『吸血鬼カルミラ』
中庭に植えられた色とりどりのチューリップを見て、ヴィオレットはきらきらと表情を輝かせた。
「チューリップって、こんなにたくさんの種類があるのね。赤白黄色くらいしかないかと思っていたわ」
「色も花の形も、たくさん種類があります。ぼくはこれが好きです」
紫色のチューリップを指さすと、ヴィオレットは目を丸くして矯めつ眇めつし始めた。八重咲きの品種は薔薇のように華美で、見事女王の心を捉えたらしい。
「……レディ、嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした」
背後から恐る恐る声を掛けると、ヴィオレットはこちらを向かぬまま答えた。
「お前が謝る必要はないわ」
「いいえ。ぼくがもっとしっかりしていたら……」
するとわずかな沈黙のあと、ヴィオレットはゆっくりと立ち上がり、エドマンドへ妖艶な笑みを向けた。
「ふーん、なかなか気骨のあることを言うじゃない」
「あ、ありがとうございます、レディ」
照れてオドオドしていると、ヴィオレットはエドマンドを放置してどこかへ歩いていく。彼女の目線の先にはベンチがあった。
淑やかな仕草で腰を下ろしたヴィオレットは、エドマンドへ向けて手招きし、横に座るよう促した。
「あの、失礼します」
「そんな堅苦しいしゃべり方は不要よ、エド」
少女はつんと澄ました様子で言った。
「それから、お前には私のことを『ヴィー』と呼ぶことを許すわ。私が許した者にしか呼ばせないって決めているの」
「こ、光栄です、レディ」
恭しく答えると、勢いよく頭を叩かれた。
なぜ叩いたの、とエドマンドは泣きそうになったが、すぐに『堅苦しいしゃべり方をしてしまったことに対する体罰』なのだと気付く。
要するに、もっと気安く接しろ、ということらしい。
ヴィオレットはエドマンドに対し、すっかり心を許してくれたようだ。その証として、愛称で呼ぶ権利を与えてくれた。
「あ、ありがとう……ヴィー」
にんまりと笑いながら言い直すと、ヴィオレットは眉間にシワを寄せた。
「叩たれて喜ぶなんて、なんて変態なの」
変態じゃない、と否定しようとしたが、その遠慮のない物言いが心地よくて、とても嬉しかった。これが『変態』というやつなのかもしれない。ならばそれでいいや。
頬を緩めっ放しにしていると、ヴィオレットは呆れたように嘆息した。けれど息を吐き終えたとき、彼女もまた朗らかに笑う。
「私は本当にお前のことを気に入ったわ。だからもう一つ……『とっておき』を教えてあげる」
「とっておき?」
エドマンドが小首をかしげると、ヴィオレットはわざとらしく咳払いした。エドマンドの耳へくちびるを寄せ、とびきりの内緒話をするように囁く。
「私はね、源祖であるカルミラの力も継いでいるのよ。お母さまにもおばあさまにも出なかった力が、私の代で顕在化したんですって」
「へ、へぇ」
七歳のエドマンドにはいささか難解な話だった。
それよりも今は、ヴィオレットの顔の近さの方が問題だ。エドマンドがちょっと動けば、朝露に濡れた薔薇のようなくちびるを奪えるかもしれない。
そんなおませなことを考えてしまった。
「なんで驚かないのよ! この愚図!」
「ごめんなさい!」
下心を出してしまったことを含めて謝罪する。
しかしなぜかヴィオレットは得意顔をしており、さほど機嫌を損ねている様子ではなかった。
どうやら、無知なエドマンドに教授してやれると優越感に浸っているようだ。
赤いくちびるを艶めかしくつり上げて、神妙な調子で語り出す。
「私の血に現れた力は、カルミラの民の起源、『吸血鬼カルミラ』のものよ」
「吸血鬼……? でも、みんなそう呼ばれるのを嫌がるよ」
エドマンド自身も、『吸血鬼』と呼ばれると背中の辺りがモゾモゾする。それは、くすぐったいなどという生温い感覚ではなく、まごうことなき嫌悪感だった。
「当たり前でしょう。吸血鬼といえばカルミラただ一人だもの。カルミラ以外を吸血鬼と呼んではいけないのよ。その『誓約』が私たちみんなの血に流れているの」
「ふぅん?」
やっぱりよくわからない。けれど真剣に聞き入る振りを続ける。
「カルミラが人間であるラウラを愛し、血を吸うことで『カルミラの民』にした。ラウラは数人の人間を見繕って血を飲ませ、『超越者』にした。そしてラウラは超越者との間に子どもを作った。それが私たちの起こりなのよ。胸に刻んでおきなさい」
半分も理解できぬまま『へぇ』と返事をしてから、エドマンドは浮かんできた疑問をぶつけた。
「じゃあ、『吸血鬼カルミラ』は誰から生まれたの?」
すると、ヴィオレットはさも愉快そうに笑って、人差し指を掲げた。その指は、真っ直ぐ天空を指さしている。
「『そら』から来たのよ」
「そら?」
「そう、宇宙……」
ヴィオレットの目はどこか遠くを見ていた。
なにかが乗り移ったかのようにぼうっとし始めて、ぽわんと開いたくちびるから、淡々とした言葉を紡ぐ。
「星の浮かぶ黒い海を泳いでいたら、青く美しい光が見えたのよ。必死でその光に向かって行ったら、いつのまにか地面の上に立っていた。まわりにいっぱい人間がいて、その姿を真似してみたの」
伝承を語っているというよりも、実際に見聞きした出来事を述べているようだった。
しかしあまりに難解で、エドマンドは素っ頓狂な声を上げた。
「星の浮かぶ黒い海? 海が『そら』にあるの? え? え?」
「私だってなんのことかわからないわ! でも、記憶があるのよ!」
ヴィオレットは感情的に叫んで腕を振り回した。それを避けながら、エドマンドはオウム返しに尋ねる。
「記憶があるの?」
「そう、カルミラの記憶が、薄っすらと私の中にあるの」
またヴィオレットの目がぼんやりとし始めた。胸に手を置いて、囁くように語り出す。
「私そっくりの女の子が、カルミラのことを『わたしの愛しい吸血鬼』と呼んだの。だからカルミラは吸血鬼。唯一にして無二の吸血鬼。カルミラ以外の誰も、吸血鬼と名乗っても、呼ばれてもいけないの」
「そうなんだ……」
内心で疑問符を浮かべながらも、何度も首を縦に振った。きっと大人になったら理解できるだろう。今は心得たふりだけしておけばいい。
秘密を打ち明け切って満足したらしいヴィオレットは、人差し指を口元にかざした。
「でもね、私がカルミラの力を継いでいることは内緒よ、エド。みんなに知れたらとっても面倒なことになるから。お母さまの他には、オルドリッジおじさまとおばさましか知らないの。……だから、お前は特別なのよ」
「と、『特別』……」
その言葉に、エドマンドの胸は未だかつてないくらいに高鳴った。
暴れる心臓を抑えようと胸に手を当てていると、頬に柔らかいものが触れた。
軟体的で、弾力があり、湿り気を帯びたそれは、間違いなくヴィオレットのくちびるだった。
もはや驚き飛び上がる余裕もなく、石像のように固まって、林檎のように真っ赤になるしかなかった。
「これからもよろしくね、私の騎士」
――生涯忠誠を捧げます、と混迷極まる頭の片隅で誓った。
吸血鬼カルミラ:お気づきの方も多かったかもしれませんが、レ・ファニュの小説「吸血鬼カーミラ」が元ネタ。
カルミラ及びラウラは、カーミラ (Carmilla)、 ローラ(Laura)の別読みです。
作中においてカルミラの民は、「ファンタジー世界の幻想種族」ではなく、地球環境に適応した地球外生命体によって遺伝子操作された人間の子孫という設定です。
この設定が今後物語に登場することはありません。




