天にまします我らの父よ
しかし、『男にも女にも見える人物』の存在が疑わしくなった今、事態はさらに混迷を極めた。
悩みながらもグレナデンはふと思う。もしかするとその噂は、ヴィオレット・L・マクファーレンを憎むカルミラの民が流したものかもしれない、と。
従者に反逆され力を奪われるなど、カルミラの民の汚点だ。しかもその事件以前、あの女は若輩者の分際でひどく専横的に振る舞っていた。
彼女には、そういう現行を取るに相応しい『力』があったが、あまりに我欲的だった。
よって、ヴィオレットへ怨恨を向ける同胞の数は計り知れない。
グレナデンがいろいろと考え込んでいる間、フィリックスはターナーと雑多な話を始めていた。政治的な話から流行の音楽、ゴシップまで。
グレナデンも人間社会に混ざるためにある程度の知識は持っているが、人の営みはまことにせせこましく、また目まぐるしく、深い興味を持つことはできなかった。
その点、人間とほとんど対等に付き合うことができるフィリックスは、カルミラの民の中では稀有で異質だ。だがそれゆえに話題の引き出しが多く、斬新な発想をすることがあり、あらゆる面でたいそう頼りになる。
ひとしきりターナーとおしゃべりしたあと、フィリックスはようやく傍らのグレナデンの存在を思い出したらしい。誤魔化すように笑いながら、『もう行くかい?』と声をかけてきた。
「そうだな。……ではターナー大尉、忙しい中、時間を取ってもらって感謝する」
ターナーへ声をかけると、彼はおどけたように眉を上げ、肩をすくめた。
「あまり役に立てなかったようで、すまなかった」
「そんなことないさ!」
勢いよく答えたのはフィリックスだった。
「またなにかあったら話を聞かせてくれ、大尉。ああ、もちろん次の被害者が出ることがあれば、疾風のごとく馳せ参じるよ!」
「……もう次の事件が起こらないよう、祈っておいてくれ」
これ以上なく苦い顔をするターナーに、フィリックスは『ふむ』と呻って神妙な調子で言った。
「そうだなぁ。ではこれ以上君の仕事が増えないよう、天の父に祈ろう」
「ああ、ぜひとも」
二人の会話を聞きながら、グレナデンはわずかに首をかしげた。
フィリックスの父は健在のはずだが、と。
***
ターナーと別れ、コーヒーハウスを出たあと、グレナデンとフィリックスは大通りを見渡せる時計塔の屋根上に移動した。肉体を霧に変じさせれば容易いことである。
グレナデンは新鮮できれいな空気を吸いたかったし、フィリックスは道行く人々を観察できるため、ここでのおしゃべりは双方にとって都合がよかった。
「同胞を募って、夜の街を探ってみるか」
グレナデンが提案すると、フィリックスは眼下をきょろきょろと見回しながら答えた。
「そうだね、人海戦術が一番かなぁ。――ああそうだ。従者を囮にして誘い出すっていうのはどうだい?」
剣呑な意見に、グレナデンは鼻白む。
「たわけ! そのようなことできるものか!」
「ああ、だよねぇ」
フィリックスは道化たような笑みを浮かべ、肩をすくめる。恐らく冗談で言ったのだろうが、念のため釘を刺しておくことにした。
「まかり間違っても、自分の従者にそのようなことはさせるなよ」
「わかっているよ。従者を囮なんかにして万が一のことがあったら…………うーん……七、八年は立ち直れない」
なにを根拠にその年数を算出したのかは理解できないが、グレナデンだったら生涯悔やむだろう。従者に対してどこか薄情な友へ、やや冷たい目を向けてしまった。
「ところでグレナデン!」
人間の往来を観察していたフィリックスが、不意に顔を上げて振り向いた。目がきらきら輝いており、グレナデンは嫌な予感に眉根を寄せた。
「私のいないときに、ヴィオレット・L・マクファーレンが来たそうだね?」
「……ああ」
その話か、とつい声が低くなった。フィリックスは『ふっ』と吹き出すように笑う。
「なんでも、口説こうとして手酷く振られたらしいじゃないか」
「なんだと! 誰からどんなふうに聞いたのかは知らぬが、ずいぶん歪曲されている!」
声を荒げてしまったが、フィリックスは気にした様子もなく、ただ不思議そうに首をかしげた。
「どうして素直に帰してしまったんだい?」
振られた云々に言及されなかったため、グレナデンは秘かに安堵した。思い出すのも忌々しく、苛立ちを隠さずに答える。
「あの女が犯人でないのは明らかだった。覇気も威勢も削がれた、くたびれた女王でしかなかったからな」
ここで『女王』と口にしたのは、グレナデンなりの皮肉だった。従者に裏切られ、人間の血を吸う気概も失くし、社交界からも去ったあの女は、もはや『宵闇の女王』などではない。
けれど、フィリックスはひどく残念がった。
「それでも、彼女の血筋には大いなる価値がある。ああ、その場に私がいれば、みすみす逃したりはしなかったのに」
と、手を結んだり開いたりする。
ヴィオレットに一刻も早く子を残させるべきだとは、彼も頻繁に説いていた。
始祖たる『L』の血筋は絶やしてはならない。その血統が途絶したとしても、カルミラの民自体が終焉を迎えるわけではないが、一族の『象徴』を失うことになる。
それに、稀有なものは保護し、継承していかねばならない。数ある芸術品だって、そうやって今の世に遺されてきたのだから。
しかし、後裔を残す意欲のない女をその気にさせるのはひどく難儀だ。グレナデンは腕組みして蒼天を仰いだ。
「あまりに無体なことをすれば、石榴館の沽券に関わる。我らはカルミラの民の規範となるよう、正当を保たねばならない」
だからこそ、ヴィオレットを挑発して戦いに持ち込もうとしたのだ。彼女を力で打ち負かし、心身ともに征服する。その策略はほとんど成功しかけていたが……。




