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初夜はやすやすと過ぎ行かず

 『おいで』と言ったヴィオレットに手を引かれ、ラスティは屋敷の廊下を歩く。


 連れてこられたのは、別の寝室。ほのかに漂う花の香りは、女がまとっているものと同じ。


 ここはヴィオレットの寝室だ、とラスティはすぐに気付いた。

 鏡台に衣装棚、一人で眠るには寒々しく感じるほど広いベッド。寝具は乱れ、枕元にはくしゃくしゃになったショールが落ちている。

 醸し出された生々しい生活感に、ラスティは非常にどぎまぎした。


 さて、寝所に誘うとは……女の真意はいかに。

 セオリー通りならば、房事への誘いだと考えてもいいだろう。


 けれど不思議なことに、まったくそんなことをしたい気分ではなかった。華奢な女の肩や、甘い香り、プライベートな空間へ誘ってくれたことに対してはひどく胸が高鳴っているが、濡れ事に興じようとする意欲は一切湧いてこない。


 それは、ヴィオレットが寝台に腰掛け『さぁ』と手招きしても変わることはなかった。とりあえずおずおずと近寄って正面に立ったが、彼女がなにを望んでいるのかまったく掴むことができない。

 もしかして、紳士ぶりを考査されているのだろうか。はたまた、度胸を測られているのでは。


「ラス」

「は、はい」


 名を呼ばれ、つい姿勢を正して慇懃(いんぎん)な返事をした。

 女はラスティを真っ直ぐ見上げてきている。その目には、挑むような光があった。


「私はお前のものにならずともよいと言ったな。ただ奔放で在れと」

「……ああ」


 意図がわからぬまま、肯定をする。先ほど告げたその言葉には、一切の偽りはないからだ。

 紅唇(こうしん)をつり上げ、ヴィオレットは蠱惑的に笑う。


「ならば、我が心のまま、放縦(ほうじゅう)に振る舞うぞ」


 それは、あらゆる自由を許された女王の宣告。ラスティにとって最も魅力的な姿だ。

 ヴィオレットは両手を広げ、仰々しく告げた。


「今ならば、お前のものになってやってもいい。今ならば、間違いなく私はお前のことが好きだからだ」


 『今』を強調した女の言葉は、いかにも彼女らしくて嬉しかった。

 朝になれば解けてしまう、儚い恋の魔法かもしれない。しかしきっとまた、その魔法にかかってくれるだろう、そんな確信の持てる物言いだった。


「さぁ、私がお前のものとなる、最初の『儀式』を始めよう」


 女は長い髪を束ねると後ろに放った。夜着をはだけ、白く滑らかな胸元をあらわにする。

 だがラスティがより注視したのは、慎ましい胸の膨らみではなく、筋の浮き出た細い首。

 ごくりと己の喉が鳴る音で我に返った。同時に、ヴィオレットがなんのつもりで寝所に誘ったのか、そして自分がなにを望んでいるのかを明確に理解した。


「牙が、伸びているだろう」


 指摘され、気付けば口内に尖ったものが生じていた。舌で触ってみると、恐ろしく鋭い。


「ラス」


 再度の呼名。女は頭を傾け、左の首筋を見せつけてきた。それがとても稀有な宝であるかのように。その宝が欲しくば奪え、と言わんばかりに。


「いい、のか?」


 あらゆる状況下においても、同意は不可欠であろう。そう思って尋ねると、ヴィオレットの眉間にわずかな縦皺が現れた。


馳走(ちそう)を前に気後れするとは、なんたる惰弱」


 けれど怒りは微細。細めた目でしっとりと誘ってきているのは明白。落ちているショールを拾い上げ、もったいぶるように肌を隠す。

 ラスティは女の手首を掴み、ショールを払った。


「いい目だ」


 囁いたヴィオレットは、にやりとくちびるを歪める。それは、飢える者へ施す、支配者の笑み。


「一滴たりともこぼすなよ」


 女王は、傲然と言い放った。

 されど、その物言いは小気味よい。

 甘い夜の始まりに心躍らせながら、ラスティはヴィオレットの白く細い首へそっと口を寄せた。


 ――しかし、未経験者同士の初夜はそうやすやすと過ぎ行かなかった。


「痛い!」


 女王の悲鳴に、ラスティは慌てて牙を引き抜いた。

 おどおどしていると、酷烈な張り手が飛んできて、頬ではなくこめかみのあたりを打たれた。

 かろうじて倒れることなく踏みとどまったが、鈍い痛みに顔をしかめる。

 口元はヴィオレットの血に濡れており、もったいないとばかりに舐めとって飲み干した。


「なんたる拙劣(せつれつ)! いかに初事(ういごと)とはいえ、十四だった私のときより劣るとは!」


 畳み掛けるように怒鳴り付けられ、ラスティはただ狼狽(ろうばい)するのみ。

 ヴィオレットの怒りっぷりはなかなかのもので、握り締めた拳が激しく震えていた。


「一息で貫け! どうして半ばでためらった!」

「加減がわからなくて……」


 だから、ゆっくりと牙を沈めてしまった。『生肉』などかじったことはないのだから、その『食感』に戸惑うのも無理はない。

 ヴィオレットの白い肌には小さな傷跡が二つ。そこから赤いものが漏れており、ラスティの視線はどうしてもそちらへ引き付けられた。


「ほぉら、垂れている! 舐めろ! この私の血を一滴も無駄にすることは許さん!」

「は、はい……」


 それは願ってもないことで、悄然としたふりをしながら女の柔肌に口を寄せる。

 愛撫するように舌先で拭うか、口づけするように吸うか、どちらが彼女の好みだろうか。まぁ、無難なのは後者か。


 丁寧にくちびるで拭うと、くすぐったかったらしく、女はかすかな息を漏らした。その吐息には間違いなく甘いものが含まっていて、ラスティは胸をなで下ろす。


 ヴィオレットの皮膚には穴が開いてしまっているが、出血はあっという間に止まってしまった。

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