「俺達の育児2022」
skebにてリクエストをいただいた時に書いたものです。
まさかこの作品の続きをリクエストしていただけるとは思いもしませんでした。
本当にありがたい話です!
時系列は最終回から大体一年後です。
普段書かないタイプの話だったので良い経験になりました!
娘が信じられないくらい不貞腐れている。
眉間にしわをよせ、下唇を突き出したその顔を見た時は目を疑ったが何度こすっても表情は変わらない。
まずい、現実だ。
パズルのようなデザインのカラフルなフロアマットの上には、絵本やおもちゃが散らばっている。普段なら何度もめくっては閉じてを繰り返されるお気に入りの絵本は無造作に開かれたまま放置されており、昨日までは楽しそうに遊んでいた果物のブロックは両断されたまま適当に転がされていた。
その中央に座するは我が家の姫にして女王。
真っ白なワンピースで着飾った彼女は……
「ぱぁぱ、や」
不貞腐れた顔でパパは嫌と主張するのだった。
どうして…………
俺、神宮羅生が一児のパパとなってから早一年。愛する我が子が一歳児となり、先月ついに一人で立って歩けるようになった。
現場には立ち会えなかったものの、それはもう喜んだし、奮発して次の日にはケーキも買ってきた。
しかし俺はその時、まだ気づいていなかったのだ。
娘の、羅々の好感度ゲージが、ママとパパでえげつない程の差がついてしまっていることに。
「……よし、絵本を読まないか? 羅々の大好きなぐりとぐらだよ」
「……ぷぁ!」
掌底をもらった。
なんだよその潰れた虫でも見るみたいな顔はよ。
「ぱぁぱ、や」
なんなんだよ……その握りしめた拳はよ……。
「どうして……」
おかしい。
こんなハズではなかったのだ。
俺と羅々は仲良し親子。
パパは娘が大好きで、娘もパパが大好きなハズなのだ。
それが、何故……。
抱きしめればパパの愛が伝わる……そう信じて俺は両手を広げた。
「ら、羅々~~」
「ぷぁ!」
二度目の掌底だ。さっきの拳は何だったんだ。
「うわぁ」
試しにその場で後ろに転がってみたらちょっとだけ笑ってくれた。
調子に乗って起き上がって笑いかけると、羅々はすぐに顔をそむけてしまう。
「く……! やっぱりママじゃないとダメなのか……!?」
今日は夜まで俺と羅々の二人切りだ。
妻は現在、友人と日帰り旅行に出かけている。
というか、出かけてもらっている。
友人に誘われた妻は、ほとんど断る前提で俺に相談してきていた。羅々を置いて旅行になど行けないが、相手が独り身なため羅々を連れて行くわけにもいかない、と。
しかし普段専業主婦として、羅々と家庭を守ってくれている彼女に、出来ればリフレッシュしてもらいたかった。そしてなにより、その時の俺は薄々勘付き始めていた。
……羅々って俺に懐いてなくない? と。
羅々が生まれたばかりの頃は仕事にも余裕があり、一緒にいられる時間も多かった。妻と一緒に羅々と遊んで、一緒に食事を用意して一緒に寝て、そういう時間を過ごしていた。
だが今年に入ってから、俺の勤務先である津中工業は急激にその生産数を増やすことになる。おかげで残業は急増し、班長である俺はその責任もあってか定時で帰れる日はほとんどない、と言った状態が続いていた。
その結果羅々と過ごせる時間は激減し、俺が帰る頃には既に熟睡していて顔を合わせるのは早朝だけ、という日が多かった。俺自身、ぐったりしていて余裕がなく、辛うじて家事をすませたらすぐに寝てしまう日も結構あった。
そして「ぷぁ!」と掌底と「ぱぁぱ、や」である。
ぱぁぱも残業、や。
最早俺は羅々にとっては知らないおじさんなのかも知れない。
その状況から脱却するため、妻の日帰り旅行を口実に有給を取り、パパと羅々のニコニコ仲良しDayを設けたのだが……。
妻が家を出てからほとんどこの調子である。
諦めてアニメを見せようかとも思ったが、俺はどうしてもこれを機に羅々と仲良しになりたかった。
「う……うぅ……まぁまぁ……」
「……しまった!」
さっき迂闊に”ママ”と口にしてしまったのは悪手だった。
今日はママがいない。これを羅々がハッキリと認識してしまうともう手がつけられない。泣き出した羅々を泣き止ませることが今の俺には出来ない。
「パパと遊ぼう! ほ~~~~~~~らべろべろべろべろべろべろべろべろべろべろべろべろべろ」
「うぅ……」
「べろべろべろべろべろべろべろべろ……」
べろべろし過ぎてばぁのタイミングがわからなくなった上に羅々はぐずったままだ。
「まぁまーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「…………ばぁ」
虚しい「ばぁ」が羅々の悲鳴に飲み込まれていく。
未だかつてないほどに虚しい「ばぁ」だ。こんな虚無があったのか。
「よし! 抱っこだ! 抱っこ!」
「ぷぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
サイレンかよ……。
「よしよし……よしよし……」
「あ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
こうなると俺も泣きたくなってきた。
どうして俺はママじゃないんだ……。ママになれる世界線だってあったのに……。
「……俺自身が……ママになるしかないのか……?」
妻の普段着はクローゼットに……
「あ゛ーーーーーーーーー!」
わけのわからないことを考えている間にも、羅々は泣き叫び続ける。
しかし羅々の泣き声が蝉とタイマン張れそうな音量になってきた頃合いで、不意にインターホンが鳴る。最悪のタイミングだ。
「なんかの勧誘だったら居留守使わせてもらうからな……!」
うちのアパートはどちらかというと壁が薄い方で、羅々が泣き出せば玄関先まで聞こえるハズだ。この状況でインターホンを鳴らすとは大した度胸である。いや待てよ、これ近所からのクレームじゃねえか……?
なんとか抱き上げて、泣き止ませようと穏やかに揺すりつつ、俺は玄関まで向かう。そしてモニターを覗き込むと、ある意味救世主のような人物がそこに立っていた。
「……頼りたくはないが……やむを得ねえ! 来い!」
そう言って鍵を開けてやると、そいつは勢いよくドアを開けて中に入ってきた。
「久しぶりー! 羅々ちゃーーーーーーーん!」
「らんもーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
ぐちゃぐちゃの顔で叫びながら手を伸ばす羅々を、そいつは躊躇なく抱きしめる。そのまま預けると、羅々はそいつの胸に顔をうずめながら次第に泣き声を落ち着かせていく。
「…………」
そいつのは名は「らんも」こと神宮羅門。俺の弟である。
「……なんなの兄さん。その潰れた虫でも見るような顔……」
うっせえ、お前に今の俺の気持ちがわかるかよ。
俺の弟、神宮羅門は結構頻繁に家に遊びに来る。俺がいない時でも平気で遊びに来ているようで、妻や羅々とも仲が良い。
羅門は定職がなく、動画配信で稼ぎながらバイトで食いつないでいる。動画配信の方は結構ファンが多いようで、広告収入とバイト代で生活費を賄っているらしい。
今日の事情を話すと、俺だけだと心配だからとしばらくここにいてくれることになった。
助かることは助かるんだが父親としては面目丸つぶれで結構凹む。
「べろべろべろべろ」
「おい羅門、べろべろばぁごときで羅々が笑ってくれると思うなよ」
「ばぁ」
「きゃーーーーーーーーーーっ!」
なんだよその弾けるような笑顔はよ……。
「よし、僕が羅々ちゃんの好きな絵本を読んであげよう! 好きなの持ってきてよ!」
なんだよ……何でダッシュで絵本取りに行くんだよ……。
「ぐりとぐらだね!」
それさっきぷぁ! だったじゃん……。
「兄さん……泣いてる?」
「ぷぁ……」
「……兄さん?」
「ぷぁーーーーーー!」
「うわ、サイレンじゃん」
やってらんねえ……。
「それより兄さん、今の内に羅々ちゃんのお昼用意した方が良いんじゃない?」
羅門に言われて時計を見れば、そろそろお昼時だ。
正直昼ごはんを作るタイミングに関してはどうするか困っていたところだったので、色んな意味で羅門の来訪には助けられる形になる。
「ああ、ありがとう。少し頼むぞ」
「犬のうんこでも踏んだみたいな顔でお礼言われたのは初めてだよ」
台所で調理をしていると、後ろから羅門と羅々の楽しそうな声が聞こえてくる。
羅門の読み聞かせは緩急がうまく、羅々を惹きつけている。静かになったと思って振り返れば、羅々は真剣な顔で絵本を見つめていた。
豆腐の分割数が増えたのは怒りではない。羅々が食べやすいようにだ。
「らんも! これ!」
読み聞かせていた絵本が終われば、今度はこれ、と羅々は別の絵本を持ってくる。
「良いよ、ほら座って」
いそいそと隣に座る姿をジッと見ていると、愛らしい姿に心温まると同時に自分の不甲斐なさが情けなくなってきた。
羅門と羅々は仲が良い。
俺がいない時でも遊びに来る羅門は、よく羅々と遊んでくれているようで、かなり懐いていると妻も話していた。実際休日に目の当たりにしたこともある。
「どうしたもんかなぁ……」
仕事やめてぇ……。
よくよく考えたら全て仕事が悪いのだ。
残業がなければ早めに帰って羅々と遊べるわけだし、そもそも仕事をしていなければ一日中羅々といられるのだ。
それは妻と一緒にいられる時間でもある。うん、全てが解決する。
まあ、給料なくなって全てが終結するんだけどな。
世を呪いながら作った昼食だが、バランスは悪くない。
卵とそぼろのご飯に味噌汁、デザートにりんごも用意してある。簡単な料理だが、そぼろは羅々の好物の一つだし喜んでくれるだろう。
「おーい、出来たぞー」
食卓に料理を並べながら目をやると、羅門が羅々に頬ずりしているのが見えた。
羅々は嬉しそうにはしゃいでおり、羅門の方も随分と楽しそうに見える。
もう親子だろアレ。
「羅門、スキンシップが激しいぞ」
「え、そう? 一応清潔にしてから来たつもりだけど」
「いや、そうじゃなくてだな」
「ああそういう? 兄さんもすれば良いのに」
「それはほら……ぷぁ! されるから」
「……来た時から思ってたけどのそのぷぁ! ってなんなのさ……」
俺だって知りてえよ……。
「え、待ってよ何で今日僕ツッコミばっかやってんの……」
「よーし飯の時間だ!」
「兄さん!!!!」
ああこれって気持ち良かったんだな。ようやくお前の気持ちわかったよ俺。
羅々が離乳食を始めてから、もう何ヶ月も経つ。
今では不器用ながらもスプーンを使って自分でご飯をすくって口に運んだり、自分で味噌汁を飲もうとしたりしていて大変愛らしい。
それでも「あーん」してやるとやっぱり嬉しそうに頬張るのだ。
羅門の時は。
「羅々……食べよう……ちょっとで良いから……パパのあーんを受け入れるんだ……あーん……」
「うぅ……」
大好きなそぼろが虫に見える呪いでもかかったのか?
羅門の「あーん」には喜ぶが俺がやるとすぐこれだ。顔をそむけたままで、パパのあーんを受け入れてくれない。
「どうして……」
「兄さん表情が硬いよ。怖がってるんじゃない? 柔軟剤使ってる?」
「毎日使ってる」
「……これは本格的にまずいよ。もうツッコミも出来なくなってる」
ゴリ押ししてこれ以上羅々に嫌われるのも嫌なので、諦めて自分の食事に戻る。
うめえなぁそぼろ丼。マヨネーズかけちゃお。
「うめ~~~」
「兄さん目つきちょっとやばいよ」
そんなことないと思うけどなぁ。
「……そういえば午後の予定とかある?」
羅々をチラ見しながら食っていると、気を取り直して羅門がそんなことを訊ねる。
「一応買い物に行く予定だけど、お前と羅々を二人でここに残すのは嫌だ」
「……あ、うん……一緒に行こうか……」
「それが良い」
羅門の来訪ではしゃいでいるのか、羅々はまだ眠そうには見えない。買い物は昼寝の後にでもしようと思っていたが、この様子なら今から行ってしまっても大丈夫だろう。
まあ今日は羅門いるからほんとはいつ行っても大丈夫なんだけどな! 全然問題ないんだけどな!
「羅々、後でパパと一緒にお買い物行こうか」
「え」
「…………羅門もいるよ~」
「らんもーーーーー!」
俺、妻が帰ってくるまで精神力もつかなこれ。
「なあ羅々、俺も実はらんもなんだよ」
「兄さん!?」
「もうほぼ同一人物と言っても良い」
「いやまあそうなんだけどさぁ!?」
「見てろよ。はい、羅門チャンネル~~~~!!」
あ、すごいな。一歳児って虚無の顔するんだ。
うちの近所には行きつけのスーパーがある。
車で大体五分くらいの場所で、近所の人達も大体このスーパーにいる印象だ。
最近は残業上がりに寄っていたので、昼間に来るのは随分と久しぶりに感じる。
何度か試したが羅々は全然手を繋いでくれない。気まずそうな羅門がひたすら微妙な顔で俺を見つめている。
そんな目で俺を見るな。
「兄さん羅々ちゃんに何かしたの?」
「いや、何も……」
むしろ何もないのが原因だろう。妻や羅門と比べて、羅々と取ったコミュニケーションの密度が薄すぎるのだ。こればかりは一朝一夕で埋められるものではない。
「……まあ、仕方ないよ。兄さんの会社ほんとに忙しかったんでしょ?」
「まさかお前にそんな風にフォローされる日がくるとはな……」
「…………目に見えて堪えてる感じだったから……」
自分で思っているよりグロッキーな顔をしているのかも知れない。昼飯の時に表情が硬いと言われたばかりだし、もう少し柔らかくしておかないとな。
「それで、何買うの? 柔軟剤?」
「ああ、丁度切らしている。まだ表情も硬いし。あとは夕飯の準備かな」
「勘弁してよ!!! 僕の柔軟剤天丼避けながらボケかぶせないでよ!」
「ははは、柔軟剤のかかった天丼は嫌だなぁ!」
「ウワーーーーーーーーーー!」
いやそれはそれとして、ほんとに柔軟剤は買わないとなんだよ……。そろそろ切らすから……。
柔軟剤をカートに入れつつ、俺達は店内を回って必要なものをそろえていく。結局羅々は羅門が抱き上げてくれたおかげで、かなり楽しそうにはしゃいでいるのがわかる。もういいや羅々の機嫌さえ良けりゃ。
そうやって買い物を進めていると、ふと見慣れた家族を見かけて足を止める。
すると、向こうも俺達に気づいて振り向いた。
「お、ぐらじゃねえか!」
「岸田、お前今日休みなのか?」
岸田光男は中学からの腐れ縁で、結局社会人になってからもこうしてちょくちょく顔を合わせている。
俺も岸田も町を出ないまま近場で就職してしまったこともあり、事前に約束してなくてもこうしてばったり出くわすことが多い。
岸田も何年か前に結婚しており、丁度羅々と同じくらいの娘、光莉ちゃんがいる。
光莉ちゃんは岸田に抱きかかえられたまま、少し驚いた様子で俺を見ていたが、岸田が顔を覗き込むと少し安心したように笑った。
「まあな。お前は? 有給?」
「そんなところだ」」
羅々と光莉ちゃんは一応面識があるが、光莉ちゃんが少し臆病なのもあってあまり打ち解けてはいない。
羅門が岸田の方へ近寄っていくと、羅々はすぐにはしゃいで光莉ちゃんに手を伸ばしていたが、光莉ちゃんの方は岸田にしがみついたまま羅々の様子を伺っていた。
「おいおい、そろそろ羅々ちゃんと仲良くなってくれよな~」
そう言いつつ、岸田は光莉ちゃんを抱きしめて頬ずりする。光莉ちゃんは少しくすぐったそうにしながらも、その小さな手で岸田のシャツを掴んで身を委ねていた。
羅々もあれくらい俺にしがみついてくれれば嬉しいんだが……。
そう思っている内に視線がジットリしてしまったのか、気づいた岸田が首をかしげる。
「な、なんだその羨ましそうな顔は……やらねえぞ! 光莉は!」
「そういうことじゃねえよ!」
「んじゃどういう目だよ今のは」
「いやその……めっちゃスキンシップするんだなって……」
俺がそう言った瞬間、岸田は一瞬キョトンとして見せたがすぐに痛快に笑った。
「こんなモンだろ!」
岸田がそう言うと、隣で羅門がうなずく。
「こんなモンだよ兄さん」
「く……! お前に言われるとムカつく……!」
「兄さんこんな調子だから、羅々ちゃんにちょっと拒否られてるんだよ」
羅門の言葉に、岸田は目を丸くする。
「……そうなの?」
「…………まあ」
「え、全然しないの……スキンシップ……」
なんだそのカルチャーショック受けたみたいな顔は。
「生まれたばっかの時は俺だってしまくってたよ! でも最近はなんかこう……そんなベタベタすんのもうざいかなって……」
仕事が忙しくなるまでは、本当に俺だってべったりだった。寝る時だって、妻と羅々を取り合っていたくらいだったのだ。
だが忙殺されている内に、接し方がよくわからなくなっていた。
「なんか……どうしたらいいかわかんねえんだよな……。喋るのも立つのも歩くのも……全部俺の知らない間のことでさ……」
羅々の成長の瞬間に、俺は一度も居合わせたことがない。いつだってそれを知るのは職場で、妻から連絡を受けて、だ。
「うーん……じゃあお前、ちょっと戸惑ってんだな」
「戸惑ってる? 俺が?」
訝って聞き返すと、岸田は大きくうなずく。そして不思議そうな顔をしている光莉ちゃんをなでた。
「子供の成長ってのは早くてビビるよな。それも知らねえ間にされたんじゃ戸惑うのも不思議じゃないかもな」
羅門に抱かれた羅々を見つめ、生まれたばかりのことを思い出す。
あれからまだ一年だなんて信じられないくらい羅々は大きくなったように見える。生まれた頃に比べると俺や妻の面影が感じられるようになったし、身長だって大きくなった。
言葉も少しずつ喋れるようになってきた。本当はもっと話して、触れ合って……めいっぱい抱きしめたい。
「でもな、ぐら……気持ちはわかるがそんな暇はねえぞ。今のうちにうんとスキンシップしとけ。ベタベタ出来るのは今だけだぞ」
「今のうち……か」
「しっかり伝えとけよ、愛してるってな」
そんなことをのたまいながら、岸田は光莉ちゃんの頬にキスをする。
普段ならツッコミの一つでも入れるところだが、今日の俺は羅門の言う通りツッコミすら出来ない。
それに、きっとその通りだ。
もっと大きくなれば、難しい年頃にもなる。特に男親の俺は簡単には抱きしめさせてもらえなくなるだろう。
羅々を見つめていると、羅々がジッとこちらを見つめてくる。
つぶらな瞳も、ふっくらとした頬も、全てが愛おしかった。どれだけ邪険にされていても、こればっかりは理屈じゃない。
カートを放してそっと手を伸ばすと、羅門はゆっくりと羅々を俺へ差し出した。
「……羅々、パパがだっこしてもいいか?」
羅々はしばらくそのまま俺を見つめて、そして――――
「……や」
……え? この流れでも?
結局、羅々のだっこには失敗したままスーパーを後にした。
とりあえず買うものは買ったし、羅門や岸田家と会ってはしゃいだのもあってか羅々も疲れているように見える。そろそろいい感じに眠くなってくる頃だろう。
昼寝している間に、夕食の準備や家事をすませておかないといけない。
疲れているだろうしすぐ寝るだろう、と楽観視していたのだが、思ったよりも羅々の寝付きは悪かった。
「うぅ……」
目に見えて眠そうだが、うまく寝付けないらしい。今にも泣き出しそうな羅々から、俺も羅門も片時も目を離せなかった。
大抵こういう時は妻が添い寝している内に寝付くのだが、今日はそういうわけにもいかない。
「…………」
思わず、羅門へ視線を向けてしまう俺がいた。
正直悔しいが、羅々と仲が良いのは俺じゃなくて羅門の方だ。俺が寝かし付けようとしたって、羅々に拒絶されるだけだろう。
それならいっそ、最初から羅門が――――
「……あ」
などと考えていると、不意に羅門がポケットから携帯を取り出す。
「ごめんちょっと席外すね」
「え、どんくらい?」
「一時間くらい」
「え!? そんなに!? どうした!?」
「今度コラボで生配信やるりえりーさんと打ち合わせがあるの忘れてた……」
「お、おう……そうか、行ってこい」
携帯を耳に当てながら慌ただしく去っていく羅門を見つめる羅々。俺との視線はすれ違っていた。
「らんもぉ……」
まずい、本格的にぐずり始めた。
「ちょ、羅々――」
「あ゛ーーーーーー!」
そしてまずいと思ってから数秒足らずで羅々は泣き始めてしまった。
「…………」
あやそうとするよりも先に、まず途方に暮れてしまう自分がいた。
どうすればいいのかわからなくなってしまった。結局俺は、今日一度も羅々の世話をやり切れていない。
それなりに意気込んでいたつもりだったが、半日程度でこのザマだ。羅門がいなければもっと早かっただろう。
「……やっぱ羅門に――――」
そう思って立ち上がったところで、それはどうなんだと自分に問いかける。
それでいいのか?
確かに羅門の方が羅々に懐かれてる。きっと俺なんかより早く寝かしつけられるだろう。
打ち合わせだって一度中断してもらえばいい。
だが……それでいいのか?
「……良くねえだろ」
つぶやいて、俺は羅々の前に座り込む。
「……羅々」
――――しっかり伝えとけよ、愛してるってな。
岸田の言葉を思い出しながら、俺は羅々に手を伸ばす。
今更ながら思う。
俺は忙しくなってから今日までの間、羅々にちゃんと愛を伝えただろうか。
忙しいから。
もう寝ていて起こすわけにはいかないから。
もう出勤しないといけないから。
ウザがられると嫌だから。
いくつも理由をつけて、羅々から離れていたのは俺の方だったんじゃないか?
家事を手伝うだけで育児に参加したつもりになって、俺はもう長いこと育児に参加していなかったのかも知れない。
知らない内にどんどん羅々が大きくなって、その瞬間を見届けられなくて、不貞腐れていたんだ。
我ながら本当に、情けない話だった。
「羅々……ごめんな」
むずがる羅々をなるべく優しく抱きしめる。
こんなに柔らかくて温かかい命を、どうしてもっとはやくこうしてやれなかったんだろう。
「パパ、仕事のことばっかりで、羅々のことちゃんと見てなかった」
また掌底の一つでももらうかも知れない。そう覚悟していたが、不思議と羅々はそのまま俺に身を委ねた。
シャツに染み込む湿った温もりが、今の俺には心地良いとさえ思える。
「不甲斐ないパパだけど……俺は羅々のことを大切に思ってる。お前のことが、一番かわいいよ」
きっと羅々には、言葉では半分も伝わってないだろう。
それでもいい。
伝わるまで何度でも言えばいい。何度でも抱きしめればいい。
俺だってちゃんと愛しているんだって、そう伝わるまで。
そうやって包み込んでいる内に、泣き声がやんでいく。小さくしゃくる声が聞こえてきて、気づけば羅々はすっかり泣き止んでいた。
「ぱぁ……ぱ……」
小さな、ようやく最近ものをつかめるようになったばかりの手が、俺のシャツをぎゅっと握った。
寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。
すっかり眠り込んだ羅々を放せないまま、俺は横になってジッと寝顔を見つめていた。
眠ると同時に羅々の手からは力が抜け、自然と俺のシャツからは手が離れている。なんだか名残惜しくて、シャツについた小さなしわを伸ばす気が起きない。
……が、涙と鼻水でベタベタだ。今の俺にとっては勲章みたいなものだが、後で着替えた方がいいだろう。
規則的に聞こえる寝息に耳を傾けながら、俺は羅々の頭をなでる。
ああ、この時間がずっと続けばいい。
「あ、羅々ちゃん寝た?」
クソ。五分くらいで終わった。
「随分と短い一時間だったな?」
「プロの打ち合わせは早いものさ」
「……よく言うよ」
五分くらいで戻ってきた羅門と、声を潜めてそんな会話をして、俺はため息をつく。
「さてと、もう大丈夫そうだし、帰ろっかな~」
「なんか用事でもあんのか?」
グッとその場で身体を伸ばす羅門にそう訊ねると、羅門はかぶりを振る。
「いや、別にないよ今日は」
「…………じゃあ、もうちょいいてくれ」
心なしつぶやくような声音になってしまったが、きちんと伝わっていたようで羅門は首をかしげた。
「晩飯、食ってくか?」
羅門は一瞬目を丸くさせたが、やがて歯を見せてニッと笑った。
「うーん、じゃあいつもの北京ダックが良いな~」
「わかった。今からなら晩飯までに程良く自然解凍出来るだろ」
「いや嘘でしょ!?」
「丁度冷凍のロースト北京ダックがあるんだ。今日の晩飯はそれにしよう」
「普通そんなの丁度ある!? ねえおかしくない!? 今日絶対僕にツッコミさせようとするじゃん!?」
あーおもしれえ。たまにはいいな、こういうのも。
マジな話をすると、妻と相談して日頃のお礼にって用意してただけなんだけどな。
驚いてんのがおもしれえから、ギリギリまで隠しとくか。
「起きたら今度は、パパと遊ぼうな」
そう言って、かわいらしい寝息を立て続ける羅々をもう一度なでた。