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宵闇の女王は二度目の愛を誤らない~拾った青年に血と寵愛を捧ぐ~  作者: root-M
第四部 第二章 ハリーとヴィオレット
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愛の斜陽

 その夜も、ハリーは(しとね)の中でヴィオレットを抱いていた。

 いや、今宵は、ヴィオレットがハリーを抱き締めてくれている。幼児にするように頭を撫で、髪を手櫛で梳いてくれている。


 ハリーはヴィオレットの小さな胸に頭を乗せて、心音を聞いていた。とくとくとく、と少し早めに脈打っているのは気のせいだろうか。

 それも当然のことか。会えないでいた七日間を埋めるように、いっそう激しく愛し合ったあとなのだから。


「ねぇハリー」


 唐突な呼び掛けに、ハリーはわずかに頭をもたげた。


「どうした、ヴィー」

「ねぇ……私のものになってくれるかしら? 私だけのものに……」


 甘えるような物言いに、ハリーは柔らかく微笑んでヴィオレットを見た。長いこと離れ離れだったから、不安になったのだろう。


「なにを今さら。私の心は君だけのものだ。初めて会ったその日からね」

「……そう」


 ヴィオレットが浮かべた笑みは、凄絶なほど美しかった。そして、濃密な欲望が(したた)っていた。四十日の断食を耐えた者でさえ、食事を前にしてそこまで(かつ)えた顔をするだろうかと首をかしげるほどに。


 ヴィオレットの尋常ならざる情火はハリーの理性を焼き尽くし、本能の奥までを溶岩のように熱する。ハリーは勃然(ぼつぜん)として沸き起こった感情のままヴィオレットを組み敷き、ただちに思いを遂げようと急ぎ迫った。


 だがヴィオレットは、魚のようにするりとハリーの腕から抜け出ていってしまう。

 すぐに冷静さを取り戻したハリーは、己の所業にさっと青ざめた。力尽くで事を為そうとし、ヴィオレットを怯えさせたかもしれない、と。

 けれど、ベッドの端へ逃げた女は、くすくすと笑っていた。


「焦ってはダメよ」


 裸身を隠すのは髪に任せて、両の(かいな)を大きく広げるヴィオレット。


「おいで、ハリー」


 甘い声に引き寄せられ、夢遊病者のように近付くと、すかさず強く抱き締められた。獲物を捕らえる蟷螂(かまきり)のように、俊敏かつ強靭な動作だった。


「ホテルは明日引き払うわ。この街ともお別れしましょう」

「そ、それは、どういう……?」


 ハリーは震える声で尋ねた。この関係は今夜限りということなのだろうか。そう思うとますます血の気が引くが、ヴィオレットの態度を見る限り、そうとは思えなかった。


「他の女の手垢がついたものは、すべてここに置いて行ってね」


 と、ヴィオレットはくちびるを寄せてくる。彼女からもたらされた口づけは、身も心も溶かすほどに濃密だった。あらゆる懸念を吹き飛ばし、なにもかもが些末事(さまつごと)になってしまう。


 長いキスを終えると、ヴィオレットはハリーの首筋へとくちびるを這わせた。

 しっとりと(やわ)いが、皮膚に吸い付く(ひる)のようでもあった。


「ヴィー……?」

「今度は、私に身を(ゆだ)ねて」


 ヴィオレットの囁きの直後、鋭い痛みが走り、ハリーは思い切り顔をしかめる。噛みつかれたのだと咄嗟(とっさ)に理解することはできた。

 なぜいきなりこんなことを、という疑念が生じたのはごくわずかの間だけ。

 終ぞ経験したことのない快楽が全身を駆け巡り、口から悲鳴が漏れていた。


 いや、悲鳴ではなく――嬌声だった。

 とびきりの悦楽に酔い、悶えながら喘ぐ少女のような甘い声。こんなはしたない声を出す自分が恥ずかしく、口を閉じようと試みたが、身体の自由が利かなかった。


 ヴィオレットの喉からは、こくりこくりと貪欲な嚥下の音が聞こえてきている。

 ――吸血鬼だ、と頭のどこかから声がした。

 ヴィオレットは、ハリーの血を飲んでいるのだ。


 恐怖や嫌悪は感じなかった。それどころか、もっともっとと全身が求めている。

 気付けば、ハリーはヴィオレットの背をへし折らんばかりに抱き締めていた。


 身体からなにかが抜けていくようでもあり、なにかを注入されているようでもあった。

 意識を明瞭に保ち、なにをされているのか探ろうとしたが、強烈な官能がすべてを覆い尽くし、やがて気を失っていた。


***


 ハリーは、ヴィオレットのものになった。

 カルミラの民という伝承上の生き物の従属体になったのだ。

 エドマンドも含め、人間でなかったのかと驚いたが、納得もできた。道理でこの世のものではないほどに美しいわけだ。


 人間ではなくなった恐ろしさや悲しさは微塵もなく、ただ嬉しかった。

 添い遂げることは出来ないかもしれないと思っていた女と、深い部分で繋がることができたのだから。もう身分や立場を気にすることなく、思う存分ヴィオレットを愛することができるのだ。

 ハリーの身も心も、ヴィオレットのものになった。


 けれどヴィオレットは、ハリーだけのものではなかった。

 ヴィオレットのもとには、すでに十一人の女たちがいた。

 薔薇とサンザシに彩られた屋敷は、二人の『愛の巣』などではなかった。『後宮(ハレム)』と言った方が相応しいだろう。

 ヴィオレットは、後宮(ハレム)に君臨する皇帝(スルタン)だった。

 ハリーは、十二人目の女奴隷(ジャリヤ)に過ぎなかった。


 ――こんな暮らしを、望んでいただろうか?


 ――なにを言っている? 十分に幸せだろう?

 疑問が疑問に上書きされる。


 ――そうだ、幸せだ。

 しあわせ……。しあわせ……。


「ハリー、ごめんなさい。今日は他の子の番なの。ずっと留守にして、寂しい思いをさせたから」


 最初の晩、ヴィオレットは申し訳なさそうにそう言った。耐え切れず、ハリーは子どものように(すが)る。


「では、私のことはいつ愛してくれるのだ?」

「明日は他の子。そのまた次は他の子なの」


 残念だが、仕方ない。カルミラの民は従者を平等に愛さねばならない。従者も、主人へ文句を言ってはならない。他の従者へ嫉妬してはいけない。

 仕方がない……。仕方がないのだ……。


 ――いつから私は、こんなに聞き分けのいい男になったのだろう。

 自己への疑問が、胸に暗い陰を落とす。


 エドマンドに抱いていた嫉妬はどこへ行った?

 ヴィオレットを独占したいと思っていた気持ちはどこへ消えた?

 苛烈な欲望も、あふれ返らんばかりだった幸福感も、見当たらなくなってしまった。

 胸にあるのは、安穏とした思慕の念のみ。ぬるま湯に浸かっているかのような、平穏だが味気ない日常。


「ハリー、おいで。血をちょうだい」


 ようやく、自分の番が来た。犬のように尻尾を振って、女の元へ馳せ参じる。

 血を吸われるたび、歓喜が苦悩を吹き飛ばす。恐ろしいほどの快楽がなにもかもを不明瞭にしてしまう。


 ――これが、こんなものが私の望みだっただろうか。


 煩悶(はんもん)のさなか、()()()()()()()()()に囁かれた。


「かわいそうなハリー。自分の心を、取り戻したい?」

四十日の断食を耐えた者:神の子は荒野で四十日間断食し、悪魔から誘惑を受けた。


後宮(ハレム)皇帝(スルタン)女奴隷(ジャリヤ):トルコ語。オスマン帝国において、後宮に入る女性たちのほとんどが奴隷身分だった。

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