怨敵
霧に変じた状態でのろのろと街の上空を浮遊するフレデリカ。そのあとを追いながら、エドマンドは疑念を抱いた。
――街の外へ導かれているのだろうか? なぜ?
その予測は当たった。城壁を超え、旧街道沿いにある見張り塔の跡地まで連れてこられた。
放置された塔はすっかり朽ちて、半分ほどしか残っていない。かつては周囲に家屋があったのだろうが、今は土台だけになっている。
ひと気のない場所へ誘導されたことに、エドマンドはわずかな危機感を持った。少し気を引き締める。しかし、衆目があるところでは実体化できないため、『トム・ブラック』の配慮かもしれない。
建物の陰で実体へ戻る。
小さな悲鳴が聞こえたため視線を向けると、少し離れたところでフレデリカが尻餅をついていた。着地に失敗したらしい。
手を貸そうかと思っていたら、シェリルに先を越された。立ち上がったフレデリカのスカートの土汚れを甲斐甲斐しく払ってやって、感極まったフレデリカに抱き付かれていた。
彼女らの関係がこれっきりにならないといい、とエドマンドは目を細める。
ヴィオレットは、シェリルが交友関係を広げ、外へ出て行くことを嫌厭するかもしれない。でも、可愛い従者のために決断してくれたらいいなと思う。
そしていずれはヴィオレット自身も、陽の当たる場所へ出て欲しい。そして夜は、傲慢な女王として君臨して欲しい。
愛しい幼馴染のことを想いながら、視線を巡らせ周囲を確認する。朽ちた建物とまばらに生える草木以外、なにもなく、誰もいなかった。
「あれ? どこ行ったのよ!」
フレデリカがキョロキョロしながらわめいた。呼びつけておきながら、トム・ブラックはどこかへ姿を消してしまったのだろうか。
訝しいな、とエドマンドは警戒を強めた。
遅れて、広範囲に『人払いの術』が施されていることに気付く。だから、人間どころか小動物の気配もないのだ。
誘い込まれたような気分になり、鳥肌が立った。
シェリルへ警句を飛ばそうと口を開いたとき――。
――声が降ってきた。
「おや、なんという巡り合わせだろうか」
聞き覚えがあるというよりも、あまりに馴染み深い声。どくりと心臓が鳴り、身体が強張った。愕然と、天を仰ぐ。
何者かが、朽ちた塔の上に座っている。傾きかけた日でちょうど逆光になっており、姿が判然としない。
目を見張り、その者の姿を捉えようと努める。
長い三つ編みとリボンが風に揺らいでいる。
すでにエドマンドは悟っていた。そこにいるのが、誰なのか。
しかし、視界に収めるまで理性が納得しない。
いや、もしかしたら戦慄に身がすくんでいるのかもしれない。
はたまた、歓喜に打ち震えているのかもしれない。
再会を焦がれた男が、すぐそこにいる。
かつての友が――絶対に殺すと誓った男が、眼前にいる。
「銀髪の美丈夫だと聞いて、まさかとは思ったが……トムの主人は、君だったのか、エドマンド――」
「――ハリぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!!」
叫喚したのは、シェリルだった。
エドマンドは弾かれたように振り返ったが、すでにシェリルはいなかった。
地面が激しくえぐれており、凄まじい脚力を発揮して飛び上がったのだと見て取れた。
再度塔を仰ぐと、二つの人影がもつれるように壁の向こうへ落ちていった。
「……シェリル!」
讐敵との再会にのぼせていたエドマンドの全身が、急激に冷える。シェリルを先行させてしまったこと、この上なく後悔した。
なぜ、ぼくが先に動かなかった、と。
すぐさま肉体を霧に変え、壁をすり抜けた。
山積する瓦礫の合間、二つの霧の塊がぶつかり合っていた。
いや、正確には片方が迫り、片方が逃れている。
逃げる方は時折停滞し、追い付かれる寸前でまた距離を取っている。
まるで追尾者を嘲るかのよう。術の練度の差が如実に現れていた。
埒が明かないと思ったのか、シェリルが実体を現した。ぜいぜいと肩で息をしている。
わずかに離れたところで、もう一つの霧の塊が金髪の青年の姿になった。彼――ハリーは、微塵も息切れしていない。
数年ぶりに見るエドマンドの怨敵は、かつてと全く変わらぬ姿をしていた。
逃亡生活で荒み、やつれているということも一切ない。エドマンドの記憶にある姿とそっくりそのまま、艶やかな金の髪を三つ編みにして、リボンと共に風に流している。整った面立ちには優雅な笑み。
右目を覆う眼帯、その奥に秘められたものを想うと、エドマンドも我を失いそうだった。
ハリーは、澄んだ声でシェリルへ語りかける。
「久しぶりだね、セーラ。髪を切ってしまったのか」
「よくも、そんな平然と……っ!」
息を整えながらも、シェリルは憤怒の声をあげた。積年の友のように気安い挨拶をしたハリーへ、刺し貫くような視線を送る。息を吸い込んでから、怒りをまき散らすように叫んだ。
「セーラという名の非力な娘は、あの日、お姉さまたちと共に死んだ!! 今の私は、復讐のために生きる『シェリル』だっっ!!」
しかしハリーは、『ふむ』と興味深そうに顎をさすっただけ。
「君だけ殺し損ねたことはわかっていたが、ずいぶん勇猛果敢になって」
「お前を殺すためだっ!!」
シェリルは獣のように吠えた。彼女の形相は、終ぞ見たことないほどに歪んでいる。
憎悪と殺意だけが、普段は明るく闊達な少女を突き動かしているようだ。
だって彼女は、最愛のあるじを踏みにじられ、敬愛する『姉』たちを惨殺されたのだから。
ハリーのくちびるが吊り上がる。
「死に損なった娘が、復讐の女神となったか」
その芝居掛かった物言いに、エドマンドは懐かしさを覚えた。
エリニュスは、とりわけ血族間殺人に厳しい女神だ。それを知っているがゆえの自虐的な台詞だろうか。
エリニュス:ギリシア神話に登場する復讐の女神。エリニュスは複数形で、三人の女神のことを指す。




