宵闇の女王の慟哭 ~終末のラッパが鳴る日まで~
ヴィオレットがオルドリッジ家に身を寄せ、一月近く経った頃。オルドリッジ夫妻が揃って部屋へとやってきた。
夫人はしばしば訪れて体調を案じてくれていたが、夫君を伴うことはなかった。床に伏せる淑女へ気を使ってのことだろう。
「おお、久しいなヴィオレット」
宗主であるアーサー・G・オルドリッジはダークブロンドの巻き毛の偉丈夫で、くっきりとした二重の目はいつも余裕たっぷりに細められている。
カルミラの民随一の門閥の頭領に相応しく、常に胸を張り、威風堂々とした佇まいを崩さない。
彼が入室して来ただけで、ただでさえ手狭な部屋が半分ほどの広さになってしまったようだった。
「これは、オルドリッジ閣下。この度はまこと、御迷惑をおかけして……」
ぼんやりとした頭のまま、形式張った言葉を口にするヴィオレットに、アーサーは白い歯を見せて笑った。
「公の場でもあるまいし、そのような硬い態度はいらんぞ。昔のように、『アーサーおじさま』と呼ぶがいい」
「……では、おじさま。我が不始末のせいで、貴宅の皆様には大変お世話になって、心より感謝申し上げます」
「はっはー、まだ硬いぞ、ヴィオレット」
アーサーはヴィオレットににじり寄ると、子どもにするようにぽんぽんと頭を叩いた。
それから、じっと顔を見つめてくる。心の奥まで見透かすような無遠慮な視線だったが、ヴィオレットはただ呆然と受け止めた。
「片目を奪うとは、ハリーの奴め、レディーに対してまことに惨いことをする。パトリシア似の美しい顔が台無しでないか」
愛しい従者の名を聞いた瞬間、ヴィオレットの胸がずきりと痛んだ。思わず拳で押さえつけ、はっ、と短く呼吸をして気持ちを落ち着ける。
「アーサー」
冷え冷えとした夫人の声に、アーサーはぎくりと表情を強張らせ、恐る恐る振り返る。
「デリカシーのないひと。あなたのようにずけずけと心に入ってくる男は、病み上がりの子には毒にしかなりません」
夫人の視線は真冬の大気のように冷えていた。アーサーは太い眉を怪訝そうに歪めて、妻へと問う。
「なんだ、パトリシアを美しいと褒めたことが不満か」
「我が親友のことなら、いくらでも褒めて頂いて構いません。……さぁ、見舞いは済んだでしょう。ここからは女性同士で話しますので、どこぞへ消えてください」
あまりに辛辣な妻の物言いに、アーサーは疑問符を浮かべながら頭を掻いて退室していった。
パトリシアはヴィオレットの母親で、オルドリッジ夫人とは幼馴染だ。さらに、アーサーとは『くっついたり離れたりする仲』だったらしいが、仔細に知りたくはない。
夫の足音が聞こえなくなると、夫人は大袈裟に嘆息し、やれやれと首を振る。それから、優しい貴婦人の顔でヴィオレットへ謝罪した。
「ごめんなさいね、ヴィオレット」
「いえ……」
謙遜しつつも、深く安堵していた。
心身ともに弱っているとき、生命力に満ち溢れたアーサーの存在はあまりに眩しい。まるで夏の太陽に灼かれるような気分だった。
「身体の調子はどう? 身体を巡っていた毒は抜けたようだけれど」
「はい、もう指先も自由に動きます」
と、ヴィオレットは指を曲げ伸ばししてみせる。
だが、顔の右側に巻かれた包帯はずっとそのままだ。怪我をしているわけではないが、瞼を閉じていても眼窩が窪んでいることはよくわかる。それを隠すための、やむを得ない処置だった。
「そう……よかったわね」
夫人はほっと息を漏らし、それから小さな小箱を掲げた。
「これを見て。特注で作らせたの」
「……なんでしょう」
ヴィオレットは小首をかしげながら受け取った。
蓋を開け、中身を視認して、驚愕に固まる。
そこには、手のひらに載るほどの球体が収まっていた。大部分は白いが、一部分だけは漆黒で、窓からの陽光を受けてわずかに輝いている。
これはなにかと尋ねるまでもなく、その正体を察することはできた。
失った右目に代わる、義眼だと。
「あなたの美しい瞳の色には及ばないけれど……」
夫人は申し訳なさそうに眉尻を下げ、同時にヴィオレットも戸惑う。
わざわざ用意してくれた手間や厚意は嬉しい。
けれどヴィオレットには、それが欲しいとまったく思えなかった。作りが気に入らないとかそういうことではなく、自分には到底必要のないものに思えたからだ。
おそらく莫大な金と技術を以って精巧に作られたそれに対し、一片の興味さえも持つことができなかった。まるで路傍の石のように。
「あ……ありがとうございます」
礼を言わねば、という理性が働き、かろうじて口が動いた。
「心ここにあらず、といったふうね」
夫人の声音は、穏やかだが鋭い。
「あなた……生きたくないのでしょう」
率直に指摘され、ヴィオレットは残った左目を大きく見開く。気持ちを明言化されたことで、心臓もどくどくと激しく動き始め、冷や汗が噴き出た。
「ヴィオレット、よく聞きなさい」
夫人がそっと、小箱を奪い取っていく。ぱちん、と大きな音を立てて、蓋が閉められた。
「私はね、命を大切にしなさいなどとは言いません。望んだときに生を終わらせるのも、知性ある者の特権、尊厳だわ」
このひとはなにを言いたいのだろう、とヴィオレットはうつむいたまま耳をそばだてる。
「だから、あなたが望むのならば、あなたが辛苦に満ちた生を終わらせたいと真に望むのならば……私はそれを叶えてあげるわ」
「オルドリッジ夫人……」
ヴィオレットは弾かれたように夫人を見た。夫人の金色の瞳は、真摯そのもの。生きる意志を問いつつも、死という慈悲を与えようとしている優しい死神の目だ。
その優しさに甘えてしまおうか、とヴィオレットの心は安楽へと動いた。そうすれば、大勢の従者を喪った苦しみからも、愛しい者に与えられた痛みからも逃れることができる。
「――ただし、一つ条件があるわ」
夫人の顔立ちが峻険なものとなった。
一呼吸おいて、口を開く。
「あなたの手で、セーラを殺しなさい」
「……!」
予想だにしなかった言葉に、ヴィオレットは息を呑んだ。夫人は凛とした声で続ける。
「あるじに先立たれた従者がどれほどの惨痛を負うか、想像に難くないでしょう。私は、あなたの生命には責を負いますが、セーラに関しては知ったことではありません」
夫人の口元からは笑みが消失しており、目線も刺すように鋭い。ヴィオレットは子どものように震えることしかできなかった。
「セーラも、あなたの手にかかれば本望でしょう。ただ泣き暮らすだけのあるじと共に生きるなど、従者にとっても辛苦でしかない」
「そんな……夫人……」
亡羊と頭を振るヴィオレットへ、夫人は厳格に告げた。
「従者を持つ責任とは、そういうことですよヴィオレット。我々は、人間としての彼らの生を奪い、自らの所有物とした。ゆえに、終末のラッパの音が鳴るその日まで、十全十美、愛し貫かねばなりません。どうしてもそれができぬというのなら、己が手で始末をつけるのが道理です」
――『始末』。
ヴィオレットの脳裏に、ハリーに絞め殺されかけていたセーラの姿が浮かぶ。ハリーの姿を、自分の姿に置き換えた。
カルミラの民の剛力ならばきっと容易く首を捻り潰すことができる。死への恐怖や苦痛を最小限に留めながら、その生を終わらせることができるだろう。
しかし、しかし。
「――ああ……あああああっ!」
ヴィオレットの喉から慟哭が込み上げ、こらえきれずにすべて漏らしてしまう。同時に、深くうつむいて手で顔を覆った。
ヴィオレットは泣きながらセーラのすべてを想った。
長く美しい栗色の髪、よく動く表情、まだ幼さを残す甘い声、口元のほくろ。すべてが愛おしい。
生き残ってくれたと知ったとき、本当に嬉しかった。そんな子を、手に掛けることなどできはしない。
その内心を悟ったように、夫人は温和な声で言った。
「ただ一人残ったセーラが、愛おしいでしょう。彼女を手に掛けることなどできないでしょう。彼女を置いて去ることなどできないでしょう」
ヴィオレットはそのすべてに頷いた
「ならば生きなさい。どんなに辛くとも、あの子のためにも、この目を受け取って、無理にでも笑顔を作って生きなさい。そうすれば、いつか心の傷が癒え、報われる日も来るでしょう」
「夫人、わかりました、私、わかりました……」
子どものように泣きじゃくりながら、ヴィオレットは答える。
「生きねばならないのだと、あの子に報いるためにも生きねばならないのだと、わかりました……!」
左目からとめどなく涙が流れる。なくなってしまった右目の分の涙も含まっているに違いない。さもなくば、こんなにも大量にこぼれるものか。
「セーラのためだけではありませんよ」
夫人の声もかすれていた。肩にそっと手が置かれる。
「私もアーサーも……エドマンドもそれを望んでいます」
ふと気付けば、部屋の隅にエドマンドが立っていた。立ちすくんで、拳を握って、無言で滂沱の涙を流している。
袖で涙を拭い、洟を啜ってから、銀髪の青年ははっきりと言った。
「生きると言ってくれて嬉しいよ、ヴィー」
終末のラッパの音:とある世界的ベストセラー書によると、七人目の天使がラッパを鳴らしたとき、世界に終末が訪れるらしい。




