天地を創造し、光あれと言った神よ
「黙れ、裏切り者!」
シェリルは顔を上げ、唾を飛ばす勢いで絶叫した。
「厚顔な恩知らず! 心のない殺戮者! ヴィオレット様の愛を一身に受けておきながらよくも……っ!」
気力を失っていた少女の全身に憤怒が舞い戻る。
しかしハリーは涼しく笑い飛ばすのみ。
「忠義者だね、セーラ。だが自分の心に問うてみろ。君があの女に捧げる情愛は、まことに心底から湧き上がってきたものか? 血を吸われ、のぼせ上った頭が作り出した幻想ではないか? 一体いつから、あの女のことを愛するようになった?」
それは、呪詛だった。
ハリーが自ら発生させ、自ら囚われた呪言。
エドマンドは、シェリルの耳をふさぐように、その頭を強く抱いた。腕の中の少女は微動だにしない。どうかハリーの呪いに囚われないでくれ、とエドマンドは祈った。
シェリルはエドマンドの腕をやんわり払い、ハリーへ鋭い目を向ける。
「私はお前のように疑わない! ヴィオレット様から頂いた愛は確かなものだ!」
「なんの疑いも抱かないことこそ、心が侵されている証拠だというのに……」
冷ややかなハリーのつぶやきを、シェリルは『黙れ!』と一蹴する。
「にべもないな。……まぁいい」
肩を竦め、呆れた素振りを見せたあと、ハリーは続けた。
「だが、君は私に感謝するべきだ。私が姉たちをことごとく亡き者にしたからこそ、君はあの女の愛を独占できているのだから」
「……なんっ」
絶句するシェリルに、ハリーは昏く嗤いかける。
「間違っているか? 以前は、月に一度程度のお召しがあれば良い方だっただろう? だが、今は毎晩のように寝所に侍り、愛玩されて、身も心も満ち足りているのではないか? ――すべて私のお陰だ」
「……っ!」
こちらの言葉の方がシェリルには効いたようだ。強く己の身体をかき抱いて、ぶるっと震えた。
ハリーの言う通り、シェリルの心には大勢の姉たちへの嫉妬が少なからずあったのだろう。ヴィオレットを独占したいと強く願う気持ちが。
だがそれは、従者ならば、人ならば当然の感情だ。抱くだけならば恥じることではない。
恥ずべきは、己の醜悪な想いを制御できずに膨張させ、愛する者へとぶつけた眼前の男だ。
「口を閉じろ、ハリー!」
毅然と言い放ち、エドマンドはハリーへと向き直る。怨敵と悠長に言葉を交わしたこと、後悔した。シェリルを傷付けてしまった。
「お前にどんな言い分があろうと、ヴィーの心を踏みにじったお前を絶対に許すことはできない! ずっと、この手でお前を八つ裂きにする日を夢見てきた」
グッと右拳を握り、胸の上に置く。
「今日このときの邂逅を、ぼくは『神』に感謝する」
さして信じてもいない存在の名を口にし、心の内で祈りを唱える。
――天地を創造し、光あれと言った神よ。今だけはあなたに祈ろう。
あなたは『復讐するは我にあり』と説いたらしいが、ぼくはそれを受け入れることはできない。
だから、気まぐれ程度で構わない。どうかあなたの慈悲を。
ヒトならざる者の祈りは、きっと滑稽だろう。
けれど、一笑に付さないで欲しい。どうかあなたの加護を。
エドマンドは拳を作ったまま剛力を込め、爪を皮膚に喰い込ませた。血管が傷付き、鮮血があふれ始めたことを確認してから、だらりと腕を垂らす。
重力に従って地へ零れんとしていた赤い血は、滴下を果たさなかった。
エドマンドの手の中で、鮮血が固形化していく。まるで融水がつららを形成するように、先端へ伝った血はそのまま固まって、長く伸びていった。
しかもその速度は尋常ではない。寸刻の内に、エドマンドの掌中には細く長い棒状のものが収まっていた。
それは棒ではなく、剣だった。
赤黒く輝き、鋭く尖る、深紅の細剣。
余すところなく血で構成されているというのに、鉄の匂いを放つこともなく、不安定な揺らぎをみせることもない。
紅玉の原石から削り出したように美しく、また刀身も切っ先も凶悪なほどに研ぎ澄まされている。
自ら傷付けた肉の痛みに耐えながら、エドマンドは紅い剣を斜めに構えた。すでに血は止まっており、すぐに痛みも引くだろう。問題はない。
しかし、距離があるとはいえ、得物を突きつけられた男はまだ薄く笑っており、逃げも隠れもしないと言わんばかりに突っ立っている。
いやに余裕だな、とエドマンドは訝しんだ。
ハリーがいかに聡明な男であるか、エドマンドはよく知っている。なにか策があるに違いない。
もしくは、ただの侮りだろうか。ヴィオレットの力のおおよそ半分を奪取した男は、従者だった頃とは比べ物にならないほどの能力を手にしているはずだ。
威勢に任せて攻撃するか決断しかねるエドマンドに、ハリーは冷笑を浴びせた。
「久方ぶりに見たよ。お前たち化け物の、血の内に秘めた奥義を」
「奥義などと、大仰なものではないよ。発現するときに『かなり痛い』から、出し惜しんでいるだけさ」
自らを奮起するため、エドマンドはあえて道化た調子で言った。
カルミラの民が使う人外の術、その最たるものは、肉体を霧に変えて万里を移動する技だ。
しかし真骨頂は、『血液操作』にこそある。
己が血を漏出させ、造形、硬化する技。
多くの者は剣に変え、同胞間の決闘に使用する。
戦いを好かぬ酔狂者は薔薇などを作って気取ってみせるし、そもそも無意味なものだとして習得しない者も多い。
エドマンドも道楽半分で覚えただけで、戦いに使う気は毛頭なかった。
同胞の間で揉め事が起こった際は、年嵩の者に裁断を仰ぐのが常だったし、エドマンド自身、元来は平和主義者だ。
だが、殺すべき敵が出現した。愛する者を裏切り、踏みにじった怨敵が。
わざわざ武器を用意せずとも、カルミラの民の剛力で殴打し、ひねり潰し、へし折ってもいい。だが霧になられてしまうと当たらない。しかし血の剣であれば、霧ごと両断することができる。
「今のうちに、お前の信じる神に祈っておけ」
冷酷にエドマンドは告げた。ずぅっと胸に抱いてきた怒りを、憎悪を、殺意へ変換する。
しかしそのとき、一塊の霧が飛来し、ハリーの前で停滞、瞬く間に実体化した。
――ラスティだ。
エドマンドに向けて両腕を広げ、ハリーを庇っていた。
復讐するは我にあり:「復讐するは我にあり、我これに報いん」という某書の言葉。この場合の「我」は「神」を指す。「報復は神の怒りに任せ、人々は手を汚すな」という復讐を禁じる教え。




