花から花へ 1
続いて過去編です。
ハリーとヴィオレットの出会いのお話になります。
始まりは、ヴィオレットが「宵闇の女王」として隆盛を誇っていた頃のワンシーンから。
なお、女性同士の生々しいシーンがありますので御注意下さい。
男装姿のヴィオレットは、とある貴族の屋敷のバルコニーへ降り立った。
窓には紺色のカーテンが掛かり、室内をすっかり隠している。
けれど、白い花瓶に白い薔薇が一輪だけ活けられているのが見えた。外からやって来た誰かに見せつけるように、わざわざカーテンの外側に置かれている。
ヴィオレットはにやりとくちびるを歪め、コンコンと窓を叩く。
しばらくのち、窓が開いた。ただし、ほんのわずかだけ。猫ならば通れるだろうか、といった程度の小さな隙間。
だがヴィオレットにとってはそれで十分。肉体を霧に変え、室内へと侵入を果たす。
「また来てくださるなんて、思っておりませんでした」
薄暗い寝所で、女がうなだれていた。両手で顔を覆い隠して、肩を震わせている。
「今朝窓を開けて、白い薔薇と赤い薔薇が並べられているのを見たとき、年甲斐もなく胸が高鳴って……。今日一日、なんにも手に付かなくて……」
「一日中、ずっと私のことを考えていてくださったのですね、マダム。身に余る光栄です」
ヴィオレットは夫人へ近寄り、顔を隠している手を取り払おうと試みた。しかし女はヴィオレットへ背を向けて、小走りで逃げていく。
「どうして逃げるのですか、マダム」
ヴィオレットは夫人をゆっくりと追い詰め、腕の中に捕らえた。しかしまだ顔を見せてくれない。
「なぜそんなに恥ずかしがるのです」
優しく尋ねても、夫人は身体を強張らせて縮こまるのみ。
「ではなぜ白い薔薇を? 私の訪問を拒否なさりたいなら、赤い薔薇を活ける約束だったでしょう」
咎めるように言うと、夫人はすすり泣きを始めた。ヴィオレットは、夫人の背中をゆっくり撫でながら申し訳なさそうに囁く。
「マダム、酷な質問をして申し訳ありませんでした。あなたの葛藤は理解できます。夫と子のある身で、神を信じる身で、私のような汚らわしい存在に惹かれる自分が恐ろしいのですね」
「汚らわしいだなんて、そんな!」
ようやく夫人は顔を上げた。
「違うのです……。もう四十半ばになる女が……、子どもが三人もいる女が、あなたのような若く美しい殿方にのぼせ上って、あまりに恥ずかしいのです。死んでしまいたい」
またうつむこうとするものだから、ヴィオレットは夫人の両頬を包み込んで上を向かせた。夫人は潤んだ瞳でヴィオレットを真正面から見据えたあと、居たたまれなさそうに瞼を下ろした。
「こんな醜い年増を、あなたの美しい瞳に映さないで」
「私の瞳は、あなたの美しいかんばせを映したがっていますよ」
「美しいなんて、そんな見え透いた冗談を」
「嘘ではありません。私はあなたが欲しい。あなたの身体の隅々を巡る熱いものが欲しくてたまらない」
ヴィオレットは己のくちびるに指を掛け、歯を露出させる。人間でいう糸切り歯に相当する部分は、肉食獣の牙のように伸びて鋭くなっていた。
「私の歯を見て。あなたの柔らかい肌を求めて、こんなにも浅ましく尖っている。凡俗相手にはこんなふうにはなりませんよ」
目を開いた夫人は、ヴィオレットの尖鋭を見てごくりと喉を鳴らした。この切っ先がもたらす苦痛と、その先に待ち受ける悦楽を思い出したのだろう。
「本当に……?」
「ええ、本当です」
ヴィオレットは優雅に微笑んでから、夫人の薄いくちびるへ自らのそれを重ねた。遠慮がちに開かれた隙間に舌をねじ入れて、粘膜の壁を撫で擦る。わざと濡れた音を立ててやると、夫人はあっという間に腰を砕いた。
脱力してしまった夫人を、ヴィオレットはそっと抱き上げた。
余計な脂肪をまとった肉体は、年頃の娘たちと比べたらずいぶん重いが、人外の力を持つカルミラの民には大した差ではない。
それに、しわの刻まれた顔貌も、垂れた頬肉も、萎んだ乳房も、贅肉で膨らんだ下半身も、すべてこの女性が生きてきた証だ。
羞恥と期待に震える夫人を寝台に横たえたヴィオレットは、夫人のガウンに手を掛け、やや弛んだ首元を露出させる。優しく吸い付くと、『ひっ』と悲鳴を上げた。
乙女のように純朴な反応を見せる夫人が愛おしかった。いっそ従者にしてしまおうかと思うほど。
けれど……。
「あなたには『妻』として、『母』としての責務がある。だから、私のものにすることはできない。けれどどうか、今宵は甘い夢に浸ってください」
慈しみに満ちた言葉を囁くと、夫人は覚悟を決めたように瞑し、ヴィオレットの前に己のすべてを投げ出した。
さんざん睦み合い、忘れ得ぬ悦楽を刻み込んだあとでも――牙を抜いて優しく見つめると、人間はすべてを忘れてしまう。残った傷跡も、朝にはかさぶたになり、昼には剥がれて消える。
暗示は残っているため、窓辺に二色の薔薇を捧げれば、たちまち不埒な記憶を思い起こし、夜に備えて準備をしてくれる。
けれど、放置すればいずれ暗示は解け、なにもかもを忘れてしまう。
虚しくて儚いけれど、ゆえに美しい思い出となる。
人間が忘れてしまっても、ヴィオレットが覚えてさえいれば良いのだ。
至高の甘露を堪能しながら、吸血鬼の末裔の女は詩情をそそられた。
高揚した気分の中、思いを巡らせる。
――花の命は短いなんて、誰が言ったの。
綻びかけの若いつぼみも、大きく開いた花も美しいわ。それは当然のこと。
けれど、手折られた花だって必死で生きているの。
花瓶の底から懸命に水を吸い上げて、枯れ落ちる最期の瞬間まで輝こうとしている……。
花から花へ:ヴェルディのオペラ「椿姫」より。
ヴィオレットが白い薔薇を「歓迎」、赤い薔薇を「拒絶」の符号として使っているのは、デュマ・フィスによる「椿姫」の原作小説のオマージュとして設定させて頂きました。
高級娼婦であるヒロインのマルグリットが、月のうち25日間は白い椿を、5日間は赤い椿を身につけていたことから。
赤い椿の日=月経期間であり、パトロンたちに「今夜は関係を持てない」ことを示していた。
(なお、これは後の文学者たちの説。作中では「花の色がなにを示しているかわからない」とだけ書かれている)
二章は「椿姫」のオマージュ多めになっています。




