愛の斜陽
その夜も、ハリーは褥の中でヴィオレットを抱いていた。
いや、今宵は、ヴィオレットがハリーを抱き締めてくれている。幼児にするように頭を撫で、髪を手櫛で梳いてくれている。
ハリーはヴィオレットの小さな胸に頭を乗せて、心音を聞いていた。とくとくとく、と少し早めに脈打っているのは気のせいだろうか。
それも当然のことか。会えないでいた七日間を埋めるように、いっそう激しく愛し合ったあとなのだから。
「ねぇハリー」
唐突な呼び掛けに、ハリーはわずかに頭をもたげた。
「どうした、ヴィー」
「ねぇ……私のものになってくれるかしら? 私だけのものに……」
甘えるような物言いに、ハリーは柔らかく微笑んでヴィオレットを見た。長いこと離れ離れだったから、不安になったのだろう。
「なにを今さら。私の心は君だけのものだ。初めて会ったその日からね」
「……そう」
ヴィオレットが浮かべた笑みは、凄絶なほど美しかった。そして、濃密な欲望が滴っていた。四十日の断食を耐えた者でさえ、食事を前にしてそこまで餓えた顔をするだろうかと首をかしげるほどに。
ヴィオレットの尋常ならざる情火はハリーの理性を焼き尽くし、本能の奥までを溶岩のように熱する。ハリーは勃然として沸き起こった感情のままヴィオレットを組み敷き、ただちに思いを遂げようと急ぎ迫った。
だがヴィオレットは、魚のようにするりとハリーの腕から抜け出ていってしまう。
すぐに冷静さを取り戻したハリーは、己の所業にさっと青ざめた。力尽くで事を為そうとし、ヴィオレットを怯えさせたかもしれない、と。
けれど、ベッドの端へ逃げた女は、くすくすと笑っていた。
「焦ってはダメよ」
裸身を隠すのは髪に任せて、両の腕を大きく広げるヴィオレット。
「おいで、ハリー」
甘い声に引き寄せられ、夢遊病者のように近付くと、すかさず強く抱き締められた。獲物を捕らえる蟷螂のように、俊敏かつ強靭な動作だった。
「ホテルは明日引き払うわ。この街ともお別れしましょう」
「そ、それは、どういう……?」
ハリーは震える声で尋ねた。この関係は今夜限りということなのだろうか。そう思うとますます血の気が引くが、ヴィオレットの態度を見る限り、そうとは思えなかった。
「他の女の手垢がついたものは、すべてここに置いて行ってね」
と、ヴィオレットはくちびるを寄せてくる。彼女からもたらされた口づけは、身も心も溶かすほどに濃密だった。あらゆる懸念を吹き飛ばし、なにもかもが些末事になってしまう。
長いキスを終えると、ヴィオレットはハリーの首筋へとくちびるを這わせた。
しっとりと柔いが、皮膚に吸い付く蛭のようでもあった。
「ヴィー……?」
「今度は、私に身を委ねて」
ヴィオレットの囁きの直後、鋭い痛みが走り、ハリーは思い切り顔をしかめる。噛みつかれたのだと咄嗟に理解することはできた。
なぜいきなりこんなことを、という疑念が生じたのはごくわずかの間だけ。
終ぞ経験したことのない快楽が全身を駆け巡り、口から悲鳴が漏れていた。
いや、悲鳴ではなく――嬌声だった。
とびきりの悦楽に酔い、悶えながら喘ぐ少女のような甘い声。こんなはしたない声を出す自分が恥ずかしく、口を閉じようと試みたが、身体の自由が利かなかった。
ヴィオレットの喉からは、こくりこくりと貪欲な嚥下の音が聞こえてきている。
――吸血鬼だ、と頭のどこかから声がした。
ヴィオレットは、ハリーの血を飲んでいるのだ。
恐怖や嫌悪は感じなかった。それどころか、もっともっとと全身が求めている。
気付けば、ハリーはヴィオレットの背をへし折らんばかりに抱き締めていた。
身体からなにかが抜けていくようでもあり、なにかを注入されているようでもあった。
意識を明瞭に保ち、なにをされているのか探ろうとしたが、強烈な官能がすべてを覆い尽くし、やがて気を失っていた。
***
ハリーは、ヴィオレットのものになった。
カルミラの民という伝承上の生き物の従属体になったのだ。
エドマンドも含め、人間でなかったのかと驚いたが、納得もできた。道理でこの世のものではないほどに美しいわけだ。
人間ではなくなった恐ろしさや悲しさは微塵もなく、ただ嬉しかった。
添い遂げることは出来ないかもしれないと思っていた女と、深い部分で繋がることができたのだから。もう身分や立場を気にすることなく、思う存分ヴィオレットを愛することができるのだ。
ハリーの身も心も、ヴィオレットのものになった。
けれどヴィオレットは、ハリーだけのものではなかった。
ヴィオレットのもとには、すでに十一人の女たちがいた。
薔薇とサンザシに彩られた屋敷は、二人の『愛の巣』などではなかった。『後宮』と言った方が相応しいだろう。
ヴィオレットは、後宮に君臨する皇帝だった。
ハリーは、十二人目の女奴隷に過ぎなかった。
――こんな暮らしを、望んでいただろうか?
――なにを言っている? 十分に幸せだろう?
疑問が疑問に上書きされる。
――そうだ、幸せだ。
しあわせ……。しあわせ……。
「ハリー、ごめんなさい。今日は他の子の番なの。ずっと留守にして、寂しい思いをさせたから」
最初の晩、ヴィオレットは申し訳なさそうにそう言った。耐え切れず、ハリーは子どものように縋る。
「では、私のことはいつ愛してくれるのだ?」
「明日は他の子。そのまた次は他の子なの」
残念だが、仕方ない。カルミラの民は従者を平等に愛さねばならない。従者も、主人へ文句を言ってはならない。他の従者へ嫉妬してはいけない。
仕方がない……。仕方がないのだ……。
――いつから私は、こんなに聞き分けのいい男になったのだろう。
自己への疑問が、胸に暗い陰を落とす。
エドマンドに抱いていた嫉妬はどこへ行った?
ヴィオレットを独占したいと思っていた気持ちはどこへ消えた?
苛烈な欲望も、あふれ返らんばかりだった幸福感も、見当たらなくなってしまった。
胸にあるのは、安穏とした思慕の念のみ。ぬるま湯に浸かっているかのような、平穏だが味気ない日常。
「ハリー、おいで。血をちょうだい」
ようやく、自分の番が来た。犬のように尻尾を振って、女の元へ馳せ参じる。
血を吸われるたび、歓喜が苦悩を吹き飛ばす。恐ろしいほどの快楽がなにもかもを不明瞭にしてしまう。
――これが、こんなものが私の望みだっただろうか。
煩悶のさなか、金色の目をした魔女に囁かれた。
「かわいそうなハリー。自分の心を、取り戻したい?」
四十日の断食を耐えた者:神の子は荒野で四十日間断食し、悪魔から誘惑を受けた。
後宮、皇帝、女奴隷:トルコ語。オスマン帝国において、後宮に入る女性たちのほとんどが奴隷身分だった。




