には気持ちも持ち直していた。持ってくれるという申出を固辞してまで手に提げた紙袋の重みは幸福を実感させてくれる。

 ホームに降りて別辞ともう一度お礼を述べるつもりで振り返るが、胡蝶くんはいなかった。慌てて左右を見回して、後ろにいることに気が付く。

「まだ時間あるだろ?」

 そう言って背を向ける胡蝶くんの後を追い、お決まりのデートスポットを訪れる。ほんの二ヶ月前の夜に会ってから、何度も来ている跨線橋。距離の面でもちょうどよく、特殊な経緯を有する私たちにはうってつけなのだ。

 さっきとは比べ物にならないぐらい侃々諤々の議論をすることもあるけれど、取り留めのない話をしたり、互い何も言わずに寄り添い合っていたり、行き交う電車や夕焼けや星空を眺めたりと、ともに過ごすだけで幸福を感じられる。オーバーオール・サロペット事件もここで勃発した。

 半ばより少し学校寄りのところが定位置になっている。その片側の欄干に胡蝶くんがもたれ、私がその隣に佇むのも、いつもの具合。

「楽しかったか?」

 私は頷き、付け加えた。

「今も楽しいよ」

 胡蝶くんも頷いた。

「またどこか行こうな。あいつらが一緒でもいいし、二人だけでもいい。さっきポスター見たけど、花火大会来週だってな。とりあえずあれ行こうぜ。今度は燃えるんじゃないぞ」

 これまでに重ねられてきたいくつかの思い出と、その上にまた新しいそれが積まれる予感に、息が詰まるようだった。私は体を反転させ、欄干に寄りかかった。

「こんなこと言ったら怒られちゃうかな。また死にたくなっちゃった」

 胡蝶くんが私と同じ方角を向いて、叱るように肩を抱いてきた。私はその手を両手で握り、続ける。

「今、本当に楽しくて、幸せで、だからこのまま終わりたい」

「終わらせていいのか」

「いずれは死んで終わるのよ。それなら満ち足りたときに終わりたい」

「もう満足なのか」

「果てがなさそうだもん」

「別にいいじゃねえか」

「今終わることができれば、もっとこうしたかったっていう後悔をしないでいられるのよ」

「お泊まりはどうなった」

「そんないいものじゃないかもしれないでしょ」

 胡蝶くんはため息混じりに肩を竦めた。さすがに口が過ぎた。

「本当にごめんね、面倒くさい、年上の女で。もし本当に別れたくなったら、必ず言ってね。大丈夫、それが原因で自殺なんかしないから」

「どうせ自殺したって死なねぇんだろ?」

「それはわかんないよ? 今までだって、今度こそはと思ってたのが、たまたま未遂になってただけだし」

「たまたまで不死身なのかよ」

「実際そうだもの」

「不死身のキスツスとは、あんまり付き合いたくないな。得体が知れない」

「うん…そうだよね…」

「だが、いずれ普通に死んでいくキスツスとなら、ずっとこうして付き合っていたいさ」

 胡蝶くんの手に添えていた私の両手に、胡蝶くんがもう片方の手を重ねてきた。こういうところ本当にうまい。そして私はこういうことに殊更弱い。

 私は胡蝶くんの顔を見て口を開くが、すぐに閉じて伝えようとした言葉を封じる。謝意や好意。言うまでもないことだから構わない。その代わりに、その結んだ唇を突き出した。

 二度目だったこともあり、前よりはうまくできたと思う。枕相手に練習してきた成果については、わからないけど。

 ちょうど電車がやってきたところだった。私たちはその轟音の間だけ許されているとでもいうように繋がり、それが途絶えたのを潮に離れた。

「また連絡する」

 そう言い残して、胡蝶くんは背を向けた。その姿が向こうの階段に差し掛かったところで名残惜しそうにこちらを顧み、一歩も動いていなかった私と目が合い驚き決まり悪そうに顔を反らして降りていくのを見届けてから、私は幸せに微笑みようやく踵を返す。

 往路を遡る具合に学校に到達し、そのまま校門を横切って広い通りに出ると、向かいに移ってバスを待つ。そこから十ほど数えた停留所で降り、通りを背にしばし歩いたところが、私の住処だ。

 八階建てのワンルームマンションの中階層の一室。入って右手が洗面台付きのユニットバスで、左手がキッチンスペース。突き当たりの六畳の洋間の正面には壁沿いにベッドを据え、その手前に低いテーブルを置いている。

 専ら食卓と勉強机を兼ねるその上にキャミソールとホットパンツを取り出して、もう一度着てみるために服を脱いでから思った。

 相変わらずひどい体だ。自業自得だからしょうがない。それでもこの傷だらけの手足を彼は受け入れてくれた。自分以外の者に素肌を見せるなという横柄な要求を、喜んで受け入れることにした。見ることだけではなく、もちろん触れることも彼にしか許さないと決めた自分の裸を、初めて愛おしいと思えた。似合っていると言ってくれたその声を鼓膜の奥に思い出し、思わずにやけた。

 いつかこれを着てみせよう。それは私たちが二人きりになるとき。いつ、どこで、どんなタイミングだろう。あまりムードはないけれど、ここに泊まってもらえば確実だ。先にお風呂に入っておいて、次に入ってもらっている間に着替えておく。それが一番手っ取り早い。恋人と迎える夜を思い描き、息が甘く乱れたのも束の間、その前に至る出来事を思い、心臓が止まったように息を呑んだ。

 枕元にキスツスの花を活けている。学校に置いていたお気に入りの花瓶は壊れてしまい、それを使う必要もなくなったけど、この花は未だに手放せないでおり、毎朝水を替えているのだ。

 これを目にした胡蝶くんの反応を想像してみるが、思いのほか淡白なことに気が付いた。そりゃそうか。私を受け入れてくれた人だもの。胡蝶くんならきっと、わかってくれる。私は安心して着替えを済ませ、素敵な空想にしばし浸る。

 それからの日々は何事もなく経過した。些細なことで仲違いすることもあったけど、それと同じ数だけ仲直りして、その度に関係が深まっていった。

 とはいえ年が明けても二人で朝を迎えることはできず、去年一度ならず望んだように今年中にはどうにかしたいと思い、それと同時に保険のようにせめて今年度中にはどうにかしたいと思い、あえなく年も年度も明けてしまってからは卒業までにはやり遂げたいと思ってしばらく経って、再び夏が来る。そして私たちは高校生最後の夏休みを迎える。そして初めての上方修正。

 この間、キスだけが上達していったが、宝物にはちょくちょく袖を通し、魅力的な体勢の開発に余念なくしているため、タンスの肥やしにはならずにいる。

 胡蝶くんに褒められた姿の私は鏡の中の私とともに、きっとこの夏の間にはと、毅然とした微笑で決意を新たにする。


「しばらく会えない」

 終業式の日に告げられた別辞に、頭の中が瓦解していくような心境に至った。これだと決めた悩殺ポーズはもう、思い出せそうにない。

 最も確実だから家に招こうかとか、せっかくの夏休みだからどこかに出かけようかとか、そもそもいつにしようかとか、いろいろ立てていた計画が読み取れる程度の大きさの欠片になって散らばっているところに浮かんできた疑問を、そのまま口にする。

「どうして?」

「ちょっとやることができた」

「やることってなによ」

「いずれ話す」

「言いたくないってことね」

「そうだ」

 私は深呼吸を繰り返して気持ちを落ち着かせる。正確には、その姿を見せつけることで私の不満を理解させ、いくらかの譲歩を引き出すつもりだった。

 でも、それがいけなかった。何度目かのときに、私は胡蝶くんが目の前にいないことにようやく気が付いた。集中し過ぎた。ていうか、置き去りにしていくってどういうこと。

 私はすぐさまスマホを操作し耳に当て、コール音が消えた瞬間に問いただした。

「しばらくってどれぐらい」

「8月6日までだ」

「やけに具体的ね」

「そう長くないだろう」

「そういう問題じゃ」

「また連絡する」

 一方的に切られ、そのあとはいくらかけても繋がらなかった。メッセージを送っても、当然返事などない。

 心臓が、そのまま勢いを増して爆散しそうなほどの動悸を刻んでいた。やることってなに。言いたくないってどうして。私のための何か? それならそうだと言ってくれればいい。だから言えない何かがあるに違いない。じゃあそれは何だろうか。誰だろうか。私ではない誰がいるというのだろうか。やることってなに。

 私は衝動的に主治医を訪ねていた。呪術でも用いたのかと思わせるほど若作りに成功した還暦近い女医が切り盛りするクリニック。

 元はといえば、オーバードーズ用に溜め込む薬をもらうためだけに見つけ、行きやすい場所にあるからという理由で選んだところだったが、胡蝶くんと結ばれたあの日の後の最初の通院時、正直にそのことを白状して大いに怒られたものの、見放さずに話を聞いてくれたことを機に、真面目に通院と服薬をするようになった。

 それからだって些細なことで苦しくなることもあったし、フラッシュバックのように昔のことを思い出して苦しむこともあった。だから頓服に頼ることもあった。

 それでも毎日幾つも飲んでいた薬や、どうしても耐えられないときに流し込んでいた薬を少しずつ減らし、ついには断ち、近況報告程度に行くこともなくなってから、久しぶりのこと。

 主治医は連絡もなく現れたことについては小言を繰り出してきたが、予約の患者が遅れているからと少しだけ時間をとってくれた。そして私の思考を一蹴した。

 それぐらいのことは許容してやれ。前に喧嘩したときは口も聞いてくれなくて、いつ終えるともしれない孤独が続いただろうと、当の本人が忘れていたことを引っ張り出してきた。

 でもあのときは。という私の思いが顔に出たのか、友人との交友関係に話が及ぶ。仲直りしたの。

 内線電話が鳴り、医者に比べれば特筆することもない受付の声がこちらにも漏れ聞こえた。お見えです。主治医は音量を最小よりさらに下げる操作をしながら、ひと文字にも満たない返事を追い越すように受話器を置き、項垂れたままでいる私を知る。それで薬が処方されることになった。

 わかっている。私の考え方や捉え方が歪んでいるのだ。そのことを認識できるようになっただけでも随分成長した。

 それに、もしも胡蝶くんが他の誰かを選んだとしても、それを咎める筋合いなどない。それでも私は何とかなる。胡蝶くんがここまで連れてきてくれたからだ。ありがとうって伝えられる。

 ほんの少しだけ前を向き、それに促されるように診察室を後にした私は、そこで瞬時に凍結した。待合室のソファーの隅に、背を曲げ俯き小さく着座している胡蝶くんを見つけたのだ。

 受付で私の名を呼ばれて反応したのは胡蝶くんのほうだった。驚いた顔を上げて自然と私と目が合うも、そのつもりだったからだろう受付を見遣り、それからその倍の速度で首を戻したときには転げ落ちそうなほど目を剥いていた。

 その後の私たちはまるで赤の他人のように振る舞った。私が会計を済ませているところに、遅れてきた患者を呼び出すために主治医が診察室から顔を出したが、胡蝶くんは一言断ってトイレに向かったのだ。

 クリニックそばの薬局で薬を待つ間に、胡蝶くんからのメッセージが入っているのに気が付いた。

『いつもの場所で』

 外では予報どおり雨が降り出していた。


 豪雨の幕を薙ぎ払うように走り抜けていく電車をあてどもなく眺めながら、私はいつからかその数だけ、指を折ったり伸ばしたりしていた。

 初めてというだけでも思い出深く、一番のデートスポットになっている跨線橋だが、こんな天気のときに用いることはまずなかった。ただでさえバス通学の私が訪れることも、その用途以外では稀なのだ。

 ましてや今日のような天候のときに私がここに来るのは、あの日以来だろう。でもあのときは、傘なんて持っていなかったものだ。

 いつから私のことを好きになったのかと、はにかみながらここで聞いてみたのはいつだったか。胡蝶くんはてらいなく、はっきりわかったのはあの日だったがと首を傾げ、答える代わりに問うてきた。お前はいつからだ。

 言われてみると私にもよくわからなかった。ただ、初対面のときから気になる存在になるには、十分だったろう。

 下校前に自分の机の上に花瓶を置くようになったのは、二度目の一年生の修学旅行の後だ。いつしかその習慣は彼我の日常となり、私が普通に体調を崩して欠席したときには、あやめちゃんと薊くんが代わってやってくれるようにまでなった。

 そうとは知らない転校生は、死者の弔いと陰険な暴力という具合に、花瓶の意味をごく短時間で二度にわたって履き違え、ありもしない私へのいじめを糾弾すべく、クラス中に激怒した。それからその真意と目的を二人から教えられると、下校時に私と話をすることをせがみ、私の傷跡を目にするや私を諫めて泣いた。

「俺に話せ。何があったのか、何で死にたいのか、全部教えろ。お前の辛いことも、苦しいことも、俺が全部聞いてやる。俺が全部受け止めてやる。だから死ぬな」

 私のために怒り、私のために泣く。それも初対面で。大いに引いた。私の何を知っているというのだ。別に何かを知ってほしいわけでもない。なのに私は彼の要求を受け入れることにした。翌日にしてもらったのは、心の準備をしたかったからだ。

 その日から翌朝にかけては死のうとしなかった。一向に涙が止まらずその気にさえなれなかった。その間ずっと彼のことを考えていた。彼のことを考えながら浅い眠りについていた。夢の中でも彼のことを考えていたような気がする。朝になったときには左目が腫れていた。眼帯を着けていったら自殺未遂と勘違いされて彼に怒られた。なぜだか嫌な気持ちにはならなかった。すぐに誤解を詫びられたからだけではないだろう。ただしそれらが好意だったのかどうかは定かでない。

 昼食のときにあやめちゃんに問われるまま、昨日彼と話したことと今日も話をすることを伝えると、それ先にやらせてねと薊くんに連絡をし始めた。また二人を巻き込んでしまったと後悔しながら、二つ目のお弁当に取り掛かった。

 放課後に一人取り残された私は、今まさに三人が私のために何かをしてくれているということに対して、嬉しさと申し訳なさで気が狂いそうになっていた。よくあることだ。それを全て捨て去るために死を望み実行するのも、よくあること。

 気が付いたときには屋上の柵の外にいた。校庭で私を見上げる三人が、それぞれに私のために何かをしてくれていた。聞こえないかもしれないけど、彼にごめんねと伝えた。

 柵から手を放した後の記憶はない。次に気が付いたときには保健室のベッドに横たわっており、その傍らに彼がいた。

 約束どおり話をする前に、お兄さんが自殺していることを聞いた。私も自分の素直な気持ちを話した。

 その後のことはあまり思い出したくない。自殺反対論者の独善的な理屈に嫌気が差し、言い争いをした挙句、それでも翻意しない彼に業を煮やして、私が生きるために死ぬことを求めた。

 それからの彼には、当然死ぬ気配などなかった。顔を見るのも嫌で、徹底的に存在しないものとして扱った。

 それでも彼は何もしなかった。私の求めを実行するでもなく、私に対して詫びるでもなく、一丁前に苦悩していることだけを窺わせた。

 私の苛立ちは極まっていた。ふと思い立っていつもの習慣を変え、彼の机に花を手向けてみた。まさかまだ下校していないとは思わず鉢合わせしたが、引っ込みも付かず再度彼にそれを求めたところで、あやめちゃんに頬を張り飛ばされた。

 ここから先の記憶はまた飛んでいる。気が付けば両手両足を包帯で巻かれて病院のベッドに横たわっており、傍らに侍っていた薊くんにおおよそのことを聞かされた。

 あやめちゃんに謝るつもりで呼んでもらうと彼まで着いてきた。それでもあやめちゃんに謝ると、さらに叱られた。そのうえ薊くんとの間で諍いが生じ、私は申し訳なさで泣けてきた。それを収めたのは、彼だった。

 彼は初めて非を認めて私に謝ってきた。しかしその内容は自分がいることで私を不愉快にさせたことや、私の自殺を止められると思い上がっていたことに対してであり、とてもじゃないけど足りなかった。ただ、最後に彼は、自殺を否定している自分が自殺をするために、時間が欲しいということを言い、それまでの間だけ生きることを私に求めてきた。

 それがあったからではないと思うけど、私はそのとおりにした。

 程なくして退院した日、あやめちゃんと薊くんに報告だけしておいた矢先、見知らぬ番号から連絡が入った。訝りつつ出ると、彼の声がした。

「――何で番号知ってるの――私あなたに用はないんだけど――死んでくれるの? 私が生きるために死んでくれるの?――」

 彼は、できればと前置きしてから、今日この後の時間と、場所を提案してきた。私は適当に了承して電話を切った。その用件ならば、いつだってどこだって行ってやった。

 指定された時刻より少し早く、待ち合わせ場所の跨線橋にたどり着いたときには、それまでの星空をひっくり返す大雨が降っていた。当然傘など持っておらず肌まで濡れて不快だったが、そのために彼がいないことを期待した。彼がいなければそのまま電車に飛び込むつもりで階段を上がった。このときばかりは成功するという確信があった。やっと死ぬことができるという安堵と歓喜でいっぱいだった。

 だから私と同様に雨に打たれて全身を濡れそぼってなお彼が待ち構えていたことは、私にとってそれほどよいことではなかった。また死ぬ機会を逸してしまったと落胆した。それでも彼が用件を果たしてくれることに期待した。

 私は彼を負かしたかったのだ。

 お前のために死ぬことはできない。

 そう言わせたかったのだ。

 私を憤慨させたことについては恨んでいない。謝れとも悔やめとも思わない。本当に彼の死を望んでいるわけでもない。

 ただ、私の自殺を止めることなど、不可能であると、知ってほしかった。誰も私の裡に入っていくことなどできないのだと、わかってほしかった。私以外の誰にも私の命を恣にすることはできないのだという敗北を、与えたかった。

 でも、彼は負けなかった。

 彼は私に約束を守るようにと念を押して欄干によじ登った。彼の横顔は確信に満ちた微笑を浮かべていた。これで私の自殺を止められるのだという歓喜の涙がその笑顔を輝かせていた。

 まさかと思った。そんなはずないと疑った。本当に死んでくれたところで約束を果たすかどうかなど私にだってわかるはずないだろうと内心嘲った。それなのに彼は笑っていた。泣いていた。死のうとしていた。私のために笑い、私のために泣き、私のために死ぬ。私を生かすために。彼は私のためにそこまでしてくれる。

 やってきた電車に向かって彼が身を躍らせるのと同時に、私は彼に飛び掛かっていた。この人を死なせたくないと願っていた。それが叶うならば何でもすると誓った。その祈りが届いたのか、私は彼を引きずり倒すことができた。

 目を閉じた彼の顔を見下ろして涙が溢れてきた。光の宿る瞳を認めて号泣した。死なないようにとせがんだ。その命を留めるように抱き着いた。こんなひどいことをさせるまで追い詰めてしまったことを何度も謝った。

 何でもしてくれるかと問われたときは言い淀んだ。してやられたような気がした。さっきの誓いを投げ捨てたかった。生きることを除外して一矢報いたのも束の間、にわかに抱き寄せられて唇を奪われた。動転したが、すぐに身を任せることにした。

 このときにはもう、私の彼への感情は、好意以外の何物でもなかったろう。

 死んでいいと言われたときは、嬉しくて、寂しくて、連れていけと言われたときは、嬉しくなくて、寂しくなくて、一緒に死ぬことを受け入れてくれたときは、やっぱり嬉しくなくて、寂しくなくて、私がいてくれればそれでいいと言ってくれたときは、嬉しくて、寂しくなくて、でも申し訳なくて、いたたまれなくて、それでも私と一緒にいたいと言ってくれて…次第に私は死ぬことを考えなくなっていった。だから私は明日も生きると、一緒に生きていくと、約束できたのだ。

 軽い打撲とあちこちの擦過傷は、自傷の跡の上からしばらく痛んだ。それは彼を助けることのできた勲章のように心地よく重かった。

 私はきっとあのとき、彼と一緒にこちら側に、私のことも連れ戻せたのだ。それからの日々の蓄積からも、もう懐かしくさえあるあの場所にたどり着くことは、ないだろうと思っていた。

 それなのに、またこんなところに、舞い戻ってきてしまった。今ならわかる。たった一度だって、来ないほうがいいところ。

 途中から数を数えるのをやめて、指だけを動かしていた。電車は何台、通過しただろう。

 誰かが水を踏み締める音が近づいてきて、すぐ真横に現れた気配とともに途絶えたとき、ちょうど開かれたところだった手を、思わず握り締めていた。

「なんであんなところにいるのよ」

「風邪ひいちまったんだよ」

「真面目に答えて」

「心の風邪っていうだろ」

「鬱なの…?」

「鬱状態だとさ」

「どんな具合…?」

「とにかく寝付けない。この間、初めて来たときに、なんか薬もらってからは、少しいい」

「私のせいだよね…私なんかと付き合ってるから…そんな風になっちゃって…」

「お前がいてくれなけりゃ、俺はもっと悪くなってたよ」

「じゃあ…どうして?」

「俺の誕生日ってさ」

「10月30日でしょ」

「覚えてたか」

「去年なにがあったと思ってるのよ…」

「悪いが本当に思い出せない」

「私まだ許してないから」

「お前も執念深いな」

「そっちが甘すぎるのよ」

「誰かを失うのが嫌なだけだ」

「………」

「兄貴の誕生日は覚えてるか?」

「いや聞いたことないけど」

「そうだっけ?」

「多分だけど」

「命日は?」

「6月だってことは覚えてる」

「8日だ」

「ああそうだ…去年、胡蝶くんが転校してきた日だったよね」

「死んだのはその1年前だ」

「うん…そう聞いてる」

「誕生日は9月2日だ。18年前のな」

「…まだ17歳だったんだね」

「今の俺と同い年だ」

「………」

「兄貴は2年前の6月8日、俺と同じ17歳で、俺と同じ高校三年生のときに、死んだ。それがちょっとな」

「気になるの…? とっくに越えてるじゃない」

「命日はな」

「……?」

「俺の誕生日はいつだって?」

「10月30日」

「18年前のな」

「……?」

「確かに俺は、兄貴より長く高校三年生をやってることになる。次の10月30日には、年齢の上でも兄貴の歳を越える。だが、日で計算していくと、俺が兄貴の歳に達するのは、今度の8月5日になる」

「………」

「俺はその日を越えられるのかな」

「………」

「呆れるだろう」

「そんなことないよ」

「俺は呆れてる」

「………」

「死んだ兄貴の歳を越えられないんじゃないかっていう、妙な予感に囚われてる。それも一日単位で考えてるんだ。およそ病的だ」

「………」

「家族が自分より先に死んだ奴なんていくらでもいるだろう。うちに限ったって親父の親はどっちも今の親父より早く死んでるし、お袋は自分が生まれる前に父親と姉貴を一緒に亡くしたって話だ。それなのに俺だけがこれだ。違うのは兄貴の死因が自殺だってことだけだ」

「………」

「俺は今でもお前のためになら死ねるし、生きられる。だが、そうじゃなく死ぬことは絶対にごめんだ。なのにそれが迫ってる。そんな気がする。それが俺の運命なんだろうと思えてならない。むしろ、そうしなくちゃいけないんじゃないかって、思うことさえある」

 途中から胡蝶くんの声がうまく聞こえなくなっていた。頭の中をぐるぐるとぐるぐると、私が試した種類の数の分だけの胡蝶くんの亡骸が、まるで見たことのあるもののように浮かんできていた。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 私を生に留めてくれた彼を失うなんて、考えたことがなかった。考えたくもない。死にたい。死んでしまいたい。そうだ死んでしまおう。死んでしまえば辛いことなんて何も考えなくていい。それでいいんだ。それでいい。それで――

「だから聞かせたくなかった」

 胡蝶くんの声が耳元ではっきりと聞こえ、私は我に返る。私は欄干に身を乗り出し、胡蝶くんに後ろから抱き締められているのだった。いつの間にか手放されていた二つの傘は私たちに近いところに転がっており、私たちと同じように雨に打たれていた。

「心配するな。その日を越えることができれば元に戻る。きっとな」

 嘘をつけず見栄も張れない恋人が思わず最後に吐き出した不安を、その恋人である私が聞き逃すはずがなかった。

「私、何もできないの…?」

「いてくれればいい。お前がいるから、俺は持ちこたえていられるんだ」

 いつしか私の足は地面に達していた。前後して欄干からも手を放していた。けれど胡蝶くんは今なお私を抱き締めている。むしろ胡蝶くんが私にしがみついてきている。そうして私ごと自分のことを抱き留めているのだろう。胡蝶くんを生に繋ぎ止めているのは、その言葉どおり、誰あろう私なのだ。

「それじゃあ、いつかの約束」

 私は拘束されている腕を目いっぱい動かし、胡蝶くんの手にその手を重ねると、軽く力を込めた。

「一緒に死ぬ」

 胡蝶くんは少しだけ考えるような時間を置いてから、ゆっくりと首を振った。

「やめておこう」

 そして私を放していった。

「無傷のお前のそばで、俺一人バラバラになるのがオチだ。そうなったらお前は、今よりもっと死にたくなるだろう」

 胡蝶くんは私の傘を拾い、私の手に握らせる。それから自分の傘を拾って頭上に掲げ、そのまま振り返らずに言った。

「また連絡する」

 胡蝶くんの傘は、その体をしっかり覆うことができるだけ大きくて、そのためにその表情が窺えず、こっちを見てくれたのかどうかもわからないまま、持ち主とともに階段の先に消えていった。

 私はしばらくの間、行き交う電車を見下ろしていた。もう、数を数える気にはならない。

 ふと、そこに飛び込んでいく私が見えた。その私は電車の先頭に勢いよく跳ね飛ばされ、片方の壁にぶつかって跳ね返され、地面に叩き付けられてバウンドし、線路を横切るように留まって、やがてむっくりと起き上がると、登れるところを探すように力なくあたりを見回し始めた。

 私は失敗した私と目が合う前に、家路に着くべく跨線橋を降りていった。

 その後も私は多くの私を目にした。

 巨大なトラックに飛び込んだ私は、そのトラックの前部を私の形にへこませて停止させたものの、その姿勢のまま直立していた。不心得者が路上に残した煙ったままのタバコの吸い殻に手をついた私は、たちまち雨滴を燃やし尽くすような炎に包まれたが、その蹲った姿勢を泰然と保っていた。高い建物のそばを通るたびに私が落下してきたけれど、伏臥仰臥側臥の差こそあれいずれも傷一つ負っていなかった。

 家に帰ると首を吊ったままの私が出迎えた。何が違うのだろうと難しい顔で悩んでいた。夕飯を作るため棚を開けると包丁を掠め取られた。手足を満遍なく切り刻んでいる私の邪魔にならないように買い置きのカップラーメンにお湯を注いだ。浴室に入るとうまく眠れなくてむずかるみたいに位置を変える私が湯舟に沈んでいた。そのせいでシャワーしか浴びられなかった。

 私の想像の中の私は、どれもこれも自殺に失敗した。今までがそうだったように、これからもそうだろう。試すまでもないことだ。

 夜が更けても眠気は訪れず、けれど起きているのもしんどくて、もらったばかりの薬を服用した。かなり強めの睡眠薬。不安がそれほど大きくないときは、指定された量でもよく眠れる。久々に口にしたせいか、すぐに瞼が肥ってきた。何も思い出すことのないように、いっそこのまま息絶えることを望みさえして、ベッドに入ってしばらくしてから、夢遊病のように這い出た。

 ふらふらしながら残りの薬を全て開封し、危なげな手つきで鷲掴みし、口に入った分だけまずは飲み下し、こぼれた分を拾っているうちに、思い立って薬箱を引っ繰り返した。市販の風邪薬や頭痛薬。記録的に生理痛がひどかった去年の夏に一度だけ買った薬。食べ過ぎたときにしょっちゅう頼る胃薬と、さらに食べ過ぎたときにごくまれに頭を下げる下痢止め。傷薬? 割ればいけるか。水に混ぜよう。目薬は出すのに時間かかりそうだな。軟膏かあ。パンにでも塗れば…ああ、駄目だ。残ってた半分、朝食べちゃったんだ。

 ほぼ全ての薬を胃袋に流し込んだときには、ベッドに戻れなかった。誘われるように冷たい床に伏せると、拾い切れなかった一粒が見つかり、勿体ないと口に入れて味わうように舌でもてあそんだ。これ何の薬だろう。もうわかんないや。どうせこれでも死ねないだろうな。やっぱり目薬と軟膏も入れるんだったな。パンも1枚ぐらい残しとけばよかったな。

 気が付けば無音に包まれていた。そして広がる暗闇。明かりは点けたはずだけど、目が開いているのかどうかもわからない。これは初めてだ。いつものオーバードーズは気が付けば朝になっていて、嫌になるほど爽快に目を覚ますものなのに。

 もしかして、これが死んでいくということなのかな。それとも私はもう、死んでいるのかな。

 いずれにしても、私の意識はまだ続いている。いつどの瞬間に、絶えるか知れない。

 私は、一瞬かもしれず永遠かもしれない時間の全てを愛に捧げることにして、暗闇に彼を浮かべた。やはり負い目があるのだろう、彼は私に背を向けていたが、語りかけるにはちょうどよかった。

 ごめんね胡蝶くん。私、残されるのは怖い。胡蝶くんがいないところで、たとえほんの少しでも生きていくなんて、できそうにない。私が死んだら、怒るかな。そりゃ怒るよね。それとも追ってきてくれるのかな。ちょっと嬉しい気もするけど、やっぱり来ちゃだめ。私が死んでも、胡蝶くんには生きててほしいから。勝手だけどお願い。私の分まで生きてね。幸せになってね。大好きだよ。もっといっぱい、言っておけばよかったかな。もっといっぱい、聞きたかったな。でもきりがないもんね。しょうがないよね。

 ふと、胡蝶くんの頭が、前のほうに傾いているのに気が付いた。目の前にいる誰かを見下ろしているような、その誰かと話しているような。軽く手を広げ、その誰かを抱き締める。胡蝶くんの両側から、それぞれ腕が伸びてきて、胡蝶くんの体を抱き締め返す。自傷の跡で醜悪に汚れたむき出しの腕が、胡蝶くんの体に巻き付いている。

 突如私は飛び起きた。膝つきそうになる全身の筋肉を野太い掛け声とともに蠕動させ、よろめく足取りでどうにか洗面所に雪崩れ込みつつ、正面の洗面台に上半身をぶつけることに成功する。震える手で体を支え、やはり自由の利かないもう片方の手をできるだけ細く長くして、口の中に突き入れる。喉の先、胃の奥、腸の果てまで届かんばかりに、極限まで伸ばした指を限界より深く差し込む。窒息しそうな苦痛をしばらく堪え、耳障りなえずきを幾度か噛み殺した刹那、逆流した酸液が喉元と口腔を焼きながら大量の薬剤を運び出してきた。

 いつ果てるとも知れない色とりどりの錠剤が、聞くに堪えない粘った水音とともに眼下に滴り落ちていくのを息苦しく眺めながら、勝負ごとに勝ったような満足感を味わっていた。しかし私は追い打ちをかけるように、一つ残らず掻き出すように、指をさらに突っ込んだ。まだ出てきた。まだまだ出てくる。

 オーバードーズは何度も試した。これまですべて失敗した。今回だってそうかもしれない。でもそれではいけない。たとえまた未遂に終わるとしても、それでは足りない。死んでたまるか。私は生きるんだ。胡蝶くんと一緒に生きるんだ。一人でなんて死ぬものか。二人でだって死ぬものか。私たちは生きるんだ。二人で一緒に生きるんだ。

 やがて、薄めた夕飯の味が口の中に広がってきた。それによって最後に排水口に飲み込まれた小さな塊がその残骸だったと悟り、私は安堵した。眠気も失せ、かなりの空腹を覚えた。そりゃそうだ。カップラーメン一つしか食べてないし、ほとんど出しちゃったし。

 髪をかき上げつつ体を起こすと、鏡の私と目が合った。涙と汗で濡れた馬鹿な顔。汚れた口周りに髪の毛が張り付いているのが一層滑稽で、思わず笑えてきた。力が抜けてへたり込み、這うような姿勢で笑い続け、それから伏せって嗚咽した。胡蝶くんのことが思い出されてきた。今この瞬間を、胡蝶くんは、どんな気持ちで、生きているのだろうか。本当に、生きていてくれているだろうか。

 死にたくないよ、胡蝶くん。私胡蝶くんと一緒に、生きていきたいよ。約束したじゃない。死んじゃだめだよ、胡蝶くん。私と一緒に、生きていってよ。約束したじゃない。

 吐き疲れて、泣き疲れて、動く気にもなれなくて、食べる気にもなれなくて、私は目を閉じた。暗闇の中には、胡蝶くんも私も、いなくなっていた。

 でも、と思った。

 胡蝶くんがそうじゃないなら、どうしたらいいんだろう。

 しばらくすると、それぞれの瞼の裏に、もはや懐かしい二人の姿が、おぼろげに浮かんできた。会いたいと思った。しかし、うまく像を結ばせることができないまま、私の意識は遠のいていった。

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