最上級のカーテシー
翌朝、ラスティは窓から射し込む朝日によって覚醒した。
目はぱっちりと冴えており、二度寝をする気にはなれなかった。
身を起こそうとしたが、胸の中には丸まったヴィオレットが収まっていた。起きる様子は微塵もなく、少女のように無垢な寝顔をさらしている。
伏せられた長い睫毛が白い頬に影を落とし、赤いくちびるからは安らかな寝息が漏れていた。感嘆するほど美しく、そして胸が熱くなるほどに愛おしい。
こんな美女と幸福な一夜を過ごし、そのうえ同衾できたことを、さして信じてもいない神へ感謝した。
細心の注意を払って、そうっと女から離れたが、目を覚ます気配は微塵もなかった。意外と寝汚い性質なのかもしれない。
床へ足を下ろし立ち上がる。もう眩暈も痛みもない。身体はすこぶる快調で、さらに胸の内には多幸感。
こんなに清々しい気持ちで朝を迎えたのは、おそらく生まれて初めてだ。
屋敷を歩き回ってみたいという好奇心が湧出し、足音を殺して部屋の出入り口へ向かう。扉を開ける前にちらりと背後を窺うと、ヴィオレットが寝返りを打ったのが見えたが、やはり起きる様子はない。
「あら、ラスティ様」
そっと扉を閉めたとき、背後から声がかかった。悲鳴が喉元まで込み上げたが、かろうじて飲み込む。
姿を確認せずとも、それがシェリルの声であることは即座にわかった。
朝早くにヴィオレットの部屋から忍び足で出てきた自分は、メイドの少女の目にはどんなふうに映っているだろう。
まさか軽蔑の眼差しを向けられているのではないかと、恐る恐るシェリルの顔を見つめる。すると彼女は、いつものように朗らかな笑みを浮かべていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
互いにぺこりと頭を下げ合って、気まずい沈黙。いや、気まずく感じているのはラスティだけのようだ。
「もう体調は万全のようですわね」
「ああ、まぁ……そうだな」
邪念のない瞳で尋ねられ、ラスティは戸惑う。
拾われた居候の分際で、あるじに不貞を働いた下衆野郎だと思われていないだろうか。
その懸念に反して、シェリルは穏やかに言う。
「お茶でも飲みませんか? すぐに用意いたしますわ」
***
通されたのは、一階の応接室。瀟洒な家具がたくさん並んでおり、豪奢なソファに座っていると、まるで貴族にでもなったようだった。
目の前のテーブルには、繊細な柄の入ったティーカップ。中身は柔らかい香りを放つ液体。
かつては薄い珈琲ばかり飲んでいたので、紅茶を出されることに新鮮味を感じた。
しかし、万が一カップを落として割ったり、茶をこぼしたりしても弁償能力はないため、どうにも手を出せずにいた。
「さあ、冷めないうちにどうぞ」
シェリルに勧められて、おずおずとカップを手に取り、ゆっくりと一口。素直に『うまい』と思ったが、比較経験がないため、ことさら美味なのかはわからなかった。
「お腹は空いていませんか?」
「いや、ぜんぜん」
問われて素直に頭を振る。遠慮したわけではなく、本当に飢餓は感じていなかった。
するとシェリルは、『ですよね』と息を吐いた。どうやら、ほっとしているようだ。
「カルミラの民の方々にとって、『人間の食べる物』は単なる嗜好品のようです。ゆえに、果物や焼き菓子、飲料を少量召し上がる程度なのですが……。超越者の方は違ったらどうしようかと思いました。あまり、食事らしい食事の蓄えがないのです」
と、肩をすくめて続ける。
「どうも、この国の方々は朝からたくさん食されるようで……。ラスティ様にその習慣が残っていなくてよかったですわ」
「いや、俺はべつにそんなに……」
『朝からそんなに食わない』と伝えようとして、はて、と首をかしげた。
この国、とは一体どこの国のことを指すのだろう。カルミラの民の王国のことだろうか。そんなもの聞いたことはないが、大陸は広い、きっとどこぞにひっそりと存在しているのだろう。
しかしそんなことよりも、シェリルが妙にニコニコしているのが気になる。
ラスティの一挙手一投足、あらゆる動きが微笑ましくてたまらないような様子だ。そんな視線を向けられ続けると、くすぐったくてたまらない。
「俺、なにかおかしいか……?」
「いえ、とんでもない。ただ、ヴィオレット様と懇ろになられたようで……」
メイドの言葉に、ラスティは目を白黒させた。茶が口に入っていなくてよかった。さもなくば、盛大に吹き出してテーブルを汚していただろう。
ひどく狼狽するラスティを見て、メイドは鈴を転がすような笑声を立てた。
「非難しているわけではありませんわ。むしろ、これでよかったのでしょう」
シェリルは柔らかい笑みを浮かべたまま、己の胸をそっと押さえた。まるで、そこに温かな光が灯っているかのように。
「ヴィオレット様の心がとても穏やかなこと、従者たるわたくしにもはっきりと伝わってきます。カルミラの民と従者は、魂で繋がっているのですから」
「ん、そうか……」
『魂で繋がっている』感覚はラスティにはよくわからないので、曖昧に頷く。だが確かに、ヴィオレットはとても安穏な寝顔をしていた。今も、たいそういい夢を見ているのかもしれない。
「それで……お聞きしたいのですが」
シェリルの瞳に稚気が生じた。内緒話をするように声を潜め、ラスティににじり寄る。
「なんと言って口説かれたのです?」
好奇心旺盛に、かつ悪戯っぽく尋ねられ、ラスティは視線を泳がせる。
結局、面映ゆさを感じながらも正直に答えた。
「ん、えーっと……『家族』になろうって」
「……かぞく?」
予想外だったようで、メイドは大きな目をまん丸にした。
「ああ。俺と、ヴィーとシェリル。三人で家族になろう、って」
「……まぁ」
一言つぶやいたあと、シェリルは素早く顔を背けた。手で口元を覆ったかと思うと、ぐすりと洟を啜る音がした。
泣かせてしまったのは明白。けれど、嘆き悲しんでいるわけではないのもまた明白。
ラスティはただ黙して、メイドが平静に戻るのを待った。
くるりとこちらに戻ったシェリルの目はわずかに赤かったが、ただそれだけ。
花のように笑ったかと思うと、右足を左後ろに下げた。それからスカートの端をつまんで膝を深く曲げ、背筋を伸ばしたままゆっくりお辞儀する。
「ラスティ様」
それは、貴人へ向ける最敬礼。とても優雅な仕草で、ラスティは見惚れずにいられなかった。
シェリルは満杯の敬意を滲ませて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「我があるじに笑顔を取り戻してくださった至上の御方。今後も相変わらぬご厚誼を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます」
慣れぬ恭順を向けられ、ラスティはただ『ああ』と言ってまばたきすることしかできなかった。
けれど、心は温かい。
とても、とても。
この国の方々は朝からたくさん食べる:主に労働階級の者たちが朝からたくさんのカロリーを摂取していた。やがて貴族社会にも「フルブレックファスト」として定着した。




