麗しい人の名は 2
劇が始まっても、ヴィオレットとハリーはしゃべり通しだった。だいたいヴィオレットが話しかけて、ハリーはたまに言葉をつかえさせながらも、卒なく答えている。
エドマンドはハラハラしながら二人の会話を聞いていた。主役の歌う美しいアリアがちっとも耳に入って来ない。
しかしなんだかんだ話は弾んでおり、ヴィオレットが機嫌を損ねた様子はなかった。
ハリーは、すっかりヴィオレットに骨抜きにされたようだ。
ヴィオレットが瞳に宿る誘惑の能力を使ったのかとさえ思ったが、不可視の力が放たれた気配は微塵もなかった。
「ご実家は貿易商だそうで。このご時世、とても潤っているのではなくて?」
ヴィオレットの問いかけに、ハリーははにかむように笑った。
「ええ、お恥ずかしながら。遠慮なく父の脛をかじっております」
「あら……恐縮なさることないわ、そこの優男だって似たようなものだもの」
「えっ、ぼく? はは……」
唐突に水を向けられたエドマンドは、乾いた笑みを漏らすしかなかった。
従者も自分の領域も持たず、いつまでも父母の家に住み着いているエドマンドは間違いなく『脛かじり』だ。
それからハリーは、ヴィオレットがまとっているショールについての蘊蓄を語り始めた。
専門知識のひけらかしは、しばしばご婦人を退屈させるものだが、その点ハリーは巧妙だ。ヴィオレットの反応を見ながら慎重に、難解な部分は噛み砕き、たまに脱線させ、この模様を選択したセンスを褒め称えた。
エドマンドの視界に映るヴィオレットの横顔は、決して倦怠の色を見せなかった。
堪え性のないヴィオレットを、最後まで傾聴せしめた手腕は、天晴と言わざるを得ない。
「長々と申し訳ありません。いい場面を見逃しましたね」
恐縮するハリーに、ヴィオレットは『いいえ』と穏やかに微笑む。すっかり打ち解けた笑みだった。そんな笑顔を向けられたハリーも、顔に満面の喜色を浮かべた。
しかし子どものようにはしゃいだりせず、静かにヴィオレットへ尋ねる。
「この演目、ご覧になるのは初めてですか?」
するとヴィオレットの面立ちに、わずかな険が現れた。
「いえ、何度か観ました。だから退屈で……それに、私は悲劇が大嫌いなの」
ええっ、そんなこと聞いてないよ、とエドマンドは目を剥いた。けれど今は口を閉じておく。
先ほどまで淑女のように笑んでいたヴィオレットは、呆れ果てたような目で舞台を見下ろしていた。女主人公が恋人に熱く口説かれているシーンだった。
「女を不幸に追いやる男って、どうしていつも酔っ払ったようなことばかり言うのかしら」
本心を剥き出しにしたヴィオレットに、ハリーは驚きよりも喜びを見せた。いっそう打ち解けてくれたようで嬉しかったのだろう。その油断が、彼に口を滑らせた。
「男は夢想家なのです。その点、女性は現実的で、容赦がない」
「あら、『女』をよくご存じなのね」
ヴィオレットの声が冷えた。『女』を一括りに、かつ知ったような口ぶりで語られ、気に障ったのだろう。
エドマンドは息を詰めた。ハリーの出方次第では、死刑判決が出かねない。
美しい女王が鋭い怒りをあらわにしているというのに、ハリーは典雅に笑んで見せた。
「とんでもない、日々勉強不足を痛感しています」
それから眉尻を下げ、目を伏せる。
「たった今も、一つ学習しました。若輩者が、賢しらに女性を語って申し訳なかった」
「いえ、私こそムキになって……」
ヴィオレットは舞台から目を逸らし、隣のハリーを真っ直ぐに見据えて艶やかに笑う。
ハリーの回答は百点満点だったようで、そのご褒美と言わんばかりに、たおやかな手を青年の太腿に乗せた。
あと数秒そのままだったら、ハリーは悩乱のあまり桟敷席から飛び降りていたかもしれない。彼はそれほどの動揺を見せていた。
しかし女王は手を退け、何事もなかったかのように舞台へ目を戻した。
「このあとのテノールのアリアは勇壮で聞き応えがあるわ。おしゃべりをやめて、耳を傾けましょう」
***
やがて第二幕が終わり、幕間となった。ヴィオレットが嘆息と共に吐き捨てる。
「あとは、あの哀れな女が死ぬ場面だけね」
煌めく黒目の中に、凍てつくような怒りが宿った。よほどこの劇が忌まわしいようだ。
多くの女を愛してきたヴィオレットには、女性が蔑ろにされる結末が許せないのだろう。演目を選んだエドマンドは、生きた心地がしなかった。
「せめて、男も後を追って死んでしまえばすっきりしたのに。あの男は、死んだ女のことなんて忘れて幸福になるのでしょうね」
冷笑を浮かべるヴィオレットに、ハリーは困惑しながらも答える。
「どうでしょう。生涯苦しむかもしれません」
「だといいけれど」
ヴィオレットは鼻で笑う。空気を変えるため、エドマンドは慌てて提案した。
「ヴィー、嫌だったらもう出ようか? カフェかどこかに場所を移そう」
「いいえ、最後まで観ましょう。せっかくあなたが用意してくれた席だもの」
ヴィオレットに『あなた』などと呼び掛けられた経験は初めてだった。エドマンドは、死刑判決を受けたのは己だと確信した。
劇が終わると、ヴィオレットはそそくさと席を立ち、エドマンドに身を寄せてきた。この後はどうするのかとそわそわしているハリーのことなどまるで眼中にないように。
「新しい靴のせいで足が痛いから、早く帰りたいわ。エド、ホテルまで送ってちょうだい」
「え、あ、うん」
つい頷いてしまったが、ふとハリーを見遣れば、哀れなほど呆然としていた。
「ええと、ヴィーを送り届けたら、君の家へ行くよ。先に帰っていてくれ」
「……ああ」
終末がやって来たかのような表情でうなだれるハリーから目を逸らし、エドマンドはヴィオレットの手を取って桟敷席を出た。
ホテルへ向かう馬車の中で、ヴィオレットは一言もしゃべらなかったが、機嫌がいいことだけはよくわかった。口元は綻び、今にも鼻歌を口ずさみそうな雰囲気だった。
ホテルへ到着すると、『足が痛い』などと言っていたくせに、妙に軽やかな足取りで建物の中へと消えていった。
桟敷席について:個室のため、劇の最中も仲間内でおしゃべりしたり、オペラグラスで観客席を眺めて美女を探したりと、ただ静かに観劇するだけの場所ではなかった模様。お気に入りの歌手が歌う時だけ舞台に目を向け、拍手喝采が終わったらまたおしゃべりに戻る、というような。
また、他の席に知人を見つけたら、身振りで自分の桟敷席にお招きし、招かれた方は幕間にお邪魔するなど。ちょっとしたサロンのような使われ方をしていたようです。
毛織物のショール:いわゆる、インド産カシミア山羊のストール。西洋で大流行した。薄手のシュミーズドレスの防寒対策としても活躍。
精巧な刺繍や紋様が施されており、大変な高級品だった。
ハリーの家で取り扱っていたのかもしれません。




