純潔を散らされた乙女のように
その日の晩、ラスティは扉の開く音で目を覚ました。
空気の冷え具合から、真夜中なのだろうとなんとなく察しつつ、訪問者に目を向ける。
ヴィオレットか、シェリルか、まさか幽霊というわけでもあるまい。まぁ、吸血鬼の城に住む幽霊、というのもなかなかに愉快なものだ。いるなら見てみたい気もする。
視界に映ったのは、右手に燭台を持ったヴィオレット。まさに幽霊のような佇まいで、正体がわかっていても、ラスティはぎょっとせずにいられなかった。
だが、左手に短剣が握られているのを視認した瞬間――むしろ、ひどく冷静になった。
――殺される……のだろうか。
先ほどの行いは、それほどまでに女の矜持を汚してしまったのだろう。
かつては『死にたくない』と願ったものの、この女に殺されるのならば仕方がない気がした。生命を与えた者が、それを自ら終わらせに来た、ただそれだけのこと。
女は音もなく歩み寄ってくる。
けれど、寝台脇の棚に燭台を置いたあとも、短剣が振り上げられることはなかった。
「……お前、後悔していない?」
ヴィオレットの口から、低い声が流れる。意図を察しかねたラスティは、目を丸くして女を見た。黒い瞳の中で、蝋燭の火がゆらゆら揺れている。
「人ならざるものになってしまった嫌悪や恐怖、悲嘆。……私を恨んでいるのではないか?」
続いたヴィオレットの言葉に、ラスティは寝たまま肩をすくめた。
「……そんなふうに思われているなら、とても心外だ」
死に瀕していたとき、そして助かったと知ったときの気持ちを思い出しながら、ゆっくりとヴィオレットへ告げる。
「俺は生きたかった。自分の生に何一つ報いることなく、天界や冥界なんぞへ行くのは御免だった。だから、どんな形であれそれが叶ったのは、俺にとってはとてつもない幸運だ。後悔や怨恨なんて、あるはずないさ」
しかし、女の憂いは晴れない。
「私の血を見たとき、我を忘れたでしょう。……『そんな生き物』になってしまったのに、本当に幸運だと?」
ヴィオレットの声はか細く、震えていた。ラスティはふと思ったことを口にする。
「他の誰かに、そんなようなことを言われたのか? 不幸極まりない、と嘆かれたのか?」
「…………」
女の瞳が揺らぐが、すぐに瞼が伏せられた。長い睫毛が、感情を覆い隠す。
ラスティの言葉は図星だったのだろう。けれどこれ以上の追及をすれば、きっとヴィオレットの心を傷付ける。彼女を包む雰囲気は、あまりに悲哀に満ちていた。
ゆえに、話題を元に戻す。
「もう一度言うけど、俺はこうして生きていられることがただ嬉しい」
言葉を切って深呼吸したあと、穏やかに告げる。
「だから、もしあんたが許してくれるなら、もっと生きたい。――『超越者』としてな」
手にした短剣は、どうか振り下ろさないで欲しい、そう希う。
だがラスティはこのあと、とんでもない思い違いをしていたことを知る。ヴィオレットが刃物を持って現れたのは、決して殺害のためではなかったのだと。
「……そう」
女は静かにつぶやくと目を閉じ、しばしなにかを考えたあと、切っ先を己の顎先へ向けた。
「その言葉に嘘偽りがないのなら……受け入れるがいいわ」
ヴィオレットはおもむろに舌を突き出すと、先端に刃をあてがい、ためらいもなく滑らせた。
痛ましさに顔をしかめたラスティだったが、あふれ出た血液を見た瞬間、釘付けになる。
――それが欲しい、ただちに欲しい。
そう思っていると、ヴィオレットに強く顔を押さえつけられ――くちびるをふさがれた。
「んんっ!」
あまりの驚きに理性が舞い戻る。だが味覚が血潮の味を察知すると、なにもかもがどうでもよくなった。
昼間ぶん殴られた教訓も忘れ、今度は女の指ではなく舌を舐る。大量の甘露が一気に雪崩れ込んできて、全身がすこぶる熱くなった。
けれど血の味はすぐに消え失せ、ただ唾液のみが双方を行き来するようになる。
戻って来た理性が、『傷が癒えてしまったのだ』と推測した。
ところが――ヴィオレットの口づけはとまらない。
糧を与える『食事』としてのキスはとうに終わり、いつしか熱烈な男女の営みが始まっていた。
リードしているのはヴィオレット。
いや、それどころか、ラスティは完全に圧倒されている。勢いよく覆い被さられて、すっかり押し倒される格好になっていた。
そうなれば女の独擅場。
飢えた獣が骨から肉を削ぎ取るような舌使い。そこから、初めて食すものの味を確かめるような繊細なキスへと変わり、再び貪婪なものになっていく。
強弱を巧みに使い分けるそのキスは、経験豊かとは言えないラスティには、いささか刺激的過ぎた。
ヴィオレットがくちびるを離したとき、ラスティは純潔を散らされた乙女のように、呆然とベッドに横たわっていた。口内には女の舌の生々しい感触がはっきりと残っている。
ほぅ、とヴィオレットが漏らした吐息はあまりに凄艶。目元もうっとりと蕩けていた。
「……すまなかった」
謝罪をしたのは、ヴィオレット。なぜ謝るのか、ラスティには意味がわからない。
「久方ぶりに、気分が良くなってしまってな」
と、ヴィオレットは口角をちろりと舐める。そのとき垣間見えた舌裏の筋さえ艶めかしい。
ラスティはただただ呆気に取られていた。『気分が良くなった』とは、一体全体、どういうことなのか。
言葉を喪失しているラスティに、ヴィオレットの不可解そうな視線が刺さる。だが突如、『ああ』となにかを悟ったような声をあげた。
「……まだまだ物足りないだろう。我々は治癒能力が非常に高い」
ラスティが目を見開いたまま押し黙っているのは、飢餓のためだと勘違いしたらしい。
「い、いや、だいぶ楽になった……気がする」
ラスティは慌てて身体を起こした。
猛獣の強襲のようなキスは、しばらくは御免蒙りたかった。心臓が破裂してしまう。激しいキスに慣れていないことを悟られるのだって、怖かった。
しかし、とっさの方便もあながち間違ってはいないようだ。数口ほどの血液を摂取しただけで、ずいぶん身体は楽になっていた。
「ラス」
投げかけられたその短い単語が、己の名であると理解するまで、ほんの少しの刻が必要だった。そういえば、この女に名を呼ばれたのは、名づけの儀式以来、初めてだ。
「ラス」
二度目の呼名。ヴィオレットの表情からは艶美なものは消え、ただ真剣な色があった。




