麗しい人の名は 1
ハリーはエントランスホールにいた。小太りの女に捕まって、何事かおしゃべりしている。
割って入っていいものか迷っていると、ハリーの青い目が動き、エドマンドを捉えた。
ハリーは決して、『助け舟が来た』というような表情は見せなかった。至極残念そうに眉尻を下げ、女の手に恭しくキスを落とす。
少女のようにはしゃぎながら去って行く女を見送ってから、ハリーはようやくエドマンドの方へやって来た。
「すまなかったエドマンド。私としたことが遅刻だな」
相変わらずの秀麗な面立ち、薫風のような笑顔、よく通る美声。エドマンドさえ見惚れるくらいだから、一分一秒でも彼の時間を奪いたいと願うご婦人方の気持ちもわかる。
「いいんだ、せっかく声を掛けてくれたご婦人を無下にはできまい。ただし、『時間通り到着しましたよ』という顔をして入室してくれるか」
エドマンドが苦い顔で懇請すると、ハリーは口元に手をやって小さく笑った。
「承知した」
けれど不意に真顔に戻り、やや煩わしげに尋ねてくる。
「……気難しい女なのか?」
「うん……ううん……、まぁ」
気難しいというか、気まぐれというか、移り気というか、プライドが高いというか。しかも今日は凄絶なほど華美に着飾り、すこぶる『臨戦態勢』だ。
だが、顔を合わせる前に悪い印象を植え付けたくないから、エドマンドは言葉を濁すしかなかった。
「なんだその歯切れの悪い返事は」
ハリーに横目で睨まれても、エドマンドははっきりとしたことが言えなかった。
「うーん、少しばかり気が強いかもしれない。君さえ良ければ、女王陛下に謁見するように挑んでくれるか?」
愉快な冗談だと思ったのか、ハリーは『ははっ』と笑い飛ばした。
「女なんて大概、気が強いものさ。うまくやるから、任せておけ」
その物言いはたいそう傲岸だった。彼は若いが、十二分に女慣れしている。
普通の女相手だったらなんの問題ないのだが、なにせ相手は『宵闇の女王』だ。エドマンドの胸は不安ではち切れんばかりだった。
***
ハリーと共に桟敷席へ入っても、ヴィオレットが振り向くことはなかった。ひたすら客席を眺めている。遅刻がバレているのかもしれない。
「ヴィー……」
おっかなびっくり呼び掛けると、女はゆっくり立ち上がった。
ショールがはらりと椅子の上に落ち、華奢な肩とほっそりした腕があらわになる。ヴィオレットは緩慢な動作でそれを羽織り直してから、真っ直ぐにこちらへ向き直った。
大きな目を細め、紅をささずとも十分真っ赤なくちびるで微笑んでいる。
それは、赤の他人へ向ける余所行きの顔だった。
しかしそれゆえに、高名な芸術家の手で造られた彫像のように美しい。
――エドマンドは、傍らのハリーが息を呑む音を聞いた。
初対面の者相手にも臆することのないハリーが緊張して、言葉を失い、立ち尽くしている。エドマンドにとって、その反応はまったくの想定外だった。
「こんばんは」
口を開いたのは、ヴィオレットから。トーンはやや高く、やはり声も他人行儀。
「あなたが、ハリー・スタインベックさんね」
「ああ、彼がハリーだ」
エドマンドは慌てて互いの紹介を始める。
「ハリー、彼女がぼくの幼馴染のヴィオレット。ヴィオレット・マクファーレンだ」
「お、お初にお目にかかります、レディ」
ハリーの声は震えていた。彼がこんなに動揺するなんて、とエドマンドは己の目と耳を疑った。
確かに今のヴィオレットは平生の何倍も美しく艶やかだが、百戦錬磨の男を縮こまらせるほどではないと思う。
さっきショールを落としたのだって、ちょっとあざとさが過ぎた気もするし。
「ヴィオレット、と気安くお呼びになって」
口元に手をやって楚々と笑うヴィオレットに、ハリーはさらに狼狽えた。
「こっ、光栄です、ヴィオレット。私のこともハリーと、気兼ねなくお呼びください」
「ええ、――ハリー」
ヴィオレットはただちにハリーの願いを叶えた。笑みを濃くし、彼の名を親しげに呼んでみせる。
途端、ハリーは無邪気な少年のように碧眼を輝かせ、もう辛抱たまらないといった様子でヴィオレットへ向かって行った。
そして女王の御前に跪き、陶然と顔を上げる。
「この狭い都のどこに、貴女のような美しいひとが隠れていたのでしょう」
「あら、お上手ですこと。エドからお聞きになっていない? 私は男装をして、殿方に紛れておりました」
「そ、そうですね、そうでもしなければ、街中の男が貴方に夢中になってしまう」
歯の浮くような台詞だが、お世辞ではなくまごうことなき本心なのだと、ハリーの真摯な顔が雄弁に語っていた。
ヴィオレットはまったく顔色を変えなかったが、彼女の性格上、ここまで褒めちぎられて喜ばないわけがない。
「ほら、客席の方を見てください。大勢があなたに注目しています」
ハリーに促されるまま客席を見遣ったヴィオレットは、とぼけたように小首をかしげて、ストンと席に座った。
「もうすぐ始まるようです。隣へどうぞ」
「は、はい」
ぎこちない動作で立ち上がったハリーは、おずおずとヴィオレットの横に腰を下ろした。
まさに、女王に同席を許可された臣下のように畏まり、けれどとても誇らしげだった。
想定外のことはあったが、ファーストコンタクトはなんとか上手くいったようだ、と安堵しながら、エドマンドは後列に着席する。
やがて、荘厳な音楽と共に幕が上がった。
麗しい人の名は:プッチーニのオペラ「リゴレット」より。




